2023年12月21日木曜日

哲学に向いている人の条件

 哲学向き不向きについて考えていました。


哲学に向いている人の3つの条件


条件1 問いのズラしと遡及。

何か問いを出されたときに、哲学的な切り口の問いに変換させるのがうまい人

具体的には、問いの展開の仕方が、ズラしたり遡及したりすると哲学的な切り口に近い。(ニャローテさんが私の言葉をまとめ、かつ補足してくださいました。)


条件2 ペンディング

(哲学的な問いは、簡単には答えられない難問が多いため、)その問いをずっと考え続け、前進やときに後退をし続ける人。

(すぐに結論を出して、それ以上考えない人は向いていない。)

哲学とは、知っていることではなく、知らないことを自覚して知を愛し求めることだから。


条件3 常識との齟齬

多くの人がなんとなく常識として受け入れていることに関して、なんだかもやもやしたり、不思議を感じたり、異なる感性や考えを持っているためにズレを感じ、そのズレを大切に保持し続けること。

(リアルでの哲学友の意見)


関連ブログ

哲学とは何か↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2023/10/blog-post_24.html

2023年12月13日水曜日

本当に存在するのか??という問い

性別って本当に有るものでしょうか??

ある人がこのように問いかけた

肉体的な構造の違いはわかるけれど、社会的な男女差の記号は作られた絵空事に見えるとその人は言います。


性別って本当に有るものでしょうかの「本当に有る」の意味とはなんだろうか??


いまや、物質的なものだけが本当に有るという前提のもとで、それ以外のものは虚構だとして話は進むことが多いのではないだろうか?


例えば、お金は物質的な意味では存在しない。ただの紙切れを「それはお金だ」と多くの人が思い込むことによって、成立している。そして、それこそがお金の本質になっている。


法律も物質的には存在しない。警察や裁判所などの多くの人々の機構によって、あたかも存在しているかのようにみせることによって、そして、それのみによってそれは存在している。


すべては虚しい絵空事とも言えるが、虚しい絵空事ではないこととは何なのだろうか??


物質的に存在していることは絵空事なのだろうか?


それとも、それらのものを絵空事にしてしまいたいという精神がそうさせているとも考えられるのではないだろうか??


こうした物質のみが存在し、それ以外のものはすべて絵空事であるという考えに対して、哲学はあるのかもしれない。


などと、全然性別のことについてはまだ考えてないですが、このように思いました。

2023年12月12日火曜日

メディア(記録媒体)は記憶を退化させるか??

文字は記憶するためにある。文字にして残すことで我々はそんな昔のことまで再び読み返し、何度も書いて記憶することができるのだ!

 ところが、プラトンは逆のことを言っています。

書いたり、読んだりすることで記憶は逆に失われると。


正確にはプラトンのパイドロスを取り上げた「プラトンのパルマケイアー」というデリダの論文で取り上げられてあったのですが。

パイドロスの中では、ソクラテスがエジプトにおける文字の発明について説明します。

発明の神テウト神が文字を発明し、ファラオに渡しこう言う。

「王よ、この文字というのを学べば、エジプト人の知恵は高まり、物覚えは良くなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。」

すると、ファラオはこう答える。

「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植え付けられるだろう」

「彼らは書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられた印によって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる」

スマホができて、漢字が書けなくなる現象をこんな時代から予見していたとはw

で私がそれを知ったのは、石田英敬の本。


つまり、

石田英敬の本で紹介されたデリダの論文で紹介されたプラトンの著作の中でソクラテスが紹介したテウト神とファラオとのやりとり。


そしてまた、文字に対して否定的なのにたくさんの文字を残すプラトンw

だからこそ、何も書かなかったソクラテスにそれを言わせると言う装置を設置したのかなw

また、精神分析医ラカンもそれが念頭にあってエクリを書くことに億劫だったのかもしれませんw



現代の対話篇〜


現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」


プラトン「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」


2023年12月11日月曜日

天才の夭折について




 寺山修司が生きていたら、昨日(2023/12/10)で88歳だったそうです。

寺山修司は夭折し、鈴木忠志はまだバリバリ制作している。
モディリアニは夭折し、ピカソは長生きした。
ラファエロは夭折し、ミケランジェロは長生きした。

2023年11月24日金曜日

ルッキズムへの嫌悪する心はきれいか?

 ルッキズムへの嫌悪について。

容姿第一に考えている人が多すぎる。容姿ではなく、もっと心を評価すべきだ、という意見について。



私も、心が最も大事とは思います。

しかし、見た目もまた心に作用します。心とは総合的なものなのです。

臭いにおい、醜い顔、ゴキブリへの嫌悪など、生理的な嫌悪などはどうしようもない。



最近思うのは、心と肉体とが基本的にはひとつだと無意識に思われているのではないかということ。

「人は見た目が9割」という新書を見かけましたし、

また、年数が経つとよく笑う人は笑顔に、よく怒る人は怒った顔になると聞きます。これはまた心が行動に、行動が顔に表れてしまったのではないでしょうか?

まあ、見えるものは肉体なので、最初はそれで判断するしかないし、心が肉体に表れているというのも部分的にはあるのかとは思います。

しかし、例えばホームレスの容姿、地位、お金がない、臭いなどなどの嫌悪から、ホームレスは堕落しているとか、ホームレスは虐めてもいいなど酷いことが言われたり、実際にいじめがあったりもしますね。それはよくない。

しかし、それだけで判断するのはとても未成熟ですね。


心とはなんでしょうか?

心は見えませんね。

いろいろな諸条件から総合的に判断するしかない。

それは言葉?行動?

相手の言葉によって、判断しようとしても、嘘がつけます。

相手の行動によって判断するなら、長い付き合いが必要です。

そうすると、今までの行動としての経歴や長く付き合ってきた周りの人たちからの評価とかになってきたりしますね。

それでもわからない。


私としては、容姿だけを特権化しないで、すべてを含め総合的な評価が良いのかなと思います。


ここであなた自身の心に戻っていきます。

あなたが心を大切にするなら、醜いものを避け、見目麗しいものを好むという相手の心のことは大切にしないでいいのだろうか?

容姿はたまたま生まれてきた時、持ち合わせていた容姿がそれだったのでしょうが、心もまた、たまたま生まれてきた時持ち合わせていた心がそれだったのかもしれません。

そうした見た目なりで判断する人たちがいても、容姿の評価軸すべてを切り捨てるのも、見た目で決める人たちの心がわからないと切り捨てて、自分はそれとは違って心がきれいだなどと無意識に思うことも、また同じくらいに低劣だとは思いますね。

わかり合おうとしないなら。

2023年11月7日火曜日

お金か時間か?


 人生で大切なものについて取り止めもなく書いてみる。


人生で1番大切なものは時間かな


「人生の苦労を持ちこたえるには三つのものが役に立つ。希望・睡眠・笑い。」カント


なんであれ、ポジティブなのは悪くない。

とにかく、今従事しているそれを楽しむことが大切。

先日、参加した舞台の主催者は、逆境を楽しむ人でした。

本番前の集合時間に俳優がひとり来なくて、みんなでその穴埋めをどうするかを相談する時、「楽しくなってきたぁ!!」ってテンションあがってました。


時間があることが大切ではなくて、その時間をよく生きることが大切かな。


「時は金なり」

時間を金に変換している人が多い。

時給。


時間がなければ自由ではない。

自由でなければ、時間に意味がない。


自由を能力とも言い換えられますか?それを自分でできるようにするための力。


青年は、時間はあるが、能力も金もない。

中年は、能力も金もあるが、時間がない。

老年は、時間と金はあるが、能力が衰えてない。


逆に、金がなくて死んだ人も多い。

レクサスの新型モデルの工場の現場に入った若い派遣が、公開前のそれをSNSに写真であげてしまって何億もの賠償責任となり、その子は自殺、派遣会社の社長も自殺したという事件があったとか。


リストラや借金地獄で金の重みに耐えきれず死ぬ人も多い。


逆に10億もの借金を抱えていても飄々と生きていられるDJ社長もいる、


死はいずれ来るという意味では平等だが、

いつ来るのかは平等でない。

死が時期的に平等に来るのは、地球が死滅する時。

公平でもない。


“They say the good die young”

「善人は早死にすると言われる」


死もまた、金持ちには優遇する。清潔で遅く安らかに多くの人に見守られてやってくる可能性が高い。

貧乏人は孤独に汚く苦しみつつ死ぬ事例は多め。もちろん、いつもというわけではないが。


単純に衛生観念、病院にかかる回数、病にならないための日頃の生活水準の維持、そもそも健康に関する知識の差などなどから、総合的に差が開いてくる。


多くのことは意識を高く持てばお金なくてもできる。


しかし、お金がないと、お金に意識を向けなきゃならないから、それが疲れるよね。


お金持ちでもお金に囚われていたら、本質を見失い、お金の心配に振り回されてしまう、それはお金持ってるのに、貧乏な精神。


貧乏人は、お金がないことによって、よりお金を意識し、お金を追い回し、他の大切なことが見えなくなる。


お金は大事だけど、お金は1番ではなく、

お金があることと、お金より大切なものがあるという意識によってお金から”自由”になることが大事。

2023年11月4日土曜日

純粋理性批判の翻訳の定番はあるのか?






 質問: 純粋理性批判の翻訳の定番はあるのか?


研究者でなければ、誰の訳でもよいよ。そして、研究者なら、全ての人の訳を買い、ドイツ語を読めと言われるw


“transzendental“の翻訳は「先験的」か「超越論的」かで研究者も分かれている。「超越論的」のほうが優位にあるが。


質問: 岩波のはあまりよくないとか?

まあ、確かに、篠田訳は誤訳多いとは言われます。


わかりやすいと言われるのが、中山元の訳ですが、分かりやすくすると厳密性が失われやすくはなりますね。


天野貞祐訳もさすがは一生かけて訳しているだけあって、評価は高いですね。

(大学時代に、図書館でこの天野貞祐訳の本を借りるも、無くしてしまい、仕方なく弁償しましたが、後に見つかりました。冒頭の写真はその本。)


個人的には高峯訳がよかった。


定番はない、かな。


しかし、翻訳における有名な別れどころは、あまり重要ではなく、原語になっちゃいますね。

「先験的」だろうと「超越論的」だろうと、“transzendental“に頭で変換されてしまう。


むしろ、文構造や代名詞が指すものや意味解釈の誤訳のほうがやばいので。


「あれここ変だな」って思ったら、大抵、カント自身がやばい文章書いてるので、いろんな訳を参照したり、二次文献やコメンタール読んだり、原典や英訳にあたったりして、徹底的に追求するか、些末だと判断して無視して先を読むか。


結局のところ、

最初は、とりあえず、自分自身にとって手に入りやすく読みやすいやつが1番と思います。やはり中山訳かな。

一回読んだら終わりというものではないですし。正確だろうと挫折したら意味ないので。

中山訳でなかったら、図書館や書店でペラペラめくって自分に馴染むやつ…私の場合は天野貞祐でした。当時はまだ中山訳出てなかったし、高峯訳より前に読んで愛着が湧いてしまった。

こちらは純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判の3つが一冊になっている稀有な本。もちろんドイツ語。

なんで一冊にしたんだあああああ!



2023年11月3日金曜日

セザンヌを理解しよう。

これから言うことは反発を招くかもしれませんが、美術において、今では評価されているという理由で酷評することが禁止され、美術史に残っているから素晴らしいものなのだろうという前提でしか物を見れないならば、今後もノスタルジーに浸るばかりでもはや発展はないと思います。


セザンヌやアンリルソーで理解しなければならないこと。それは、彼らは絵が”下手”だということです。


私は喧嘩をしたいわけではなく、ちゃんと理解したほうがより味わいが深まる点を美術史を踏まえて述べたいので、ぜひこの先もお読みください。


セザンヌの絵画は、絵画を実際に描いて勉強するとわかるのですが、美大の試験に落ちます。「質感が全部一様で違いがないし、パースも取れていない」みたいに言われてしまいます。




実際に、セザンヌの絵を見てみましょう。ぜひ、実物を見てください。

単純に、セザンヌの絵を見ると、

布が布としての質感があるか?ない。

植物が植物としての質感があるか?ない。

林檎はましですが、基本的には一様なマチエルです。

パースがとれているか?とれていない。例えば、林檎の絵を見たら、落っこちそうである。

それがセザンヌが下手な理由です。


しかし、ピカソやブラックはそこに注目したのです。

ピカソは、「こんな下手な絵はどうやっても俺には描けないよ、逆にすごい!」と言って、アンリルソーやセザンヌの絵を積極的に取り入れました。


ピカソは子供のころから、上手い絵を描き、老年になってようやく子供のような絵が描けるようになったと喜んでいます。


逆転の発想!

サロンでは決して評価されなかったセザンヌとアンリルソー。


下手だと言うと、反発があるかもしれませんが、下手で他の誰からも見向きされなかったからこそ、ピカソたち天才に取り出されてこれはむしろすごい、とても異質で良いなという評価があったのです。

そして、それだからこそ、美術史には残るのです。単純にめちゃくちゃうまかった画家、例えばアレクサンドル・カバネルの作品は当時は絶賛されましたが、今では知っている人の方が少ない。

アレクサンドルカバネルはパースや質感に関してはしっかり描けているけれど、特に新たな観点もないので、美術史には残らないのです。


しかし、セザンヌはそういうことに関しては下手だったけれど、それゆえにこそ今まで上手い人たちが気づかなかった素晴らしいことに気がつかせてくれた。絵は現実ではなく、絵なのだから、質感が現実的でなくてもよいのだ、パースが狂っていても良いのだ!むしろ、それは絵にしかできない!!

キュビズムやフォービズムの誕生です。

私はセザンヌについてそこがすごいところだなって思ってるのですが、あなたはどう思われますか?


2023年11月2日木曜日

恋の幻想性を越えて




「コイって言うから、アイに来た。」


「恋は下心である。愛は真心である。」などと言われる。

恋は幻想である。では、愛は現実であるか?

恋は幻想である。愛も幻想である。

そして、言語で表せるすべてのものは幻想である。

しかし、すべてが幻想なら、その幻想そのものが我々が言うところの”現実”を作っている。


ただ、恋は恋に落ちてない者にとっては非現実味を帯びているものだから、その幻想性に気付きやすい。


夢は起きるから、それが夢だとわかる。だが、それは覚めた者から見た視点なのだ。


では、夢を見ながらにして、起きることはできるだろうか?


「心の損得を考える余裕のある自分が嫌になります」宇多田ヒカル『君に夢中』


最近では、目の前が見えないほどの情熱的な恋はなかなかない。みんな諦めている覚めている悟っている、恋は幻想なんだって。


恋は幻想だと思うことで、相手に踏み込むことなく、自分が傷つかないようにしているようにも見える。


もちろん盲目的な恋は危険だが。


しかし、勇気は出すべきではないのか?

恋に落ちた今の現実を生きるべきではないだろうか?


しかし、私だけの問題でもないのだ。恋愛には相手がある。

相手との関係性、それをどう築きあげていくのか?


恋の幻想性とは、ひとつの元型的な物語である。ロマンとは、元は長編小説を意味する。

物語にはいろいろあるが、典型的なのは、私を主人公とした物語の登場人物として相手が現れ一目惚れするというものだろう。

それは私の物語における登場人物に過ぎないが、しかし、だからこそ特別な存在になる、お姫様とか、運命の人とか。

偶然の産物が”物語”として必然化される。ロマンの誕生である。


そのロマンに相手に関わってもらう。相手という存在が自分にとって必然化されていく。


しかし、それが終わりではない。幻想としての恋が終わるところに、相手への本当の終わりなき理解の試みが始まる。


相手の欠点や醜いところ、自分とは合わないところも出てくる時、それをどう受け入れるのか?

そこに恋が愛に変わるポイントがあるのだろう。


相手への理解には終わることがない。しかし、相手を完全に理解したと思ったところに愛も終わりが来るかもしれない。


愛とは理性的な行為だろう。

好き嫌いには還元できない。好きなところも嫌いなところも含めて相手を相手として受け入れつつ、自分のことも認めてもらう相互関係に現実性がある。

2023年11月1日水曜日

笑う角には悪魔来たる

笑いとは、なんだろうか?

 おそらく、危険性(いじめ、差別、からかい、攻撃)と笑いとは常に紙一重に接している。

常に、笑いはこれ言ったらあかんやつを言って、それを冗談だと誤魔化すことでギリギリ攻撃性を隠してきた。

これが笑いであるという文脈に入れない人、攻撃対象それ自身に自分が当てはまる人、クソ真面目な人が不愉快になると、笑いの攻撃性が露呈し、悲惨なことになる。

これが喜劇から悲劇への転落。

悲劇から喜劇への逆転を行うのが映画「ジョーカー」🃏

「幼い頃、私が将来はコメディアンになると言うとみんなが笑った。しかし、コメディアンになった今、誰も笑ってくれなくなった。」映画『ジョーカー』より

→これから俺がおまえたちを笑う番だ!

こうしてジョーカーは誕生する!

笑う側は、(無意識のうちであっても)笑われる側を傷つけているから、笑われる側からするとどうしても悪魔に見える。

意識的に笑うなら真の悪魔たるジョーカーだが。 




2023年10月31日火曜日

自由に読もう
















 私の読書方法の勧め。

もっと自由に読め!


途中から入ってきてすでに流れている会話の空気は読まなくていいのです。同じ質問でもしちゃっていいのです。文脈断ち切ってもいいのです。何の話してるのか聞いたらいいのです。読み飛ばしてもいいのです。もちろん、できる限り読んだ方が“より良い“かもしれませんが。義務ではない。


読書もそう。個人のものなので、読まなくて良い。むしろ、読めないようなどんな読み方をしても良い。


読まずに眺めながらめくる。

気になる目次のページだけ読む。

後ろから読む。

斜めに読むと「うんこ」と読めるところを探す。

クソ難しい熟語だけ探して読む。

最初だけ読んで、あとは本を閉じて勝手に妄想する。

いちゃもんつけながら読む。

ツッコミながら読む。

音楽を聴きながら、音楽に合わせて読む。

ヒップホップのビートに乗せて、朗読する。

かっこいい文を見つけて描き抜いて暗記する。

この章だけを完璧に読解する。

写真は文喫に行った時のもの。2023/02

関連ブログ 安部火韻の哲学との出会いと読書術

https://iranaiblog.blogspot.com/2024/01/blog-post_25.html


2023年10月25日水曜日

映画アマデウスとドン・ジョバンニ





 映画アマデウス

私だけがモーツァルトの天才を分かっている。

なんて悔しいんだ!

他の人はみな私のことを評価していて、モーツァルトの天才性を理解していない。

だからなおのこと悔しい。

あまりに悔しくて、モーツァルトを私だけのものにしてしまいたい!


みたいな映画だった気がします。


あと、歌劇ドン・ジョバンニと映画とが掛け合わされていた気がします。

ドン・ジョバンニとは、ドンファンのこと。

次から次に女性をたぶらかすヤリチンが懲らしめられる話で、


原型はスペインのティルソデモリーナという僧侶の「セビリヤの色事師と石の客人」

ドンファンはたぶらかされる女性の父親を間違って殺してしまうが、父親は石像としてやってきて、最後は懲らしめる。


ところで、モーツァルト自身もドンファンのようなヤリチンである。

そして、脚本のそのこらしめる父親がモーツァルトのイメージでは、モーツァルト自身がとても恐れている厳父で、そのイメージで歌劇ドン・ジョバンニを作った。

サリエリはこれを利用して、モーツァルトを苦しめる。


劇中劇が入れ子になっているところがおもしろいところのひとつだった気がします。

映画の中の舞台ドン・ジョバンニでは、

ヤリチンのドン・ジョバンニが死んだ騎士団長(ヤリステされた娘の父)の石像に苦しめられる話。


映画アマデウスでは、

ヤリチンのモーツァルトが死んだ自分の父に化けたサリエリに苦しめられる話。


同じ構造のものが中にも外にもある。入れ子構造。


ちなみに私は来年2024年、「セビリヤの色事師と石の客人」でスペイン公演するかもです。端役ではありますが。ゴールデンウィークには愛知公演もあります。

実はコロナでずっと延期していたもので、下のチラシは当時のもの。来年のチラシはでき次第お知らせします。



関連ブログ: 破滅へいそぐドン・ファン ~フロイトの人間像とドン・ファン像、そして過剰なもの、表現~


2023年10月24日火曜日

哲学とは何か?

 哲学とは何か?


哲学はギリシャ語でフィロソフィアと言い、知を愛すると言う意味である。


これを考える時、始めやすいのがソクラテスの無知の知だ。


聴いたことあるだろうか?


2023年10月9日月曜日

そもそも「この世界が仮想世界である。」とは、どういうことを意味しているのだろうか。

 そもそも「この世界が仮想世界である。」とは、どういうことを意味しているのだろうか。

仮想現実とは、「現実のように感じる仮想」、「現実性、現実感、realityを持った仮想」のことを指していると思われる。

仮想とは、実際には存在しない事物・現象を想定(想像)して、仮にあるものとして考えること。つまり、仮想とはsimulation を意味する。(ラテン語でsimulacrum は蜃気楼、像、偶像、幻影、幽霊、空想、模倣などの意味がある。)

他には例えば、仮想敵国は英語で、 hypothetical enemy であるが、 hypotheticalとは hypothere (仮説)

であり、古代ギリシャ語ὑπόθεσιςが語源である。また、仮説という意味の他、前提という意味もある。

仮にその言明を前提にして話を進めるのが仮説である。似ているという意味合いが強いsimulation よりも、 hypothesia の方が仮想の意味により合致しているかもしれない。

しかし、通例では、仮想現実とはバーチャルリアリティ( Virtual readity )の訳語である。 virtual とは元々は仮想という意味ではない。

その語源や意味を調べてみよう。

2023年9月19日火曜日

狂人とは理性を失った人間のことではない。

チェスタトンの格言

「狂人とは理性を失った人間のことではない、理性以外のあらゆるものを失った人間のことである。」

これには二つの意味があるかもしれないと考えてみる。


ひとつはどこまでも理性によって合理性で突き進んでしまう場合、パラノイアや陰謀論者は実は極めて理性的だと言われる。彼らの中では合理的に説明がうまくつながり結びついている。

最近、現代形而上学論集を読んでいるけれど、そこでも同じような感じだ。そこでの論者は、ここに猫が一匹いるのに、少なくとも1001匹いることになってしまったりすると論じたりしていた。

ある意味では、理性ゆえに現実という大地から離れてしまっている。

適切性がない。論理的ではあっても、現実に生きている人々の視点などが無視されたりする。


一方で、その正反対、極めて良識的すぎるという意味で理性的な狂人。ダスマンかも?しかし、その良識があなたが生きているその時代のその場所のあなたの生きている界隈での社会感覚において良識的理性的ということであって、文化相対的なのだが、それに気がつかない場合。

“私の思うこの良識”が絶対だと押し付ける。

フーコー的な考え。近代科学の発達過程における理性概念によって、自分達と異なる人、狂人、すなわち反常識的、非理性的な者は、病気であるとされ精神病院に封じ込められた。理性的な振る舞いを強要することに何の疑問も持たない。狂気を病気とする考えも狂気かもしれない。


伝統的には

前者が認識に関わる理性

後者が実践に関わる理性

その二つをカントは混淆するからややこしいのかもしれない。

2023年9月16日土曜日

事実factと真理truthは違う



 「考古学で大事なのは事実だよ!事実!真理に興味があるならば、タイラー先生の哲学科は廊下をまっすぐいったところだ」インディジョーンズ


事実factと真理truthは違う

三角形について、その内角の和は180度というのはひとつの真理。

目の前のおにぎりの内角の和を実際に分度器で測ればそれは事実。

真理は、それがこの世界には事実として存在しないものでも扱える。

例えば一億八万角形とかについて、その内角の和だって計算できる。それは真理だが、事実としては、一億八万角形がこの世界になくてもよい。ただ、真理であるならば、事実としても存在する可能性は秘めているだろう。


彼は浮気をしているかどうかを確かめることは個別的であり事実に関することだが、あらゆる男は浮気をするか?となると真理をもとめていることになる。

2023年9月15日金曜日

中庸とは適切さを探ること

すべてが理想論で片付けられるわけでもなく、すべてが現実主義で片付けられるわけでもない、それが人間。その時々、個別的な事例で適切さを見ていく。

また、生まれながらに善性も悪性もあり、人によっては善性のほうが多かったり、悪性のほうが多かったりもする、そしてまたそのどちらでもない領域もあって、環境や教育によって変わりうるような余地もある。

そんな感じではないでしょうか?

アリストテレスが言っていた中庸ですが、中庸とは中間を取れということではなく、その時々の適切さを実践していくことではないのかなと考えたことがあります。

「勇気」とは、「無謀」と「臆病」の中間ではなく、少し「無謀」に傾いている。その傾き加減が大事。


とにかく最初から先入観で「性善説だ」「性悪説だ」「現実主義だ」「理想論だ」とあらかじめすべてを片付けるのではなく、一旦それらの考えは置いておいて、個別具体的に起きている現象を見ていき、その時々の適切な対処を考えるということが大切よね。


他にも、大食は七つの大罪のひとつですが「食べるな」という意味ではない「食べすぎるな」という意味。


今まで生きてきた中でいつもぶつかるのは程度の問題ばかり。どの程度が適切なのか?妥当な落とし所は何か?

ある意味、政治的。

「人間はポリス的な動物である」とは言ったものだ。

実際に妥当な落とし所を探って行かなきゃならない。それはある意味では現実的。

だからといって、理想を捨てているという意味ではない。

常に理想はそこにある。なぜなら、人々は理想を求めてもいるから。理想を求めるからこそ、理想との乖離に絶望したり、諦念したりする。

そうしてまた理想に近づこうとし、幾分や多く達成させる人もいる。

そうでなければ、ここまでの文明発展もないだろう。空を飛びたいという理想なしに、わざわざあんなめんどうなものを作って事故ってまた改良して空を飛ばないだろう。


理想に近づく技術と道徳。

しかし、技術は歴史的に蓄積するが道徳はなかなか歴史的には蓄積しないというのがふたつの違いだろう。道徳はなぜか個人で終わり、次世代に伝えることは技術に比べると難しい。

2023年9月14日木曜日

不可知論について考える前に「知る」の意味を考えるべし

不可知論とは何か?


不可知とは「知りえない」「知ることが不可能」ということである。


不可知論を語る前にまず「我々は何を知りうるのか?」「「知る」とはどういうことなのか?」を考えなくてはならない。


最初から不可知について考え始めてしまうと、知りえないことはそもそも知りえないのだから、それは私にとって存在しないのと同じことだ、でよくよく考えもせず終わってしまうこともあるからだ。


不知は知らないことで、不可知は知りえないことで、未知とは未だ知らないことだが、無知とは「知る」ということがよくわかっていないのにああだこうだ述べることである。

2023年8月23日水曜日

経験から学問へ -アリストテレスのエピステーメー-

 エンペイリア(経験)とエピステーメー(学問)との関係

経験について、アリストテレスの「形而上学」の冒頭から説明しようと思う。


まず、なんらかの感覚がある。

すき焼きを食べる。その色とか、その匂いとか、その形とか、それを焼く音とか

しかし、感覚だけでは経験とは言えない。


続いて、その感覚の過去のものを保持しておくもの、つまり、記憶がある。

あのときの色や形や匂いや音を凝縮して「すき焼きを食べた」というひとつの出来事にまとめ、「あのときすき焼きを食べて美味しかったな」と。

しかし、記憶だけでもまだ経験とは言えない。


そのうちに「これこれのときにはこういうふうにするのが良いのか!」という何らかの意識的な気づきがある。これが経験である。

「すき焼きにはやっぱり牛肉の新鮮さが大切」とか


そして、そのエンペイリア(経験)を介して、人はテクネー(技術)とエピステーメー(学問)とを身につける。


技術とは、経験から似たような事象を見つけて、一つの普遍的な判断が作られるときである。

経験とは、個々の実際の場合における判断を可能にするものである。


しかし、確かに経験から技術は得られるが、技術は、「すべてのこれこれに対してしかじかの処方が効く」というようなものであって、その経験がなくとも概念的に原則が得られているなら、それでもよい。


それ故、医者になる者は実際にさまざまな治療にあたることで医者としての技術を磨くものの、それ以前に医学書でこれまでの知見をすべて踏まえる必要がある。

医学書の知識なしにいきなり人体実験からはしないのである。


歴史もまた同じである。歴史は学問であるが政治技術としても使える要素がある。政府は自分達の個々の個人的な例えば経営経験に基づいて政治を行い、それで国家で失敗すると大きな被害を被るが、その前に歴史で似たような事例をたくさん知っておくことで、歴史上の失敗をなるべく繰り返さずに済む。


そしてまた、経験家は「ものごとがそうある」という事実は知っているが、「なぜそうあるのか?」については知らない。

それゆえ、経験だけの人は「その場合にはこうすればよい」ということは言えても、「なぜそうするのか?」ということについては人に説明できない。


しかし、技術がそれが技術であるならば、その原因、および目的、本質(形相)、素材(質料)を探究し、知っていなければならない。


そして、そうした技術は大抵は何らかの生活の必要のためのものであるが、生活に必要なものが大体揃えば、今度は今まで得た知をより深めようと、さらに深いが故にもはや生活に必要でない領域に対しても「知りたい」と探究されることがある。

そして、この楽しい暇つぶしがエピステーメー(学問)である。

しかしながら、アリストテレスは学問は生活の役に立つものでないからこそ尊いのだと言う。

なぜなら、そうした知が生活の役に立たないのは、知が生活のための道具ではなく、知そのものが目的だからだ。

関連記事:アリストテレスで考える万年筆の有用性↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2020/09/blog-post.html

2023年8月22日火曜日

差異と同一性、そして多様性

 同じことは同じだが、違うところは違う。という同語反復(トートロジー)(最近では小泉構文というらしいが)

世界中にマクドナルドがあるから、世界の多様性がないと言われたりする。

しかし、マクドナルドという点では同じだが、そのマクドナルドには地域性が完全にないほど同じかというとそうでもない。

アメリカのほうが日本よりパティが大きかったりして、そういう違いが出てくる。

それも、マクドナルドによって浮き彫りになる地域性のひとつだろう。


かと言って、その程度の差異に着目して多様性が保たれていると言うこともできない。

やはりそれらはどこにあろうと地域性があろうと同一のマクドナルドである。認知として同一のものとされる傾向が強い。


世界中をマクドナルドだけでなく、バーガーキングとモスバーガーとロッテリアの四つが席巻したとしても、こう言われうるだろう。

「世界がファストハンバーガー屋ばかりで多様性がない。」と

多様性ってなんなのか、複数あるから多様ではないのか?


しかし、ここに吉野家とすき家とまつやとを追加しても同じだ。

「世界がファストフード店ばかりで多様性がない。」


逆に静岡県に限定して考えよう。

さわやかハンバーグばかりで静岡県内での多様性がないといえるかもしれない。

しかし、この統一感によって静岡県のブランド力となる。静岡県の特色と。

それが全国的に展開されると、日本といえばさわやかハンバーグになるかもしれない。日本の特色と。


ある人が私に同意すると、その人と私の意見が同一ということになるが、そこにまったくの差異がないかというとそうでもない。掘り下げていけば差異は明らかになる。


マクドナルドがもはやアメリカのものというより、世界中のものという認識になれば、それはもう国民性ではなく、人類性?



選択の多様性において

傘には非常にさまざまな種類の柄がある。それは確かに多様である。

しかしながら、例えば、すげ笠や蓑という選択肢は残されていない。ほとんどは西洋の傘しかない。

まあ、レインコートもたまにあるけれど、ほとんどは傘の一択☂️

それがマクドナルド。マクドナルドにも地域性があるからといって、マクドナルドだけで良いというわけでもない。


そしてまた、マクドナルドという選択肢がいつもあるのは、その選択肢があるから選択され、選択されるからその選択肢がある。ということだろう。


そして、問題は人が金を使う配分である。

金がないわけではない貧乏人において、

食事に金を使いたいという人はマクドナルドは、チェーン店はあまり選ばない。その代わり、服はユニクロやGUかもしれない。車は軽かもしれない。


服に金を使いたいという人は、ユニクロやGUは選ばない。その代わりに、食事はマクドナルドや吉野家、車は軽かもしれない。


車は軽は嫌だという人は…


このような形で、金持ちではない人は金の配分をこういう形にすることが多い。自分としてはそこまでこだわりはないけれど、必要なものは、便利で安くて手軽なものに限る。

すると、便利で安くて手軽なものを作る企業が増えるのだろう。コンビニとは便利という意味だから。


国家は、常に国家化し続け、同時に脱国家化し続ける。

マクドナルドは、常にマクドナルド化し続け、同時に脱マクドナルド化し続ける。

同じものは同一化し続け、同時に差異化し続ける。


2023年8月18日金曜日

永劫回帰か?万物流転か?

 全ての現象は一回こっきりとも言えるが、全ての現象は何度も起きているとも言える。


例えば、🎲

サイコロをふって、一の目が出た。

もう一度サイコロを振って、また一の目が出た。

最初に出たサイコロの目は次に出たサイコロの目と全く違っているわけではないが、微妙な点で違っている。

「違い」というものは「同じ」土台の上でしか認識できない。

理性はその「違い」と「同じ」を見極める力である。

「サイコロの目はともに一の目である」という点では、両者は全く同じである。

しかし、同じサイコロの一の目であるからこそ、両者を比べて微妙な差異を見出すこともできる。


一切は同じだ。

一切は異なる。

それは同じもののふたつの側面について言っているだけなのだ。


ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスのときから言っていることだ。

「同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。」

2023年8月17日木曜日

ビッグモーターとマルクス主義

質問: マルクス的視点から見て、ビッグモーターの問題はどのように解決されるべきと思いますか?


そもそも法を守っていないブラック企業に対しては、マルクス主義うんぬん以前に資本主義においても良しとされない。


ビッグモーターは顧客に対し、事故の形跡がある車を隠して販売した。


ビッグモーターは顧客の車に穴をあけて損害保険会社に保険金を不正請求していた。


ビッグモーターは公共の場所に対し、除草剤を労働者にまくよう指示した。


ビッグモーターは労働者に対し不祥事にかこつけて給料を払おうとしなかった。少なくとも遅れていた。


これらが法を守っているとは言い難いと思います。ただ、私も法律にそこまで詳しくないので、詳しい方いればご指摘ください。


逆に言えば、資本主義だろうとマルクス主義だろうと、そもそも法を守らない人がいれば、どんな仕組みの社会だろうと成り立たない。


法を遵守しているのに、賃労働において問題があって、それを解決しようとするひとつの方法がマルクス主義であって、そもそも法を遵守していない企業は、問題とならない。

2023年8月15日火曜日

学生時代にやっていたラカン読書会

「 他人の眼差し」という概念への注目は、フランスの哲学者サルトルから始まったのかなって感じがします。

その後、ラカンによって精神分析の基本概念のひとつとなり、レヴィナスの「顔」となる。


思えば、学生時代にラカン読書会を開いたとき、無償でしてくれた指導教官はサルトル研究の教授でした。


ドゥルーズにハマっていた学生と、カントを勉強してた私と、サルトル研究の教授、3人合わせて文殊の知恵w


ラカン読書会ではフランス語とドイツ語と英語参照しながら、エクリを読んでいた。

ある日、ある一文に何十分も費やしたあげくに、

「あ、これただのギャグかよw」

ってなったことがありましたw

フランス人が聞いたらこれぞ日本人の典型だと馬鹿にされるような話ですw


〉それって、最優秀インテリさん揃って、江戸時代に杉田玄白等が解体新書訳してたときとおんなじかもしれません。

杉田玄白たちは、解体新書を翻訳するとき、顔の真ん中で隆起しているもの という記述を、不完全な辞書でようやく単語調べて、これなんだろう、、と散々悩んで、「鼻」かよ、てなったような話があります。日本語と西洋語の関わりはそんな感じで始まったようです。


ラカン読書会にいそしむこの3人は当時、非モテ・インテリでしたのでw

解体新書は身体についてでしたが、我々は精神についての解体新書とも言うべきもので、

こうして、高い鼻👃がへし折られ、我々の精神が解体あるいは分析されたわけであります。

2023年6月27日火曜日

人生諦めてないか? 〜ハイデガー、キルケゴールの哲学〜

 私が本当にしたいことは何か?

私が私自身になれているか?

私自身になることを諦めて、人生、我慢してないか?


実は、そういうことを前期ハイデガーは問いている。と私は思いました。


来世を信仰する宗教においては、今現在、私が満足しているかどうかは関係なく、それを来世に先延ばししてしまう。


キルケゴールは、この来世への先延ばしが約束されないということを絶望と表現しました。

絶望こそが、死に至る病です。

来世を約束されているならば、死んでも、死には至らないわけですが、絶望とは、来世を約束されないことを意味します。だから、キルケゴールは死に至る病は絶望であると言いました。


来世を信仰する宗教は、今も、無宗教者と言われる人たちに、より悪い形で蔓延している。前期ハイデガーはそう読み取っているようでした。

それは「今はまあまだいいか」「こんなもんでいいか」という先延ばしよりひどい精神です。

みんなそういう言い訳を自分にして、なんとなく大衆に流されて、本当はやりたくもないことをなぜかとりあえず中途半端に嫌々やるハメになっている。


それを前期ハイデガーは言及していて、将来に来る死を自覚することで、絶望し、絶望することで、なら、今しか私が私自身になる時はない!という意味で、本来的な自己に至るきっかけになるのだと考えました。


キルケゴールは絶望と言ったが、ハイデガーは死への不安と言った。

そして、その不安は沈黙という良心の呼び声を生じさせる。


それは沈黙なのだが、「本当にやりたいことをあなたは後回しにしてない?本当にそれでいいの??」という呼びかけなのである。


そんな感じで読みました。

2023年6月20日火曜日

そのメッセージは誰に宛てられているのか?

 郵便

「きっと目にうつる全てのことは メッセージ 」荒井由美


あなたが読み取ったあらゆるメッセージの宛先はあなたにある。なぜなら、あなたがそれを受け取ってしまったから。

2023年6月9日金曜日

一旦、レッテルを貼ろう!?

多くの物事は複雑で、理解するのには時間がかかるし、そのため人にそれを正確に説明して伝えるのは難しい。


だからこそ、

一旦、軽いレッテルを貼るのは有効かなって思います。

一旦レッテルを貼ってから、そのレッテルと本体とのズレを見ていくというか。

私は何者かって聞かれるとき、「個展やるほどには絵も描くし、書も嗜むし、カラオケパフォーマンスしつつアングラな舞台の俳優もやって、カント哲学で書店で講義をすることもあり、また、FMラジオのパーソナリティもしてたことがある映画好きです。」と言っても「はい?結局何者なの?」ってなる。それよりは「舞台俳優です」ってレッテルをつけてもらうように答えてから、話していく流れで「実は哲学もします」とか答えていってレッテルとのズレを顕にしていくというか。

そのほうが相手、読者、受け手に伝わりやすく良いかなと。

2023年6月3日土曜日

カント哲学 「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従っている。」

 カント哲学

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従っている。」


例えば、生まれた時から一生外せない赤い色眼鏡をつけた人間。彼は物を見ると、すべて赤く見える。したがって、「すべての物体は赤い」と考える。

しかし、本当に赤いかどうかは色眼鏡を外さなければわからない。

これは譬え話だが、


人は、時間、空間、概念、(および論理)によって何かしらの物を認識する。

だから、時間、空間、概念、論理がその何かしらの物(認識の対象)に備わっているのだと勘違いしているのだ。

しかし実はそうではなく、時間、空間、概念、論理という認識の枠組みが人間にあって人間はそれでしか認識できない。

だから、すべての物体はその認識の枠組みを通して、時間、空間、概念、論理的に整合性のある物として見えている。

いわば、時間、空間、概念、論理という色眼鏡をかけているのだ。

考えていない人も考えている

 「人間は考える葦である」パスカル


「大方の人間は考えていない猿である。正確には、大方の人間は浅いところまでしか考えていない。そして、この考え自体が浅い。私もそう深くは考えていないで適当に言ったのである。」

カイン


もちろん、哲学に携わらない人でも常日頃から考えています、瑣末なことを。


誰かに向かって「君は考えていない」と言うとは、言った人が思う「考えるべきことを考えていない」というのが含まれているように思われます。


哲学に携わっていても、カントやらニーチェやらについては考えても、それを自分の人生に引き寄せたり、もっと重要なことについては考えていないかもしれない。


しかし、重要なことというのは人によって変わる感じもします。もちろん、ある程度は絞られますが。

考えるべきことはある人にとっては「自分の家族」について考えることなのかもしれないし、将来の身の立て方かもしれない。しかしそうすると、国家のことか、地球のことかは大き過ぎるがゆえに考えても意味のないことかもしれません。しかし、別の人にとっては逆で、そんなに身近なことよりも、国家のこととか地球のことを考えるべきと思うかもしれない。など

2023年5月22日月曜日

勉強量のはかりかた?!

 かつて恩師に言われたことですが、

「量を読むことで、質がついてくる」と。

要らないものもたくさん読め、読まなければそれが要らないともわからない。

そうして、たくさん読んで考えることで、次第に読まなくていい本がわかるようになっていき、良質な読書となっていくとか。

カントを読むのに、読む前からどの翻訳がいいかとか考えない。一回読んで、別の訳で読んで、原典で読んで、誤解を取り去りつつ、理解を深めていく。


一方では、私の知り合いには、ずっと軽い本しか読めない人もいました。読書量が多いのに、ラノベみたいのばかりだから、なぜか全然、国語力がつかないと言うw



ところで勉強量とはなんでしょうか?


量というからには、簡単に考えると、論文と本の冊数とかではないでしょうか?

質ではなく、あくまでも量という。

量というからには、具体的に数値化して計れることが重要になってきます。

何ページ読んだのか。もちろん、読まなくてもいいものがほとんどかもですが、それらをも含めて数に入れて量と言えるのかなと。


私は、一応、質はおいておいて、量だけにするなら、としました。


カントをベースにした私の考え方なのですが、


例えば、色に関して、本当に繊細で文化的で一部の繊細な人にしか味わえない色彩感覚というものが「質」としてあったりしますが、これを単なる「量」に還元すると、彩度がいくつとか、明度がいくつとか、色相とか、数値に還元して「量」にして測るのです。


質は主観的で比べたりすることは難しいが、量なら比べられて、量は対象(客観)に関わっているために、客観的に妥当性があると言えてしまう。(もちろん、方法として妥当なだけで、実際に妥当かどうかはひとつひとつ個別に吟味する必要がありますが。)


そんな感じのことを、カント自身はどこまで考えていたかよくわかりませんが、私はいろいろ読んでカントや他の論文などを参考に考えたことがありました。


2023年5月12日金曜日

メタとは何か?

 「メタ的な」とか、「メタ表現」など「メタ」という言葉を「超越的な」という意味で使う人がいる。


しかし、正確には微妙に違う。


2023年3月20日月曜日

時間の無駄を無駄のままにしておくこと





「問題
   —時間を無駄にせぬためにはいかにすべきか。
答え
   —時間の永さを残りなく味わうこと。
方法
   —日々を歯医者の控室で坐り心地の悪い椅子に腰掛けて過ごすこと。
日曜の午後を自分の部屋のバルコンで暮すこと。
自分にわからない国語で行われる講演を聴くこと。
最も長く且つ最も不便な汽車の旅程を選び、勿論立ち通しで旅行すること。
劇場の切符売場で行列を作り、しかも切符を買わないこと、等々・・・・」。
カミュ「ペスト」




先日、こんなタイトルの本を見つけた。
「何もしない」
原題は”How to do nothing „


「何もしないでいることほど難しいことはない。
人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され、占有されていることに気づいている。
私たちは数値評価を得るべく自由時間を差し出し、たがいのアルゴリズムと交流し、個人ブランドを維持する。
なかには、実体験のすべてを能率化、ネットワーク化することにエンジニア的満足感を覚える者もいるだろう。
とはいえ、刺激が多すぎて思考の流れが維持できなくなるかもしれないというある種の不安は残る。
意識からふと消えてしまう前にそのような不安を捉えるのはたやすいことではないが、
実のところそれは差し迫った感情なのだ。 
人生を意義あるものにしてくれるものごとの多くが、
偶然のできごとや、妨害、セレンディピティに由来すると、私たちは今でもわかっている。
それは、体験を機械的に処理する視点が排除しようともくろむ 「なんでもない時間」だ。」

1ページ目はこのような感じだ。


スポンジボブというカートゥーンを思い出した。













 蝉が無意味に鳴いている。

本当だ。蝉が無意味に鳴いている。

ミーンミーンミーンミーンミィー

Mean mean mean mean meaning!


尻上がり寿の「真夜中の弥次さん喜多さん」の舞台版より






2023年3月19日日曜日

ゴルギアス 存在も無も「何もない」(笑))(断片より書き抜き)

 ゴルギアス

「無について、もしくは自然について」

論題の第1「何もない」

もし何かがあるとすれば、それは存在があるか、無があるか、あるいは存在がありまた無もあるかのいずれかである。

しかるに、存在がないことは、これから議論が証明するところであり、また無があるのでもないことも、議論の確証するところであり、また存在も無も双方ともにあるというのでもないこと、これも議論の知らしめる通りである。

したがって何かがあるということはない。


さて無はありはしない。なぜなら、もし無があるとすれば、あると同時にありもしないということになるからである。無とはありはしないものだと考えられるかぎりにおいては、それはありはしないが、無があるならばそのかぎりでは、今度はあるということになる。だが、何かがありかつありはしないということは、どうみても不可思議である。


さらにもうひとつ別の議論として、もし無があるならば、存在はありはしないことになろう。存在と無とは正反対なのであって、もしあるが無に帰属するなら、あらぬが存在に帰属することになるからである。だが、存在がありもしないということはない。そうだとすれば、無があるということもないのである。


また存在があるのでもない。というのは、もし存在があるならば、それは永遠のものか、あるいは生成したものか、あるいは永遠であってしかも生成したものであるかである。だがそれは永遠のものでもなければ、生成したものでもなく、またその両者でもないことは以下でわれわれの示すとおりである。したがって、存在はありはしない。


さて、もし存在が永遠のものであるとするなら(まずここから出発しなければならない)、何か始まりをもつということはない。なぜなら、生成するものにはすべて何らかの始まりがあるが、永遠はもともと不生であるのだから始まりはなかったのである。しかるに始まりがなければ、それは無限である。無限であれば、それはどこにもない。なぜなら、それがどこかにあるとすれば、それがあるところの場所そのものはそれ自身とは別になり、そのようにして存在は何かに包囲されることになって、もはや無限ではなくなるからだ。実際、包囲するものは包囲されるものよりも大きく、一方、無限よりも大きなものはないのだから、したがって無限がどこかにあるということはない。またそれがそれ自身に包囲されているということもない。というのは、その場合には同じものが包囲するものと包囲されるものになり、存在が場所と物(というのは、包囲するものが場所であり、包囲されるものが物だからである)という二つになってしまう。だがこれは摩訶不思議である。とすれば、存在がそれ自身に包囲されているということもない。

こうして存在は、もしそれが永遠ならば無限であり、無限であればどこにもなく、どこにもないのならば、それはないのである。したがって、もし存在が永遠であれば、それはそもそも存在ではない。


しかしまた存在が生成したものであることも不可能である。というのは、もし生成したのであれば、存在から生じたか無から生じたかのいずれかである。しかし、存在から生じたのではない。なぜなら、存在からであるならば、生じたのではなく、もとからあるのだからだ。また無から生じたのでもない。なぜなら、無は何かを生み出すことができないからで、それは生み出すことのできるものは必ず何らかの存在性をそなえていなければならないからである。してみると、存在は生成したものでもない。


また同様に、その両者、永遠であって同時にまた生成したもの、でもない。というのは、それらは相互に他を破壊する両立不可能な関係にあり、もし存在が永遠ならば、生成したものではなく、また生成したのならば、永遠でもない。こうして、存在が永遠でもなく、また生成したのでもなく、さらにその両者を兼ね備えたものでもないとすれば、存在はありはしないことになるだろう。


さらに、もし存在があるのだとすれば、一であるか多であるかいずれかである。だが、一でも多でもないことは、以下で証明されるとおりである。したがって、存在はないのだ。


すなわち、もし一であるなら、不連続な量であるか、連続体であるか、大きさを持っているか、物体であるかである。だがこれらのいずれであろうと、一ではない。不連続量であれば別々に分けられるし、連続体であれば切断される。同様に、それが大きさをもつものと考えられると、不可分ではなくなる。また物体であれば三次元のひろがりをもつだろう。長さと幅と奥行きをもつからである。しかるに存在がこれらのいずれでもないと言うのは、摩訶不思議である。したがって、存在は一ではない。


また多でもない。なぜなら、もしそれが一でなければ、また多でもないからである。多は一つ一つあるものの集合であり、それゆえに一が抹消されれば、多もそれとともに抹消されるのである。

存在があるのでも無があるのでもないことは以上から明らかである。


また両者、つまり存在と無とがあるのでもないことも、容易に推論される。というのは、もし無がありかつまた存在があるのなら、あるという点で無は存在と同一になるだろう。そしてそのゆえにいずれもありはしないことになる。なぜなら、無がありはしないというのは合意事項であり、他方これと存在が同一となることはいま証明された。そこで存在もありはしないのである。のみならず、存在が無と同じであるならば、両者がともにあるということもできない。なぜなら、もしそれが両者と数えられるならば、同じものではないし、またもし同じものならば、両者ではないからである。


ここから帰結するのは、何もありはしないということである。というのは、存在があるのでもなく、無があるのでもまたその両者がともにあるのでもなく、他方またこれら以外の場合はないのだとすれば、何ものもありはしない。








2023年3月18日土曜日

ヘラクレイトス(断片より抜粋)

 ヘラクレイトス

理すなわちロゴスは、ここに示されているのに、人々は、それを聞く以前にも、ひと度聞いて後にも、決して理解するようにならない。なぜなら、すべての物事は、ここに語られた通りに生じているのに、彼らはまるでそれを見聞きしたためしがないも同然で、しかも、多くの話や事実を見聞きしながらそうなのだ。まさにそうしたことを私はつまびらかにしており、それぞれの物事をその本来のあり方に従って分明にし、それがいかにあるかを明示していると言うのに。他の人々は目覚め、後に何をしているのかも、さながら眠っている間の行いを忘れているのと同様に、気づかれていないのだ。それ故、あまねきものすなわち共通的なものに従わねばならない。しかるに、この理こそあまねきものであると言うに、多くの人々は、自分独自の思慮を備えているつもりになって生きている。


道がどこへ通じているのかを忘れている人。

彼らがとりわけ絶えずかかわりあっている理ロゴスー全体を司るものー、それと彼らは相入れず、また毎日突き当たっている物事が、彼らにはなじみのないものに思われている。


対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。そしてあらゆるものは争いによって生じる。


戦争はあまねきものであること、正道は争いであること、万事は争いと必然に従って生ずることを知らなければならない。


結びつきーそれは全体であって全体ではない。一体化していながら分裂している。調子が揃っていながら不揃いである。そして万物から1が生じ1から万物が生じる。


同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。


生まれ出た者たちは生きようとするが、それはすなわち死の定めを得たいと欲する、あるいはむしろ、安らかな眠りにつきたいと欲することに他ならない。そして、子供たちを後に残すことで、また死の定めが生ずるのである。

我々が目覚めた時目にするものは死であり、眠っている間に目にするものは眠りである。そして死して後に目にするものは生である。


目覚めている者たちには共通の1つの世界があるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけの世界へ帰っていく。



戦死者には、神神も人間たちも、共に敬意を払う。

なぜならばより大いなる死モロイにはより大いなる取り分モイライが当たる。

戦死者の魂の方が、病に倒れたものが魂よりも清らかである。


人は夜中になると自分の眼光が消えるので、灯火をつける。生者も眠っているときには死者につながり、目覚めているときには眠った者につながっている。

死後に人間たちを待ち受けているのは、彼らが全く予期もしなければ思いもかけないようなことである。


知を備えた唯一の存在は、ゼウスの名で呼ばれることを非とし、かつ是とする。


魂の限界は、それに行つこうとして、たとえあらゆる道を踏破しても、見つけ出せないであろう。それほど深い理ロゴスを彼は持っている。


海水はとても綺麗で、とても汚い。魚はそれを飲み生命を保っているが、人間には飲めないし、命取りである。


不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かの者の生をこのものが死している。


火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。


魂にとって水となる事は死であり、水にとって土となる事は死であるが、しかし、土から水は生じ、水から魂は生ずるのである。


湿ったものになる事は、魂にとっての喜びであり、あるいはまた死である。

われわれはかのもの魂の死を生き、かのものはわれわれの死を生きる。


いかなる場合にも命運は定まっているのだ

どんなふうに生きていけばいいものやら、

言葉が指すものと言葉それ自体 〜トイレの呼び方の変遷についての想像〜




 手垢に塗れたら言い換える傾向。


トイレは昔、厠(かわや)と言い、川の近くに建てられて、水に流したから、川屋だったとか。


しかし、直接的に糞をすると言うのは憚られるので、「厠にちょいと用事を足しに行く」と言うようになった。

そして、次第に厠という言葉が糞のイメージと近くなり汚いイメージをさせるようになり

「用を足す」としか言われなくなる。

そして、用を足す便利な場所ということで便所と呼ばれるようになった。もともと「便」には排泄物の意味はない。


しかし、厠が便所と呼ばれるようになり、大きなほうの便なのか小さな方の便なのかということで、排泄物を大便や小便と呼ぶようになる。


すると、便所は便利な場所ではなく、便をする場所となり、再び汚いイメージとなる。

そこで、外来語が入ってきて、これはハイカラだし、クリーンなイメージだということでトイレと呼ぶようになる。

トイレとは、英語の便所の意味だが、もともとはフランス語で化粧室を意味している。化粧室と便所が同じ場所ということが多かったため意味が変わったのだそうだ。


しかし、使い古すごとに再び、「トイレ」と聞くと汚いイメージになってしまい、接客業などでは「お手洗い」と言うようにするところもあるようだ。


しかし、いずれは「お手洗い」という言葉も汚いイメージに塗れ、再び新しい言葉が作られるのではないか?


この変遷を見ているとそう思わざるを得ない。

差別語なんかもそうしたイタチごっこなのだろう。

2023年3月17日金曜日

存在するものは何か? 〜ヘラクレイトス、パルメニデス、そしてヘーゲル〜

ヘラクレイトスからヘーゲルの系譜


古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの思想

「同じ川に二度入ることはできない。」

→万物流転(パンタレイ)

「万物の根源は火である。」

「闘争は万物の父であり、万物の王である」

→万物は闘いである。

ヘラクレイトスは確かに、闘争が万物の父と言ったが、万物の根源は火であるとも述べている。

しかし、火というのは比喩である。

2023年3月16日木曜日

アルツハイマーオッペンハイマーカラシニコフラスコーリニコフ

 オッペンハイマー

あの日から今

すべて忘れたら

アルツハイマー


穴だらけ


ここにもそこにも

ラスコーリニコフ

心の中の

カラシニコフ

にこりんこ

2023年3月13日月曜日

魂の不死を証明するカント以前の形而上学?

 魂について

カントは純粋理性批判の中の魂の誤謬推理において

魂が不死かどうかは断定できないという感じでしたよね。

ライプニッツヴォルフ学派の人たちが述べた魂は不死であるみたいな証明に、いや、あれは証明したとは言えないと述べています。


カント以前から、昔からよくある形而上学における魂の不死の証明を紹介します。それらを理解しておくとカントがわかりやすくなります。大体これに似たようなのを論駁したいので。

二つ紹介します。

「知は(権)力なり」フーコー


 「知は力なり。」ベーコン

イドラ(思い込み)を廃して、実際の実験データなどに基づき、ちゃんと知ろう。そうすれば、自然を征服できる。


「知は()力なり。」フーコー

かつて権力を批判した言説も再び権力的に振る舞うようになるぞ。

知は()力なり

権力も力も英語でPower


精神病院、軍隊、学校

これらはすべて残虐刑の代わりとなった近代の監獄を元に作られている。

特に学校

2023年3月3日金曜日

大鴉と狂人 〜舞台は精神病院〜

 



異常なほど燃え上がるような恋をしたことがあるだろうか?

常識や正義の名の下に燃え上がるような怒りで身を焦がしたことはあるだろうか?

それから、異常なものを見て恐ろしく寒い恐怖に脅かされたことがあるだろうか?

私はある。

恐ろしいもの

恐ろしいものとは何なのか?

例えば、大きなカラスが怖いとか?

実はうちではカラスを飼ったことがあるんですよ。

翼の折れたカラスを保護して。

私は突かれそうで怖かったが、カラスのほうも私のことを怖がっていた。

私のことを怖がって、私を突こうとする。

私を突こうとするから、私もカラスを恐がる。

恐怖に恐怖で返して互いに怖がっていたんですね。

もっと怖いことがあります。

私はちょっとふざけて、そのカラスにこう言ってみたんですよね。

昔の詩を真似して、

おまえは古の使い魔なのか?名はなんというのか?

ねばーもあ!

そしたら、そのカラス、しゃべったんですよ。

英語のnever moreだったと思います。「もはや何にもない」みたいな意味。

でも、そのカラス、実は存在していなかったんですよ。

もはやネバーモア。

大鴉を知っていますか?

大鴉とは狂人の妄想。

私は夢うつつだった。

私が見たのはただのしゃべるカラスだったのか。それとも、私を目覚めさせ、真理を告げに来た黒い使者だったのか。それとも、ただの夢幻、妄想だったのか。


妄想と迷信は捨て去られる理性の時代。

科学的にすべてのものが解明されると信じられている時代。

しかし、迷信と同様に人間の心というものは科学を持ってしても未だわからないところが多すぎるもの。

するとどうなるのか、理性や常識によって理解できない、我々とうまく意思疎通を図れない者は、心が健全でなく、つまりは病気であるとされ、狂人と呼ばれる。

わけのわからないものはそもそも存在しないから狂っている。心も迷信も神も言葉をしゃべる大きなカラスも妄想である。

そう判断してしまうほうがよい。


監禁の時代。1656年、フランス、一般施療院に入れられたのは放蕩者、リベルタン、浪費癖のある父親、神を冒涜する者、親不孝者、娼婦、自殺志願者、錬金術師、無宗教者、基地外、低能者、気のふれた者などを近親者が目に晒されないために隠した場所。


非理性的な者、狂っている者は病院や妄想の世界に入れて隔離するべきだということになってしまうのだ。

狂気の者が健全な者たちを惑わせることはないように、と。

かつて、西洋で、見世物小屋は身体障がい者を雇ったが、精神障害者が封じ込められた精神病院はひとつの見世物小屋だった。

普通の人が休日に精神障害者をちょいと見物に行くというのはよくあることだったのである。

しかし、今や我々は気軽に身体障がい者や精神障害者を見学に行くことはできない。

だが、奇妙な妄想の世界は理性的なあなたがたにも体験できる。舞台や映画だ。

今やこの舞台こそが見世物小屋。

相手はここ舞台に妄想の産物として隔離される。人々から決して理解できない者として。

理解できない者が現実にいたら恐ろしい。

人を恐ろしがらせる者は「芸術」ということにして閉じ込めておけばよいのだ。


あなたは理性的な者としてふるまい、自分は狂人などではないと思っている。

そうして何度も何度も執拗に狂人を檻の中に封じ込める。

ネバーモアと。

しかし、そんなあなたこそが狂人だったのではないだろうか??そんなあなたこそが大鴉だったのではないだろうか??

常識を守ることに、たまに正義という言葉をつけたりして、狂っていたのでは、ないだろうか??

あなたが狂人に怯える時、あなたもまた狂人を怯えさせていたのではないだろうか?


いいや、そんなはずはない。そうあなたは心の中で呟く。


そのときこそ、大鴉は、舞台からあなたに向かって呼びかけている。

これは現実にもありえない。そうだろ?ねばーもあ

あなたは狂ってなどいない。そうだろ?ねばーもあ

あなたは常識的で善良な市民だろ?ねばーもあ


舞台というのは心地よく浅い夢。

それとも、舞台とはあなたを現実から目を覚めさせるさらに深い現実か。








今週末開催のイベントで出演し大鴉をやります!ぜひお越しください。


イベント名、#劇怖

「人はなぜ、#恐怖 するのか?」をテーマにしたショーケースイベントです。


3月5日

午前の部→12:00

午後の部→17:00

午前と午後で内容や一部出演が変わります。


 場所: #りんごスタジオ/鈴御座

(愛知県 #瀬戸市 須原町34-2/#名鉄瀬戸線「#尾張瀬戸」駅から徒歩10分)


※チケット:各回2500円(前売)/各回3000円(当日)/配信:各回1500円


出演:

怪物園(#森永眼/#森大地)

#伊藤えん魔

#安部火韻、(ポーの英詩を原案にした得体の知れないパフォーマンスを繰り広げます。)

イヒ屋ねこ〇(午前のみ)

#登龍亭幸福(午後のみ)

OA.#白山葵


本公演には作品の質を最大限に高める為、 演出表現として一部で「血液や恐怖映像、音響効果」等を使用いたします。

人によっては気分や体調を著しく書する可能性や、最前列に於いては、衣服等が汚れる可能性ございます。

以上を予めご了承の上、 ご予約をお願いいたします。


主催 #和文化復興プロジェクト(#大衆演劇 #御陵一座 )


劇怖を予約されるお客様へ


日時(枚数)→

名前(ふりがな)→

住所(区まで)→

電話番号→

どの役者のチケット予約か→


上記テンプレートをご記入の上で


project.gekikowa@gmail.com


⬆こちらにご連絡お願いいたします🙏

各部30枚のイベントとなります為、お手数お掛け致しますがよろしくお願い致します🙏


安部火韻