2020年9月6日日曜日

アリストテレスで考える万年筆の有用性?

 万年筆を愛でることに意味はあるのか?

いまやワープロの延長線上にあるものとしてのパソコンやスマホなどが広く普及し、

万年筆といった文化は廃れつつある。

万年筆は便利なものとは言えない。インクが固まらないように洗浄したり、ペン先が潰れないように気を遣ったりと、ボールペンに比べると管理が大変だからだ。

だが、特定の人々はなぜそれをあえて使うのだろうか?





✒︎利便性の追求は人間の目的ではない。


アリストテレスは「形而上学」において


「すべての人間は生まれつき知ることを欲する。(中略)そして、その或るものは実生活の必要のためのものであり、ほかの或るものは楽しい暇つぶしに関するものであるが、

これらの場合にひとは、この娯楽的な発明者のほうを、前者のそれよりも、その認識が何らの実際的効用をねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵あるものだと考えた。」


このように言っている。


生活に必要な知よりも、娯楽の知のほうが一層多いとは、どういうことなのだろうか??


私がいろいろ読んだところ、アリストテレスは、生活のために知があるのではなく、知るために生活があると考えていたところがありそうだ。


生活のための知の中でも、お金につながる知、仕事のための知というものに注目してみよう。


我々はそうした知において、効率を良くしたり、もっと効果的に稼げることなどを追及するためのノウハウを思い浮かべるかもしれない。

いまや、大学でさえ、何か生産的な結果を求められる時代になっているのだ。


そして、利便性や効率化を図るとそれだけ時間を節約でき、他の仕事に充てることができるし、ひょっとしたら、休憩時間や休日を増やせるだろう。

しかし、効率性や利便性を求めること、節約すること、省略すること、それは人が何もせずに食って寝て生活するためのものではない。


むしろ、そのことで節約できた時間や空間、お金を使って、より豊かな活動を行うためのものなのである。


そして、「より豊か」とは、効率性や利便性、節約、省略とは真逆のものなのである。



要するに効率性や利便性、節約、省略というのは手段であって、目的ではない。

なんの手段かというと、それはより豊かな生活のための手段なのである。



そうしたものの一環に有用性から離れているものとして芸術がある。

芸術には、演劇や建築、絵画などさまざまなものがあるが、美術品や工芸品というものもある。


美術品や工芸品という類のものは服、筆記用具、自転車、時計など、通常はさまざまな生活に必要とされているものだが、

それが(美的にあるいはほかの何らかの特性が)卓越した技能によって高められていることで美術品たるのである。


だが、特に美的に卓越した技術だからと言って、実生活の中でそれが効率的で便利でなければ、それはあえて使う必要などはないと多くの人は考えるだろう。


それをあえて使おうとするのは、単なる効率性や便利さ以外の何かを求めているのである。

道具というものはその語義から言って、手段である。

手段であれば、それは効率性や便利さを求めるに越したことはないのだ。

だが、そうでないとするなら、それは、その道具自体が目的となるときなのである。


故に例えば不便な古民家にあえて住もうとするのは、生活のうちで手段と看做されるものに豊かさを見出し、それ自体を目的として扱うことなのである。


✒️万年筆🖋という文化


そうした古き良き工芸品のひとつに万年筆も加えられる。

1809923日、イギリスのフレデリック・B・フォルシュが、万年筆の原形となる、軸にインキを貯められるペンの特許を取得したとされている。

つまり、陶磁器や鉛筆などと比べるとそう古いものではない。

これはもともと字を書くことへの効率性や利便性を求めて開発されたものだ。



一方では、現在のスマホをさかのぼるタイピングによる文字入力の機器の歴史はどうか。


1865年、デンマークのラスムス・マリング=ハンセン(en) がハンセン・ライティングボール(en)と呼ばれるものを発明した。

 これが1870年に製品として商業生産され、タイプライターとして初めて販売された。


実は万年筆よりも60年ほどしか歴史に違いがない。。それに、タイプライターもワープロも万年筆よりは少ないがそれでも一定数愛用している人々がいるらしい。


さて、


✒︎万年筆の魅力:一般によく言われているのは、万年筆は使い込みによってペン先が削れて変化し、その人の使い方の癖などがペンや字に現れてくるし、なじむことで愛着がわく。

これがおそらく万年筆に特有の魅力ではないだろうか。


これは余談かもしれないが、

また、ブランドという特質もある。それは万年筆で言えば、万年筆そのものを目的としたものではなく、万年筆を手段としてその付加価値によって人間の社会的な地位を高く見せようとするものではある。

万年筆の中でもっともよく知られたブランドはモンブランだが、モンブランの万年筆を持つことによって、持つ人の社会的地位や人々の羨望を集めることができるというものがある。


「私はみながすばらしいと思う物を所持している」と。


または、あえて、あまり知られていないブランドを持ちたがる人々もいるが、これもまた人々の羨望の裏返しの欲望に過ぎない。


それは「私は人々がその価値をよく知らないものを所持している」「君たちにはわからないが、私だけが知っている」というものだ。

(それらは皆普通に持っている欲望で特に否定されるようなものでもない。)


まあ、物の価値、ブランド力は、結局マーケティングや宣伝によるものである場合も多いが。


ちなみにドイツのシンプロ・フィラー・ペン社が万年筆「モンブラン」を発売したのは1910年のことだ。



✒︎万年筆を作ること、万年筆で書くこと、万年筆を眺めること。



ところで、芸術理論や文学理論においては「作品」や「作者」に焦点があてられることのほうが多いが、20世紀ごろから「読者」「鑑賞者」のほうにも焦点があてられるようになった。


理論という概念は英語ではセオリー“theory”、これは古代ギリシャ哲学のアリストテレスの概念「テオーリア(観想)」から来ている。


アリストテレスは「物事を見つつ考える」≒「哲学する」という意味で使っていた。


ここでは物事とは自然・人間などを中心としたさまざまな対象であるが、見つつ考えるということは、自然・人間などを読み解くという意味で読者に焦点を当てているとも言える。


実際、このテオーリア(観想)であるが、アリストテレスが彼特有の意味で使う前は、観戦とか観賞とか「(観客が試合や催し、舞台などを)見る」といった意味合いで古代ギリシャの日常で使われる言葉だったそうだ。


したがって、アリストテレスがそういう意味を込みでこの「観想」について考えていたということは想像に難くない。


そして、アリストテレスは人間が目指す最上の目的、最高の幸福は観想的生活だとしていた。

つまり、観想以外の他のもの、政治や軍事、経済はその観想的生活という目的のためのものなのである。



ちなみにアリストテレスの師匠であるプラトンにおいても、

[経済=生産者=欲望、軍事=軍人=気概、政治=哲人=理性]ということが「ポリティアー(国家)」において提示されている。

この中で第3のものが最上のものとして設定されており、アリストテレスはこれらの概念をさらに踏襲しつつ改変・精緻化していったにすぎない。


ここにおいて、万年筆が美術品として目指すところのものとは、それを製作することではなく、それを使用することでもなく、それを有用性とは別の意味で感受して楽しむところにある。


もちろん、万年筆の魅力としては書いてこそわかるものではあるが、それも、書かれる内容のために書くのではなく、万年筆の卓越性を感受するために書くのである。



オリンピックも同じである。

何かを得るために走るのではなく、走るということの卓越性を露わにし人々が評価し感受するために走るのである。



よろしければあなたも今一度、こうした視点を持って物事を見てみよう


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