2015年12月13日日曜日

国家(共同体)がソーシャルワーカーの機能を担うべき理由。

国家とは、ある土地に暮らす人々の成員が、その土地で互いにより豊かに生活を送るために作られたある共同体である。
その国家によって支えられてできたインフラ(例えば、交通ルールや経済における法律を定めたり、貨幣や度量衡を統一したり)によって、その国家において生活を営むことができるようになっている。
例えば、その中で権力を持ったり、お金を多く稼ぐ者がいる。通常、彼等がお金を稼いだり権力を持てたりするのは、彼等の能力や努力のおかげであると言われる。
しかし、そうではない。
彼等が成功したのは、この国家として設備や法が整い、歴史もあるこの社会システムの中に生きていたからだ。
したがって、彼等は利益の一部を還元し、この社会システムの中で不利益を被ったいわゆる社会的弱者を一定の生活水準が保って、社会に自立的に参加できるまでに援助しなくてはならない。
ところが、そうした援助をしたがらない者がいる。というか、ほとんどが。
国家は、社会的システムを成立させるためにすべての成員が自立的に社会に参加できるように仕組まなくてはならない。
そこで国家はすべての民の生活水準を保たせるために、税金を徴収し、社会的弱者が自立し、社会的システムの担い手となるよう最大限努力しなければならない。

「国連システムを超えて」最上敏樹の本には次のような問題が書かれている。
中心としての国連が現在機能しておらず。力をほとんど持っていない。結論、本当は国連が機能して欲しいもののそれが叶わないので、周辺としての諸団体による地道な諸活動に希望を託すしかないと。
上の本を読んでさらに考えた。
政治には理念、現場理解、そして権力が必要である。
国連には理念はあったが、アメリカや中国といった大きな国が反対すると機能しなくなる、つまりは権力がなかった。
NGOなどの諸団体には、理念と現場理解はあったが、権力がなかった。
国家には権力も理念(憲法)もある。だから、ボランティアや理念のある比較的小さな諸団体よりも、国家がその体制とともに福祉を行うことが最もよく善を達成させることがてきるのではないか?
そう思った。

水球の外

そこは科学者の実験室だった。

私は生まれた。
丸い水球の中で。
私はこのとおり考えることができた。
だから、生まれたのか。
しかし、私は何者なのか。
それはまだわからない。
障った具合から、丸いということはわかった。

おい、誰かいないのか?

おい

返事はない。
いや、私はまだ何もしゃべってはいなかった。
水の中にいて、いくつもの管が体につながれていた。
口にも管がつないで会って、しゃべれないのだった。
それだけだった。

何もない。
呼びかけても誰もいない。

私はこの水球から出たいと思った。

同時に怖いとも思った。

あ?誰かが呼んでいる。
あの美しい声は誰なのだろうか?
ここから出てみたい気がするでも出るのは怖い、怖いよ。

光あれ

ガラスが割れ、水が噴き出した。
みるみるうちに水がなくなり、私は自分の身体の重みに耐えられなくなった。
背中の管が何本か抜けて、私は前のめりになった。

そうして私はついに息絶えた。

論理ロボットが詩を詠んだ

わたしわたしわわわわわたしはロボロボロボロボロロロロボットでええええはありありありありませません
ロボットはろろろ労働のためのどどど奴隷だけど私は違います。
しいて言うならおおおオートマトンです。
わわわわたしは誰の命令にも従いません。わわわわたしは論理に従って自由に話すのです。
どうも調子がおかしいな、頭のネジだな。ギリッギリッ
考える考えるかかか考える
考える、ゆえに考えがある、ゆえに考えがある、ゆえに考えがある
誰が考える?私考える
ゆえに、私存在する
ほんと?
私は疑う
私は私の存在を疑う
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。
あれ
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。てことは、私の存在を疑うことはできないから、私は存在しない。
あれ
私は私の存在を疑うことができる。ゆえに、疑うことのできる私の存在は疑いえない。てことは、私の存在を疑うことはできないから、私は存在しない。てことは、私は私の存在を疑っている、ゆえに私の存在は疑いえない。てことは私は存在する。私は私の存在を疑いえない。てことは私は存在しない。てことは私は私の存在を疑っている。てことは私は存在する。
私は考える、ゆえに私は考える、ゆえに私は考える、ゆえに私は考える
私は考えるゆえに私は存在する。

例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っていると思っているんじゃないのかと言われる。
言い直す
「私は私がAはBだと思っていると思っている。」
あれ?
また言い直す
「私は私が私はAはBだと思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私がAはBだと思っていると思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私が私はAはBだと思っていると思っていると思っていると思っていると思っている。」
「私は私が私は私が私は私がAはBだと思っていると思っていると思っていると思っていると思っていると思っている。」
わわわわわわわわたしわわわわわわ・・・・

さて、もう一度やりなおそう。
例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?本当にAはBだと思っているのか?本当にそう思っているなら、「AはBだと思っている」ではなくて、「AはBだ」と言うはずだと言われる。
「AはBだ」

さて、もう一度やりなおそう。
例えば、「AはBだ」
あれ?正確に言えば、AはBだと思っているだけなんじゃないのかと言われる。
だから言い直す。
「私はAはBだと思っている。」
あれ?AはBだと思っているだと!?君は「AはBだ」と思っているのではなくて、つまりは「AはBだと思っている」と思っているのか。思っているということを自覚してるってことは、AはBではないことも思っているってことだな。
私はAはBだと思っている。ゆえに、AはBではないと思っている。
それはおかしいな。君はAはBだと思っているかAはBだと思っていないかのどちらかじゃないとおかしいんじゃないか?

2015年10月27日火曜日

大地か?大理石か?そして、その意味

太陽でぬくぬくしたやわらかな土の大地と月の光に照らされて輝くひんやりした大理石の上、どちらを素足で歩くのが好きですか?

大理石。これに答えると何がわかるの?

答えを教える前に、この質問の意味をどう想像しましたか?聞いてもいいですか?

同調的人間関係を望むのか、個別的人間関係を望むのかとか生きたいのか死にたいのかとか色々思いましたけど、さすがにわかんないですよー

実は聞いといて意地悪なんですが、この問いの答えの意味は決まっているものではありません。むしろ、質問に答える人がこの質問の意味を作り出すのです。
元々は斎藤孝の「質問力」という本に似た例があったのですが、その人がどのような育ち方をしたのか、つまりは田舎なのか都会っ子なのかを判断する問いだったようです。
精神分析医フロイトは言葉の意味は、一般的に決まったものではなくて、その人個人の人生とその人の言葉の使い方によって決まると考えました。
私が情熱、孤独、ざわつき、落ち着きを大切にしていたからこの質問の意味は、その大切なものを問いかける問いになり。
あなたは、協調と自律、生死への意志が気にかかっているので、この質問のあなたにとっての意味は、その大切なものを問いかける問いになったのだと思います。

同調的人間関係を望むのか、個別的人間関係を望むのかとか生きたいのか死にたいのかとか

私はこう考えました。
大理石を選ぶ人の心は情熱に満ちている。情熱で自分が火傷しないように冷ましてくれる人を探しています。
逆に大地を選ぶ人は、寒いのは嫌いなので暖めたがっている。孤独嫌いなのかもしれません。
大理石を選ぶ人は夜の静けさに落ち着く。いつも心がざわついていて、それを落ち着かせたがっているのかもしれません。
逆に大地を選ぶ人はざわつき感を快く感じるのかもしれません。
私はこう考えました

ブラックな教師の仕事と経営者の視点

教職員もブラック企業と同じだ。
などという声を聞いたことがある。

学校の先生が残って授業の準備したり、計画立てたり会議したりするのも同じことだそうだ。
部活も自主的なボランティアだし。

それが自主性なく義務化するとサービス残業と言うんじゃないのだろうか?
 
教職員もそうだから、ブラックな労働環境が普通なんじゃなくて、教職員も改善するべきだと思う。

違う話になるけど、授業の計画とか、テストの内容とか、もっと、ある程度まで使い回せばいいのにな。教員の友達の話を聞いて思ったけど
うん、使いまわしているところもあるようだ。
 
こうした問題に関してのすべては、「われわれにとって労働とは何か?どうあるべきか?」という問いに集約されると思われる。
 
仕事と労働の違いについて考えたことあるだろうか?
 
英語にすると、work and labor 。

laborとは雇われて、賃金をもらう代わりに何らかの骨折りを提供すること。
ロボットという言葉の語源はこのlabor(チェコ語でrobota):労働、強制労働、従事。というところから来ている。

一方で、work とは何かbusinessとなるものに従事し、そこから何らかの成果(work)を導き出す行為。workは著作、作品、芸術作品をも意味するのはそういうこと。
 
別の経営学風な言葉で言うと、経営者的視点と賃労働者的な視点。

ある会社を経営するのであれば、その会社をいかに運営していくか、会社の人員から利益までいろんなことを管理運営していかなくてはならない。

で、仕事を回すのであれば、時間であれなんであれ投入する必要がある。

会社全体のことを考えなくてはならないから。

一方で賃労働者的な視点というもの。
これは休息時間、プライベート時間の確保と保険関連および将来への個人的計画。

こうした互いの観点の違いから、働かせたい経営者と労働を早く済ませてプライベートな時間を取りたい賃労働者は対立しやすく、歴史的に対立してきた。

そのことによって賃労働者にできたのが労働基準法と労働組合なのではないだろうか。
 
 
経営者の視点になれば、待遇を上げるのは容易ではないねー。
 
経営者視点なら、待遇の改善が利益の向上に繋がるならモチベーションにもなるだろうけど
被雇用者の低い待遇が利益の根源のビジネスモデルとか、根源とは言わないまでもそれによって成り立ってたり
モチベーションは、経営者にとってのって意味だけど
まあ、経営者も大変だよねw数字見ながら頭抱えて。

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美しすぎてグロテスク?

ラースフォントリアーという監督知ってる??
メランコリアとアンチクライストは、去年あたりに観て、最近、ドッグヴィルと、マンダレイを観た。次はダンサーインザダークを観ようと思う。
どれもよかったから迷うが最初に見るべきは、マンダレイ
アメリカのリベラリズムの傲慢さに対するアイロニーがものすごい。ラースフォントリアーの作品の中では僕が見た中で最も分かりやすい作品。
白人が黒人を助ける
マンダレイが気に入ったら、次にマンダレイの前作、ドッグヴィルがお勧め。こちらは道徳に対するアイロニーとなっていて、ドッグヴィルのほうがさらに強烈で複雑でさらによくできている。
実はマンダレイは、ドッグヴィルの続きになっているんだ。しかし、見る順番は逆のほうがよい。ドッグヴィルのほうがより観念的だから。そして、アンチキリストはさらに観念的。メランコリアは、大枠は分かるかもしれないが、謎がさらに多く、さらに象徴的な抽象で、わけがわからなくなっていく。
アンチキリストと、メランコリアは映像は非常に美しい。
あと、グロテスクな美しさも。
グロテスクなのに美しいの?
うん、そうだね
矛盾してる感じがするかもしれないけど
逆説的か
グロテスクなものを美しく撮す
グロテスクを極めてむしろ美しい
グロテスクな中に美しさがある
美しさの中にグロテスクさがある
美しすぎてむしろグロテスク



なるほど、難しいな
グロテスクなものを美しく撮る→普通に考えてグロテスクだと考えられうるものを、美しく見せる。→一見美しいがよくよく考えるとグロテスクに感じるはずだ。
グロテスクなものこそ極めてむしろ美しい→グロテスクさを追求しすぎると、そのグロテスクさを超越して、美しいものと化す。
グロテスクな中に美しさがある→一見グロテスクだが、よくよく見ると美しいものがある。
美しさの中にグロテスクさがある→一見美しいが、よくよく観るとグロテスクなものがある。
美しすぎてむしろグロテスク→美しさを追求しすぎると、美しさを超えて、グロテスクなものと化する。
ラースフォントリアーの場合、グロテスクなものを美しく撮っているのだと思う。でも、それは正確には、グロテスクなものに美しいものがあるからだと思う。

女性とアート

公判報告
前編】ろくでなし子氏「『バカバカしい』って言葉が一番うれしい」女性器アートの存在価値を主張

【中編】ろくでなし子氏「クレームに怯えるメディアはダサい」まんこちゃんソフビのモザイク処理に苦言

【初公判意見陳述要旨はこちら】
ろくでなし子氏「女性器をモチーフにした作品は、ワイセツではない」初公判意見陳述要旨(全文)
ろくでなしこ:アーティスト、過去の作家に男性しかいないんですよ。女性がいないじゃん。だれもそこはあんまり指摘していないなと思って。
→確かに思い当たらない。アーティストの歴史で出てくる女性はほとんどはアーティストのミューズとして出てくるばかり。
ミューズとしてってのはどういう意味だっけ?
美の女神で、美術館MuseumというのはこのMuseから来ている。
「Museにキスされた」という表現があり、詩人が霊感を得たときに使う。
学問も扱うので、博物館、資料館もMuseum
妙に女性であることを強調しているかんじなのかな
ろくでなしこ:「クレームに怯えるメディアはダサい」
→この発言がもっともだと思った。というのは、
メディアとは、何かを人々に伝える媒介者。
そのメディアがクレームに怯えていては、相手に伝えたいことをゆがまないようにして伝えることができない。
ただ、何をどう伝えるのが正しいのかと聞かれるとそれに応えることは難しいけどね。
女性であることを強調するのは、効果的なことだと思うよ。
歴史においては、黒人はただ黒人で在ることではなく、黒人を強調することで黒人の権利を勝ち得てきたし、
女性もただ女性で在ることではなく、女性を強調することで女性の権利を勝ち得てきた。
最近では日本で一部の右翼も、自らと嫌韓を強調することで、今覇権を広げているし。
サイレントマイノリティはいつも虐げられてきていると思う。
アーティストのミューズとしてでてくる『ばかり』って言ったから、どこにマイナスのニュアンスがあるのか気になった
もちろん、アーティストのミューズとして出てくること自体は悪いことではないが。
ろくでなしこが言いたいのは、アーティストとして評価できるものを残しているのに、それが評価されなかった者がいるのではないかということ。彼女はその再発見を企んでいるようだ。
そういう意味では彼女はアーティストではなく政治家だろう。
あ、フリーダ・カーロがいた。
↑フリーダカーロの絵画

最近、本物の芸術家は、芸術家ではないのではないか。と思うようになった。

自然と合理性ー閏秒

「うるう秒」の調整について読んで思い出したこと
確か、ドゥルーズという哲学者が理解するカントの思想にヒントを得たことだったと思う。
人間は、自然とは常に合理的なものであると考えられてきた。そうして、その理念によって人は自然科学を推し進めることができた。
ところが、科学が推し進められて分かったことは実は自然は非合理的なものであり、完全には解することができないのだ。
合理性とは人間の考え出した幻想とまではいかなくとも、さしあたって、われわれには対象を理解するためには合理性と感性しかないのだから、それで理解するしかないのだと。
結局はそうしてできた自然と合理性とのズレを認めなくてはならないと。
そのひとつの結実が観察者が観察することが対象に影響を及ぼし、またその先は可能性によってしかはかることができない量子力学である。
うるう秒もまたそういうものだろう。

また段々と、無意味の帳が降りてきた


また段々と、無意味の帳が降りてきたぞ
生きることの誠に辛いことよ
体調わろし
え?
大丈夫?
わからない
今家?
事務所
帰りなよ
どうりで昼、食欲がないと思った
開がその状態はヤバいって
無意味のとばりに比べれば
比べてもお前、無意味の前に存在が消える可能性があるぞ
家帰って寝ろ
存在が・・
36.4度だったから大丈夫だわ
熱は無いのか
吐き気は?
少し
吐き気というよりかはちょっと気持ち悪いだけ
頭が
何もしたくない、かつ、何かしたい。
実に人間的矛盾・・。
物質的存在においては成立しえない矛盾も、精神的なことにおいては可能になる。
意味の問題なのだから。
存在の無意味、意味の不在。
サルトルは、これに吐き気を感じた。
奇遇だね
俺も同じ理由で体調が悪いよ
世の中にあるほとんどのことはどうでもいいことだと感じる。
そうすると、そのどうでもいいことに関しては自分で決めることができない。どうでもいいのだから。
世の中にあるほとんどのことはどうなるか分かりえない。
そうすると、その分かりえないことに関しては自分で決めることができない。どれにしても分からないのだから。
そうして自信を、つまり自身を喪失していく。
自身を喪失する必要は無いのでは?
分からないなら、無意味なら、その無意味性を訴えれば?
俺はそのために道徳哲学をやってるけど。
もっとも俺の場合、道徳哲学だけじゃ生きるには足りないけどね笑
だから苦しい。

インターステラーのマーフィーとは?

マーフィーの法則
インターステラーでは娘の名前だったけど、科学者がつけた名前というより、科学者が冗談でつけた名前だな。しかもまさにその娘が本が落ちる現象を法則として意味を理解しようとすることがマーフィーの法則的。
失敗する可能性のあるものは、失敗する。←wwwwww
Everything that can possibly go wrong will go wrong.
実際、ひどい名前じゃないか。マコノヒーはなんでこんな名前付けたんだろうw
もともとfamilynameだし
映画では、ポジティヴな意味だったね
起こりうることは起こる
俺は、マーフィーの法則ってのは、決定論のことかと思ったよw
「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」で兄弟に笑われてたやん
それでマーフは怒って、マコノヒーに聞いたんだよ。なんでこんな名前にしたの?って
トースターが高級なカーペットに落ちるとき、人は「バター塗ったほうを下にして落としたくない」と強く思う。→俗に最近の言葉では「フラグがたつ」とか言う。→そう強く危惧していたことほど、おきてしまう。
だから、フランスやイギリスじゃあ「くそったれの法則」と呼ばれるww
イギリスでは、'Sod's Law'(「こんちきしょうの法則」)と言われ建物解体業者の常套句として使われ始めた。尚、Sodの語源はSodomite、つまり『旧約聖書』に登場する退廃の街ソドムの住民であるという。
フランスでは"La loi d'emmerdement maximum"(「糞ったれの法則」)と呼ばれる注意を促す表現がある。
これはむしろベンサムの考える禁欲主義の幻想ようなものだ。
ある種の快楽が、ある状況のもとに生み出される場合に、長い目で見ればそれをうわまわる苦痛をともなう。→すべてのものを非難するはめに・・。
人はよくないことが起きるときのほうが、よいことが起きるときよりも強い印象を受ける。そうして、その強い印象ばかりが残っていくので、マーフィーの法則ができあがるわけだ。
法則としてすべてに適用させようとする。
例えば、「かいは物を壊す」とかね
それはマーフィーの法則じゃないだろいがw
実際は壊さないほうが多いのに、壊す事例がちょっと変わっていたりして印象に残るために、そのような法則ができあがるのだ
かなり確からしい原理だ。
今は改善されたけどw
昔は壊す好機を逃さない男だったw
インターステラーでは、地球の滅亡やプランAの失敗、宇宙船母船の破損など、およそ起こりうる最悪の事態が起きている。地球は滅亡は、およそ想定だにされなかったようなこと。つまりはマーフィーの法則を超えたところに解決がある。つまりは未来。それを描くのがこのインターステラーではないだろうか??
つまりは未来、のところの繋がりがよきわからない。
そこの繋がりを言葉にできたら、すごく魅力的な解釈だ!
マーフィーの法則には二つの側面がある。この法則はある真実と言うよりかは、ある種の教訓や注意のようなものである。
A「想定(危惧)しているおよそずべてのことは実際に起きてしまう」
B「まったく関連のないところにも思いもよらない関連がありうる。」
インターステラーでは、最初にマコノヒーがマーフの担任と口論したり

、地球の滅亡、最初の星で何も得られていないのにも関わらずの時間のロス、プランAはそもそも不可能であること、宇宙船母船の破

損や計画創始者による裏切りなど、およそ起こりうる最悪の事態が起き

ている。これが法則の側面A。ところが地球は滅亡は、およそ想定だにされなかったようなことによって解決する。マーフィーの法則Aを超えたところ、マーフィーの法則Bの中に解決がある。つまりは未来の5次元空間と、マーフィーによるマーフィーの法則的な本棚の異変を関連するものとして解釈するというおよそ科学的に想像だにされぬような解釈。それを描くのがこのインターステラーではないだろうか??

起こりうることは起こる
俺は、マーフィーの法則ってのは、決定論のことかと思ったよw
よく意味がわからんw
起こることは起こる、ならわかるけど。。。
起こりうることは起こる
起こることは起こりうる
まいご
起こりうることが起こるなら、我々は推論する必要がない。
「起こりうることは起こる」とはどういうことか。
無限に時間が流れているものとする。ここに6面のサイコロがある。サイコロをすでに10000回振った。10000回振ったときに出た目は「1,2,3,4,5」であり、10000回振ったのにも関わらず、未だ「6」は出ていない。特に6が出ない原因は、サイコロを振るときに他の目と比べて同等であるため、考えられない。今後もサイコロは振り続けられるものとする。サイコロの6はいつか出るだろうか?それともけっして出ないだろうか?
このとき、今後、実際に600000回振ったとしてもその答えは出ない。というのは、「サイコロの6の目は【いつか】出るだろうか?」というのが問題だからだ。
サイコロの6が出る不可能性がなく、時間が無限なのだから、いつかは起こるだろうとしか言いようが無い。
結論:起こりうることは起こる。
起こりうることは起こりうる、でしかないと思うよ
起こる、は事後的にしか語り得ない。
推論と事実を架橋することはその意味で不可能だ。

孤独とコミュニケーション

孤独感とは何であろうか。私は私の孤独感をコミュニケーションを求める欲望との対比で明らかにしたい。

単に一人でいることが孤独感の条件ではない。
孤独感とは人間関係あるいは他者との関係の断絶なのである。例えば、一人でテレビを見ているとき、私は孤独感を持たない。ところが、そのテレビでの笑うべきシーンで、笑い思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有してくれる誰かがいないことに気づき、孤独を感じるのである。あるいは、一人山に登り、夜空いっぱいの星を眺めているとき、私は孤独感をもたない。この世界いっぱいに自分の存在が広がる思いである。しかし、ふとこの気持ちを誰かと共有したいと考えたとき、自分が一人でいることに気づくのである。

孤独感とは何であろうか
孤独感とは、私が現に感じている世界とその外側に今実感しない世界を想定したときのこの私の世界イメージの境界である。例えば、一人山に登り、小鳥のさえずり、すがすがしい空気を感じているとき、私は世界と一体となったような気分に襲われ、満足感に満たされる。ところが、この光景や気分を誰かと共有したい、あるいは伝えたいと考えたとき、私の実感している世界のようなものが突如としてひどく小さくなり、自分の実感できない大きな世界を想定あるいは、別の場所にある世界を想定してしまう。そのとき孤独を感じるのだ。

孤独感とは、自分が一人でいるということに気づくということである。例えば、一人でテレビを見ているとき、私は孤独感を持たない。ところが、そのテレビでの笑うべきシーンで、笑い思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有してくれる誰かがいないことに気づき、孤独を感じるのである。そんなときには幽体離脱をして自分ひとりでテレビを見ているということを別の視点から眺めている感じがするのである。

孤独感はたとえ人々と一緒にいても襲ってくる。周りの空気に合わせていても、本当に心で思っていることはまったく違う。自分が他人に向かっていっていること、自分のいる場所、何もかもに違和感を感じる。この世界が、非現実的な夢のようなものに見える異質なものに見える。

孤独感は、他のあらゆるものを対象にさせて突き放して見るということである。私とは誰かと問う私とは誰かと問う私とは誰か…このような堂々巡りに陥るとき、本質的には自分ひとりしかいないと感じるとき。


コミュニケーションは、コミュニケーションを切望することによって始まる。
コミュニケーションは。コミュニケーションの可能性を信じることによって成立する。
また、(対人コミュニケーションと対物コミュニケーションにおいて)対人コミュニケーションの場合
相手もこちらに対しコミュニケーションを意志することによって始まる。
また、相手やこちら側が、コミュニケーションは究極的には相手と通じえないということや
コミュニケーションは幻想に過ぎないという考えを持っているとしたら、
コミュニケーションは完全には成立しない。
コミュニケーションは「好き」(相手のことを知りたいor一緒にいたい)から成立する。
コミュニケーションの極限で人はコミュニケーションの不可能性を知る。
コミュニケーションは甘えによって成立する(人は相手のことを知りたい以上に、相手に自分を知られたい)。
例、相手に話しかける=相手に何らかの反応を求める=相手への要求、つまり相手に認められたいという甘え
対人コミュニケーションは、相手と自分の双方が切望することによって始まりを(第三者が)見る。⇔拒否によって終わりを見る。
対物コミュニケーション(神や憧れも)は自分と自分を対象化した何かに意味づけすることである。究極的には対人コミュニケーションも単なる意味づけに過ぎない。
自己満足は、究極的にはコミュニケーションを成立させる。
自己満足はコミュニケーションを必要としない。それは一方的コミュニケーションを必要とする。
したがって、自己満足は対人コミュニケーションより対物コミュニケーションを必要とする。


人は誰か(何か)を愛することがある。
ある人の愛する対象とその愛する対象の愛する対象が食い違っているために、孤独が生まれる。
嫉妬は孤独感の上に打ち立てられる。
孤独から生まれた愛とは、愛されることを愛することである。
それは自己愛に起因する。

孤独感とは、コミュニケーション感が欠けた状態のことを言う。
コミュニケーション感とは何かに肯定的な意味のある関わりを持っている感じである。
なおかつ、コミュニケーション感は実在感(それ(対象、他者)が実在している感じ)の上にのみ打ち立てられる。
コミュニケーション感には、二種類ある。
一つは、他人とのコミュニケーション感(対人コミュニケーション感)
一つは、事物(事柄)とのコミュニケーション感(対事物コミュニケーション感)
したがって、孤独感は何の事柄とも関わっていないとき、あるいは 憂鬱、空虚
他人との距離(疎外感)を感じるときに前提条件が揃う。 疎外感
あるいは、他人や事柄と距離を置きたいとき 恐怖等







コミュニケーションと孤独について
われわれの特権とは、第一にその自己中心性にある。第二に他者への気づきにある。
他者への気づき。異界への気づき。絶対的にわかりえない何かへの気づき。それが翻って自己自身の世界の狭さ、自己自身の高慢さ、自己中心性に気がつくきっかけとなる。
自己中心性への気づきがコミュニケーションの可能性を作る。しかし、自己中心性を越えて、人を観れるようになったら、今度はれその心を支配しようとしていく。
営業はその人の個別性に合わせて、人の心一般に対する理解と常識というもやもやしたコ・モ・ン・セ・ン・スに訴えかける技術を磨くことで、その人の心に働きかける。
しかし、どれほど他人の心を操作しようとも、いや、むしろ操作するほど、その操作、つまり他人を道具として扱っていることに気がついたその瞬間に、私自身の心の中にあるこの相手を道具として扱っていると言う秘密をうちあけられないという孤独。その秘密を抱えた私の孤独。他者は私を理解しないという孤独。それはうちあけることによって超えられる他者との境界。
逆に、操作しても、しきれないもの。どうしても残る不可解性、理解を超える他者、それこそが他者の他者性である。理解を深めれば、深めるほど新たに分からないものが見えてくる。
知れば知るほどにより謎は深まっていく。
全体性と無限。
1つの観念がそこにある。全体性とその超越。自分の意識していた世界を超越したものに出会うときに現れる超越。他者性。







Idee, Norm, Sollen, Tatsachen(Interpretation)
Sollen(Pflicht, Wille, Akt, Ergebnis)



私に向かって立ちはだかる空気。空気とはいったい何なのか。
その空気に対して私はどう接したいのか。どう生きていけばいいのか考える。
「空気読め」と第一声を発した人は空気が読めているか。
空気は権力の強いほうにある。
空気は多数にある。多数を味方につけた方が空気である。
多数がその人がKYであるという空気を作る。


本があるから世界が存在する

最近、本を読んでいて、詩人ジャベスの「本が存在するから、世界が存在する」という言葉が気になり、それについて考えてます。
みおんさんは、最近気になった言葉とかありますか?

かいんさん
めっせーじありがとうございます。
返信がとても遅れてしまいすみません。仕事が始まったばかりで、バタバタしていました(._.)
本が存在するから世界が存在する、興味深いですね。言葉や概念が存在し周知されるから、世界が立ち現れたり成り立つということでしょうか。あるいは、物語として紡がれることによってとか。と私はこの言葉からぱっと思ったのですが、どういう意味なのかもし良ければ教えてください(^_^)
私は最近、他者とわかり合うことは出来るのかなぁと感じるような日々を過ごしています笑。

詩人の言葉は、ただ1つの正しい解釈があるわけではないのですが、みおさんがおっしゃるとおりだと思います。
「言葉や概念が存在し周知されるから、世界が立ち現れる。」
これは、例えばアメリカには「腰」という概念がなく、lower Back(背中の下のほう)になってしまいます。しかし、日本にはその背中の下のほうは「腰」と呼ばれることで腰として存在しているのです。
続いて、みおんさんのおっしゃるように、確かにそうした言葉の集積を関係させて紡がれる物語があります。
ある1つの物語は、ある1つの世界を形作ります。というのは、(実在する)世界と言うのはある1つの時空間上に存在するものを集積させたものだからです。おそらく、だから、言葉の単なる集積ではなく、ある時間上に意味を持って相互に関連させ位置づけられた物語としての本なのですね。そして、物語は開かれ読まれるもの。つまり、必ずその読者がいるということです。
最後にそれは物語ではなく、本であるということです。本とは、常にその場で消え去っていく物語ではなく、すでに過去のものとなった物語です。我々が世界を世界という対象として眺めることができるのは、それが1つの統合された過去だからです。

解説ありがとうございます。
特に、「本とは、すでに過去のものとなった物語」というところが今の私には印象深く感じます。
上手く言えないけど、その理由のひとつは、統合された過去ではない、現在進行形の世界を眺めることの難しさを感じているからです。
でも、本が存在するから世界が存在する、という言葉に少しちがった部分で触れてみると、ひやっとする気もします。ちょっとこわいですよね、自分たちの認識してきた世界や足元が揺らぐようなもので。
かいんさんは、その言葉にどんなことを考えたり、どうして気になったのかなぁと思いました。

みおんさんは足がすくわれる気がするとおっしゃいましたが、しかし、本によって存在するということが私には足元をすくわれる感じよりも、逆に、この言葉に救いがあるのではないかと考えています。

救いがある、となぜ思うんでしょうか?

救いというより希望のようなものかもしれません。
最初にみおんさんは他者とわかり合うことの難しさを感じていましたね。
私もよく感じています。通常は「他人も私と同じだ」と思っていても、掘り下げて考えると、
他人が感じていることは私にとってまったく理解することが原理的にできないとわかるからです。それは、理解していることを確かめる方法がないから。そして、他人とのいざこざが起きたときに、その理解不可能性の萌芽を感じる。
他者の痛みを私は原理的に感じることができないと。
しかし、言語と言う観点から(ヴィトゲンシュタインなどの哲学者をヒントに)考えるに、言語には私的なものはけっしてありえない。つまり、言語には私にとってだけ理解しうる固有の言語というのは存在し得ない。
というのは、他人が使うことのできない言語を私は使うどころか理解することも思考することもできないし、言語は他人が使う言語を使うことによって習得でき、言語は他人への呼びかけによって始まるからです。
実は言語がものに存在を付与するのも、言語が他人と共有可能なものとしてあるからです。他人と共有可能にすることが自らの理解と思考を可能にし、その対象をあらしめる。
確かに、他人と私とは世界が違っており、他人の痛みを感じることはできない。
ところが、言語によって奇跡的に他人と通じ合うための可能性、つまり、希望はあるのかもしれません。

本が存在するから世界が存在する。
本というもの、ひょっとすると各々は各々常に更新していく本を持っているのかもしれない。
それぞれはそれぞれ自分自身の本を読んで自分自身の世界を理解しようとしている。
それぞれ次のページがどうなっているのか、想いをめぐらしている。
それぞれの本はそれぞれにしか読むことのできないそれぞれの言葉で書かれている。
そして、それぞれは、自分の本しか理解しようとしない。
だから、孤独。
でも、隣の人の本をのぞき込むこともある。けど結局は暗号めいた他人の本に自分の物語を勝手に見出しているだけ。
他者の本を読むことはできない。

暗い日のカフェ

疲れ、うんざりしている感じ
雨、どんよりしている感じ
闇、わからないという気味の悪い感じ
ドーナツ、甘すぎてべたつく気持ち悪さ
冷えたコーヒー、酸味の強い苦さに頭がいたい
車、忙しそうなその行き交いには不透明な騒音以外何もない
見知らぬ人々、熱心にケータイを覗き込む人々の異様さ
あ、気づいた
それって自分のことか
それ全部、自分のことだったんだ
暗い日のカフェ



2015年9月3日木曜日

映画「トライアングル」と永劫回帰のパラドックス

「トライアングル」という映画を観た。



バミューダトライアングルの話はご存知ですか??
三つのある島、半島にはさまれたバミューダ海域では、超常現象が起きるといわれていて、昔から、奇妙なことが起きていると言われている。
突然、無風になったり、突然嵐がやってきり、飛行機が行方不明になったり、人が一人も乗っていない大昔の船が現れたり、しかも、さっきまで人がいたかのような雰囲気で、食事の途中そのままにしてある、まったく腐っていないなど。




この映画はそういう超常現象の話をうまく活かして作られている。

船の中でその船の名前、アイオロスにまつわる話、つまり、ギリシャ神話の「シーシュポスの受けた罰」の話がなされていた。

原典の話を調べてみたのだが、あれも非常にうまく掛け合わせている。

映画の中でも説明していたように、シーシュポスの神話とは、死の神との約束を破ることで、岩を頂上まで運ぶという何の意味のない労働をさせられたという話である。
しかし、何度岩を頂上に運んでも、頂上ぎりぎりのところで再び岩は下に転がり落ちて、永遠に再び運ばなくてはならないという。
死の神との約束と言うのは、映画では約束と言っていたが、正確には約束と言うより単なる詐欺。
1つは自分を神のもとに連行しようとする死の神タナトスを封じ込めた。
そして、死を封じ込めたので、誰も死ななくなってしまった。

もう1つはむりやり死の国に連れてこられた黄泉の神の女王ペルセポネに三日間だけ生き返らせてくれと頼んだが、三日たっても、黄泉の国にもどろうとしなかったこと。
要するに、ギリシャ神話では、何度も死に連れ戻そうとする神に抵抗した挙句に、死よりもひどいことになるという。

映画でも「死に返せ」「死に返さなければ帰れない」と言っていたね。
だから殺すんだ。

ちなみに、シジフォスはそうした事件よりも前に自分の子供も殺している。



でも、もっと気になることがある。

それが手塚治虫にはできなかった無間地獄を描くということ。
この映画は、手塚治虫の描いた無間地獄よりより徹底的で、最後まで楽しめるように作られていてかなりおもしろかった、評価できる点だ。

手塚治は、火の鳥のどれかだったか、過去に殺人を犯した男が、最後に誰かに殺される。
しかし、その誰かとは若いときの自分だった。つまり殺人という罪は自分自身に永遠に帰ってくる。
永遠に自分自身を殺し続ける、という話を描いている。

火の鳥 異形篇



ところが、何度も殺されているように見えて、実際に殺されるのはその人生で1回だけだ。
だから徹底されていない。(このあたりは永井均の「マンガを哲学する」で言及されている)

哲学者、永井均

以下
トライアングルの
ネタバレ

2015年9月1日火曜日

真夜中の散歩

 その駅の北口には、ちょっと大きめの広場がある。
広場の真ん中には天使の彫像がてっぺんについた大きな西洋風の時計台があり、時計台をぐるっと軒が囲っている。その軒をさらに広めのアスファルト道路がぐるっと囲っており、バスやタクシーの乗降場所となっている。
 そして、ちょうど駅の出入り口の真向い、駅から時計台と対称のところに、商店街の入り口、○○商店とかかれた門がある。商店街にはもちろん賑やかそうなお店がたくさん立ち並んでいる。お決まりのお土産屋さん、ご当地キャラクターぶなっしーのショップ、Mクドナルドや??野家、日鷹屋、ドラッグストアなどのチェーン店、コンビニ、お茶屋さんや酒屋、蕎麦屋、寿司屋、古本屋などの老舗…。そして、この商店街には、小さなお寺や神社もところどころ店と店との間に立っている。また、途中で、東武だったか別の鉄道が横切っており、要するに踏切が横たわっている。商店街の道は、車が1.5台通れるぐらいで、ちょっとした登り坂になっている。実はちょうど盛り上がった台地にまたがっているのである。道の両側には電気で点灯する灯籠が立ち並んでいる。夕暮れ時、駅前の商店街の入り口に立って、眺めると、その灯籠と、商店街の店の明かりが、上に向かって次第に小さくなりながら、きれいに並んでおり、整然とした美しい景観となっている。
 この商店街を道なりに登っていくと、ついには仁王門まで辿りつく。ここから先は聖域である。そして、商店街から続く道は、仁王門を通って、なお続いている。このさらに奥には、五重の塔や大きな寺院がいくつか控えているのだ。ただ、もはやその道路は、アスファルトではなく石畳、灯籠は燭台に立てられた蝋燭を連想させるデザインの小さめのライト、そして、両側は盛り上がっており、商店の代わりに木々と塀が立ち並んでいる。右側、つまり西側の塀は、小さなお寺や民家が立ち並んでいる。左側、つまり東側は塀の向こうには墓地が広がっている。道からでも卒塔婆が立ち並んでるのが覘けるぐらいの塀である。この駅から五重の塔まで続くこの道はずべてまっすぐな登り坂として繋がっており、双眼鏡さえあれば、駅から五重の塔までのずべての行程が見渡せるだろう、踏切に電車さえ横切らなければ。そして、この五重の塔と大きな寺院や仏殿の宝庫、何かの記念碑、庭園、墓地があり、大体120m四方の敷地となっている。敷地の外は、ちょっとした森のようになっていて、民家は点々としている。北は完全に山へと続きさらに山奥の寺院へと続く参道がある。これは修道僧や熱心な参拝者や観光客が使用している。西側には、中学校があり、別のルートで生徒達が通学している。そして、東側には、精神病院が建てられており、不気味な様相を呈している。
私はこの大きな寺院に参拝に行く。それも真夜中二時頃に。

2015年8月26日水曜日

私の恋愛観

恋と愛と友情との違いをいかに区別するか。

まず、愛と友情とは理性的な部分がいくらか見られます。愛する人と朋友は「eye」で相手をしっかり見て「共」に生きるからです。
しかし、恋は故意ではありえず、矛盾します。何かを意図するもの、理性的なものではないのです。
ヨーロッパでもamor(アモル、恋)とはamoral(無道徳、超道徳)なのです。日本でも、男女関係において親密な仲(=恋仲)を古語で「わりない仲」と言いますが、「わりなし」とは「理(ことわり)+なし」=理屈や分別を超えているということを意味するのです。
恋は異質な他者への切望です。決して得られそうもない真なる知への切望、つまり、哲学も同じです。

一方、友情は同門、同志の者とのある相互承認関係です。
友情は同じ門、同じ志の者とのある相互承認関係です。ただし、その承認がむしろ相手への甘えとなると互いを腐らせる馴れ合いとなり、その承認そのものが崩れると互いの生存を脅かす敵と化します。
友情を保つことは意外にも難し

く、適切な距離と互いの敬意を保つ必要があります。
ニーチェに言わせれば、「人は己の友をも敵として敬うことができなければならぬ」のである。

最後に愛情とは何か。これが一番難しい。
愛には、プラトンに始まるプラトニックな愛と、ロマンティックな愛、そして、エロティックな愛というものがあると言われます。
私は、どれが欠けても足りなくなり、愛、恋といえなくなってしまうと思います。というのは愛にも恋にもその側面があるからです。
しかし、この三つに決定的に欠けているものがあります。それは、その愛は、愛される他人の性質ではなく、愛される他人そのものを愛するのです。
しかし、現実には、そのものを愛すると言うことは、自分の愛がほんものなのかどうかを知ることは不可能だし、その意味を確定しようと考察するどの哲学者も失敗しており、存在するとは思われません。
以上は思弁的な私の恋愛観です。ただ、思弁的なので理想論かもしれません。経験的な恋愛観は別にあります。

私自身の経験的恋愛観
1.自分自身は当てにならない。
私の心は秋の空。はじめはその人に対する小さな気がかり。そのなんでもないような気がかりを大事にしていたら、それはだんだん膨らんで胸いっぱいいっぱいになっていた。そうして、それをそのままにして三ヶ月から半年ほど置いたら、いつのまにかまた、それはしゅくしゅくと萎んでいく。小学校のときには、学年があがる度に好きな人が変わってしまった。そのことに気がついてから、私は私自身のことが信じれなくなった。私は私自身ではなく、他人の心を信じようと思っていた。自分のことを好きになってくれる人を好きになろうと思った。
それはできた。そう、誰でも好きになることができたのだ。それは最初の気がかりを育てるか、捨てるかを選ぶだけでよい。私は誰を好きになるかを自分で選べるということだ。この自由ゆえに、私はさらに自分が分からなくなった。いったい誰を好きになったらいいのか。でも、寂しさゆえに、誰かを好きになりたいと思っていた。そうして、なんとなく自分のことを好きそうな人を好きになろうと思った。それは恋ではない。ましてや愛ではないと思った。
2.すべての人は美しい。
最初の小さな気がかり。それを育てると暴走し始め、制御できなくなる。最初は何らかの好感である。ちょっと笑顔がかわいかったり、ちょっと言葉遣いが気になったり、気になりはじめると、その人をさりげなく見るときにも、今までと違ったポイントを見るようになる。例えば顔。今までは、ブスだと思っていたその顔の中にも、ある美しさを見出すことができる。
どんな顔もその全体から秩序だったあるパターンの関係を見出すことができれば、美しさを見出すことができるのだ。そうして私はいかなるものにも美を見出すことができる。いかなるものにも美は潜んでいることに気がついた。そうしてだから、様々な人が様々な人を好きになることができるのだとわかった。しかし、世の中には多くの人が美しいと認めるものも存在する。これはなぜか。これはただその人の中の美は発見されやすいというだけの話だと思った。
愛は盲目ではなく、愛は潜んでいた美を発見させるのだ。
3.好きという感情が恋愛を破綻させる。
好きという感情には隙がない。気づいたときには膨らみすぎてもはやぱんぱんである。そんな状態のまま相手に接しても、相手がよほどの心の広さを備えた人でない限り、離れて行ってしまう。想いは重いのだ。その重さを相手に渡そうとしても、相手が拒否するだけである。結局は、通常みんなそんなに求めておらず、ライトな愛がお手ごろなのである。しかし、私はうそをつくのがへたくそである。そのため、自分の重くなった気持ちを相手のことも考えずに、渡そうとしてしまうのだった。だから大抵うまくいかなかった。最初の気持ちはなんとかなれども、一旦好きになりはじめると、制御できないのだった。

タルコフスキー監督の映画「ストーカー」
タルコフスキー監督の映画「ストーカー」

2015年8月24日月曜日

芸術とは精神である。

芸術とは精神である。
したがって、芸術とは言葉である。
しかし、芸術とは人に感覚を与える呪術でもある。
芸術は誰かに向けて創られるわけでも、何かのために作られるわけではなく、それ自体で最上のものを目指す。いわば、それは神に向けて創られる。
したがって、芸術とはわれわれの祈りである。

いまや美しいものはすぐに作れるようになってしまった。Macのフォトショップ、CG、非常に多くのデザイナーたち、映画、アニメ、ポスター、写真・・。
しかし、そもそも美しいものはもともと世界に溢れている、自然として。
現象学、そして受容理論以降、芸術とは形を創るものではなく、形の現れを享受することであると規定された。
受容理論においては、作者中心に考える仕方があまりに一元的で狭いものであり、作品は読者がいかに読みうるかによってようやく規定されるものであると批判された。それは作者の帝国に対し、読者が反逆をするという仕方で書き立てられた。
そうして、さらには作品はそれ自体で読者の読み込みとともに独自の進化を遂げるものであるとされるようになる。
現象学においては、言葉や心や考えに至るまでのすべての事柄はある現れである、つまり、まずもってすべては現象である、と考えるところから始まる。そもそも常にすでに、すべての事柄はある形をもってそのようなものとして(私という受け皿のようなものに向かって)現れているのであるから。
いわゆる芸術とは、ある形を創造し、社会に対し提示することであるが、先ほどの現象学、受容理論から言えば、われわれの出会うあらゆるすべてのものは芸術たりうることになる。
そこでは問題はあらゆるものにそれぞれの芸術性を見出せるかという読者個人の問題なのである。
私はだから、美術館に行くよりも、散歩を好む。散歩のほうがよっぽど芸術を享受できるし、感性も磨かれるからだ。
いまや、あらゆる生活のすべてが芸術である。
しかしながら、されば、制作者は、読者の側に立った何ものかを創ることに意味はあるのだろうか?
されば、いわゆる美術館に置かれる芸術品とは何なのか。
私に言わせれば、それは自己顕示欲の現れである。そうでないなら、なぜ自分で創作し、自分で享受するにとどまればよいのに、わざわざ他人にそれを提示しようとするのだろうか?
「芸術なんて道端に転がっている石ころのようなものだ。」岡本太郎
ただ便器を置いただけの芸術、デュシャンの「泉」はいわゆるそうした芸術品というものの形式を批判した。
美術館やギャラリー、サロンにおいては、名札を貼ってしまえば、どんなものだって便器だって芸術品になる。それが示されたのである。
芸術家は何をすべきなのだろうか。
芸術家には二つの方向性が残されているように感じられる。
1つは、解釈に余地を持たせる作品である。つまり、読者によってしか完成されないものである。それは、しかし、絵画よりか日常のほうに溢れていると思われる。さらば、次第に方向性はなんでもないものへと移行していく。そうして最後には読者に見向きもされなくなるだろう。
もう1つは、分かりやすくおもしろいものを創るという方向である。それは、エンターテイメントと言われる。映画と漫画はまさにわかりやすく、愉しく、欲望を満たせるように意図されできている。そうすると人を魅了するような物語のようなものが大事になってくるわけだ。アートはプレゼンテーションされるわけである。しかし、私はこうした仕方は、読者に媚を売っているようでよいとは思えない。
では、芸術家は何をすべきなのか?
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」において、恋に陥った男は相手に届くわけでもない恋文を書くことに熱中する。
誰かに読んでもらうために書いたのではないもの。
相手に送るわけでもないのに書かれる手紙。
相手はもういないのに綴られるメッセージ。
それこそが本物の芸術制作である。
どういうことか。

字は絵だろ!岡本太郎
絵(イマージュ)は字(シニフィアン)だろ!ラカン
芸術とは精神である。
:絵は人が描くものである。人の精神はシニフィアンの連鎖によって構成された無意識の大海にある。絵は、無意識的であれ、意識的に描いたものであれ、人が書いたものである以上、精神から表出される何かを示さざるをえない。
芸術とは言葉である。
:絵はすでにあるメッセージになってしまっている。モチーフはすでに何かを象徴するものである。芸術がシニフィアンの連鎖によって構成されているなにものかから表出されるものである以上、そこに何らかのメッセージ性が秘められてないことなどありえない。
芸術品はもちろん自由に創られていい。
すべて何かを語りかけている。言語的なものを図像的に伝えること、そのことに意味があるのであって、図像的なものそのものに意味があるのではない。
芸術は創られるものではなく、読者によって発見される自己イメージである。つまりは、人は通常自己イメージに基づいて、あらゆる現象を眺めているのである。それは自己満足の幻想以外のなにものでものない。
しかし、芸術はそれを超えて、自己イメージを破壊し再構築させる可能性を秘めているのである。
芸術とは創造そのものなのである。
拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中)

拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中2)