2024年5月17日金曜日

破滅へいそぐドン・ファン ~フロイトの人間像とドン・ファン像、そして過剰なもの、表現~

「死に直面したときこそ、生の歓喜がぞくぞくっとわきあがるのだ。血を流しながらにっこり笑おう。」岡本太郎


●快についての疑問とドン・ファン

結局、人間は本能だ。などとよく言われる。

愛だの恋だのといっていても、結局はそんなものは性欲にすぎないとか、

男は結局のところみんなドンファンと同じようなものだ、とか。

……ドンファン。

あなたにとって《ドンファン》という男はどんなイメージだろうか?

ドンファンとは、次から次へと女性をヤリ捨てし、まさに性欲で生きている男というイメージがあるかもしれない。

しかし、そのイメージは適切だろうか。

そして、「人間とは結局、本能によって生きている」というイメージは適切なのだろうか?


 


●人間とは何か? フロイトの快感原則と現実原則


私には、人間には同じように見えて、実は異なる快・不快の原理が働いているように思われる。


確かに、人間にもまずは、快を得、苦痛を避けようとする原則のようなものがある。

これをフロイトに倣って快感原則と呼ぼう。


ただ、人間は大人になるにあたり、快感原則を複雑化し、一時的であれ我慢をする現実原則へと取り替える。

というのも、単に自分自身の快を優先して求める自己中心的なふるまいは、他人のいる社会では現実にはうまくいかず、結局、苦痛を伴うことが多いからだ。人間はひとりで生きているのではなく、社会的に生きる動物なのである。大人は我慢することで苦痛を避けることを学び、快楽はちょっと我慢しつつ少しずつ味わう。


例えば、結婚という制度で考えてみる。性に奔放だと、多くの嫉妬により争いが起きてしまう、そこで争いのリスクを最小限にしつつも快楽を得るため、特定の異性に対して、限定的に、セックスを認めることで、性と幸福とを両立させようというのだ。それが(一夫一婦制の)結婚制度である。


こうして、快を求め苦痛を避ける快感原則と、現実の社会生活に対応するためにあえて苦痛を飲み快を抑制する現実原則とがある。そして、それらをそう名づけたのが精神分析医フロイトである。


確かに、快楽主義者エピキュリアンにはこういう現実的なところがある。エピキュリアン、つまりエピクロス派の人たちは、快楽主義者だからといって、快楽をひたすら過剰に求めるのではない。

過剰な快楽追求はむしろ苦痛につながるので、過剰な快楽を求めないようにすることで、心の平安という真の快楽を求めた、というところが本来らしい。

つまり、彼らは、真に快楽を求めるが故に、ある意味では禁欲的なのだ。


計算して我慢するという意味では、理性的でもあり、快楽を求めてはいるという意味では、感性的でもあり、これはその両方を満たす穏当な解決なのである。


●フロイトの「快感原則の彼岸」


さて、もうひとつは、快感原則と現実原則の両方を超えた欲求である。


まず人間は、単に欲求を満たすのではなく、過剰に満たそうとするところがある。

例えば、ただ体型が健康的であれば良いのではなく、とことん体型を追求してしまったりする。

その結果として、拒食症と過食症を繰り返すになろうとも、やってしまう、やらなければならない、というような。

こうした過剰なもののうちでも不快を積極的に求めてしまう衝動をフロイトは《快感原則の彼岸》と言ったり、《死への欲動》という言葉で違いを示そうとした。

快感原則(=エロス)に対する死への欲動(=タナトス)である。


● 過剰な男ドンファン


「ドン・ファン」という男は、過剰である。

彼は自身の動物的で性的な欲求を満たすがために、女性を誘惑するのではない。


ナンパ師は「女を何人抱いたのか?」という数を誇ったりするが、それは、動物にはなく、むしろ人間的である。

一回一回の色事ではない。総体としての色事。

ドンファン自身はいちいち数えてはいないが、色事師としての自身を誇っている。

数えきれないという境地。


次から次へと処女を征服することによる自己優越の快楽。彼はベッドの上で勝負するのではない。ベッドの上に連れてくるまでが勝負なのだ。


ドンファンの話に戻るが、ドン・ファンとは「セビーリャの色事師と石の客人」という17世紀のスペインの戯曲に出てくる色男の登場人物である。


モリエールの「ドン・ジュアン」はフランス語のドンファンであり、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」は、イタリア語のドンファンであり、すべてこの「セビーリャの色事師と石の客人」を原型として書かれている。


ドンファンの特徴としては次のようなものがある。

・処女しか狙わない

・一度抱いた女は2度も抱かない

・同時に複数人は追わないし、抱かない

といった流儀がある。


また、ドンファンという言葉はもはや外来語としてのカタカナ日本語化しているが、スペイン語としては、ファンというよりフアンであり、また、ドンよりもフアンにアクセントがある。ドンは英語のミスターと同じく敬称を意味しており、名前ではないためだ。

ということを翻訳者田尻陽一氏は言っていた。

それを踏まえ、これ以後はドン・フアンと表記することにする。


●バタイユと動物への回帰


しかしそうは言っても、結局のところ、本能であり、性欲じゃないか!?

生物学や進化論から考えても、男がたくさんの女性に種をまき散らそうとするのは、理に適っているとも言われる。

そうすることで多くの女性に遺伝子が残りやすくなるからだ。


しかし、人間はあまりに過剰なゆえに逆に動物へと回帰すると考えてみるのはどうだろうか?


フランスの思想家バタイユは、次のように考える。

人間は、労働によって社会生活を営むため、自らに本能的な事柄をいろいろと禁止している。

例えば、衣服を見に纏うことで、性欲を抑え、仕事に専念できるようにする。

このように、人間は自身を勤勉で我慢をする人間にしたてあげたのだが、禁止することで禁止を破りたいという欲望が芽生えてしまった。

※ 禁止されることでむしろ禁止を破りたくなる心情を心理学で「カリギュラ効果」という名前までついている。


そこで、人間は一時的であれ反動的に動物へと回帰することがある。また、そこに過剰なエロティシズムを覚えるとバタイユは言う。


やはり人間は動物じゃないか?と思うかもしれないが、そうではない。


禁止を破るということには、動物にはないエロティシズムがあるのである。

例えば、服を着ないということは動物にとっては普通のことである。

しかし、人間は服を着ることを強制されたために、服を脱ぐという行為やシースルーの服やチラ見せや裸体そのものにエロスを感じる。

動物とは違い、エロスを感じる対象があまりにも多く多様で豊かなのである。


禁止されずに交尾をするのと、禁止を破ってエロいことをするのでは、全く異なる。

動物性で考えると、元から動物の状態であるのと、動物を抑えていた人間が再び動物になるのでは、同じ動物性でも全く違うと看破したのだ。


人間は、あまりに人間的であるがために、動物にさえなってしまうほど過剰なのだ。


●神への挑戦者ドン・フアン


ドン・フアンは神に挑戦する。

性欲は関係がなく、むしろ、道徳が関係している。神の掟という道徳がないのではなく、道徳を認めた上で、それに反抗するのだ。

これが禁止されるが故に禁止を破るエロティシズムに繋がっている。


それゆえに、ドン・フアンが破滅することは必定であるが、それがわかっていてもやめられない。

むしろ、開き直ってしまうのがドン・フアンなのである。


神から火を盗んだプロメテウスの神話と同じである。

プロメテウスは、先見の明がある。

彼は神(ゼウス)から火を盗み、その罰のために毎日、絶えざる苦痛を味わうことになるが、後悔はしない。

プロメテウスは、神々すら知らない神々の死の秘密を知っているのだ。

それゆえに、むしろ大胆に神に反抗できるのである。


それは、純粋な理性的存在者(神のような存在)でもなく、純粋な動物というわけでもない。


●ドン・フアンの反復強迫と死への欲動

ドン・フアンは破滅へと自ら突き進む。


ところで、原タイトルは「セビーリャの色事師と石の客人」だった。

セビーリャの色事師とはドン・フアンのことであるが、では、石の客人とは何者か?


ある晩、ドン・フアンが美しい女ドニャ・アナの元に夜這いに行く。

しかし、彼女の父にドン・フアンは夜這いを見つかってしまう。そして、ドン・フアンは彼女の父に殺されそうになり、正当防衛で殺してしまうのだ。石の客人とは、その殺してしまった男を悼んで作られた石像である。

※ 余談だが、村上春樹の「騎士団長殺し」の騎士団長とはドン・フアンのモーツァルト版(つまり「ドン・ジョバンニ」)におけるこの殺されて石像にされた男のことである。


この石像は死の象徴なのである。


ドン・フアンは二度、自らが殺した人物の石像と夕食を共にする。一度目は自らの屋敷で、二度目は礼拝堂で。

なぜドン・フアンは自らが恐怖を抱いている相手と2度も食事をするのか?


フロイトは、快感原則の彼岸に反復強迫を見ている。それが不快であり、苦痛であるにも関わらず、強迫的に反復してしまうのである。


過剰に人間的なドン・フアンは、強迫的に、自らが恐怖を抱いている相手と2度も食事をさせられているのだ。まるで自らが望んでいるかのように。


死とは、究極の現実と言われる。


しかし、ドン・フアンは現実を見ようとしない。女を見るときも、生身の女ではなく、幻想としての女しか見ていない。いや、決して見ようとはしない。


現実に存在した色事師カサノヴァとは違い、ドン・フアンは幻想なのだ。



逆に、ドン・フアン幻想が現実の男たちをドン・フアンにし、生身の女を見るカサノヴァからは遠ざける、かもしれないが。

ドン・フアンは女の現実を見る前に、逃げ切るのだ。


それゆえに最終的には死という究極の現実に直面しなくてはならないのだ。


※ ドン・フアンはよくカサノヴァと比較される。

ドン・フアンは実在のモデルがいたという仮説もあるけれども、あくまで、スペインの戯曲における架空の人物だが、カサノヴァはイタリアにおける現実に存在した色事師である。

ドン・フアンは手練手管で女性を口説き落として一回征服しては逃げ去るために女たちから恨まれるが、カサノヴァはあくまで女性たちを全力で愛し悦ばせることに特化しているため、女たちからは恨まれにくいとか。


●劇団クセックACTによる最新のドン・フアン舞台化


この戯曲は大昔から何度も舞台化されているものだが、最近2024年にも舞台化した。

クセックACTという劇団である。

実は私も舞台役者として出演した。


実のところ、このドン・フアンの舞台企画は2020年に公演するはずだったのだが、コロナの流行によって余儀なく延期し、4年ほど温めていたものである。


演出の神宮寺さんは、今回はこのドン・フアンに死というテーマを際立たせて描きたいと言っていた。


クセックACTは、言葉を立たせて全身から発話するというような発声をしている劇団であり、また顔や身体の表現は異形である。

そして、全体としてはその美しさから「動く絵画」だと評される。

そんな劇団である。


演出の神宮寺さんはエスペルペントesperpentoを表現として追及しているそうだ。

エスペルペントとはヴァーリエ・インクランValle-Inclán(1866-1936)というスペインの劇作家が用いた不条理劇の呼称で、「滑稽感とグロテスクの混交した美学」「グロテスクなデフォルマシオン(デフォルメ)」を意味している。

「尊大で、強烈で、情熱的で、破壊的」でもなければならないとされるこのエスペルペントだが、クセックACTの異形なものはここから来ているらしい。


そして、このエスペルペントは、その非日常性ゆえに、死の世界の表現としてもふさわしいように思われる。


人間は過剰であり、死へと突き進んでしまうほどだ。

この過剰というのは、ある意味では”歪み”でもあるのだ。

そして、この人生を生きるだけでは飽き足らず、表現という人間の人生にとって余計なものさえも必要不可欠なものとして求めざるを得ない。


表現とは、究極的には、人間が死へと直面するようなものなのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿