ヘラクレイトス
理すなわちロゴスは、ここに示されているのに、人々は、それを聞く以前にも、ひと度聞いて後にも、決して理解するようにならない。なぜなら、すべての物事は、ここに語られた通りに生じているのに、彼らはまるでそれを見聞きしたためしがないも同然で、しかも、多くの話や事実を見聞きしながらそうなのだ。まさにそうしたことを私はつまびらかにしており、それぞれの物事をその本来のあり方に従って分明にし、それがいかにあるかを明示していると言うのに。他の人々は目覚め、後に何をしているのかも、さながら眠っている間の行いを忘れているのと同様に、気づかれていないのだ。それ故、あまねきものすなわち共通的なものに従わねばならない。しかるに、この理こそあまねきものであると言うに、多くの人々は、自分独自の思慮を備えているつもりになって生きている。
道がどこへ通じているのかを忘れている人。
彼らがとりわけ絶えずかかわりあっている理ロゴスー全体を司るものー、それと彼らは相入れず、また毎日突き当たっている物事が、彼らにはなじみのないものに思われている。
対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。そしてあらゆるものは争いによって生じる。
戦争はあまねきものであること、正道は争いであること、万事は争いと必然に従って生ずることを知らなければならない。
結びつきーそれは全体であって全体ではない。一体化していながら分裂している。調子が揃っていながら不揃いである。そして万物から1が生じ1から万物が生じる。
同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。
生まれ出た者たちは生きようとするが、それはすなわち死の定めを得たいと欲する、あるいはむしろ、安らかな眠りにつきたいと欲することに他ならない。そして、子供たちを後に残すことで、また死の定めが生ずるのである。
我々が目覚めた時目にするものは死であり、眠っている間に目にするものは眠りである。そして死して後に目にするものは生である。
目覚めている者たちには共通の1つの世界があるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけの世界へ帰っていく。
戦死者には、神神も人間たちも、共に敬意を払う。
なぜならばより大いなる死モロイにはより大いなる取り分モイライが当たる。
戦死者の魂の方が、病に倒れたものが魂よりも清らかである。
人は夜中になると自分の眼光が消えるので、灯火をつける。生者も眠っているときには死者につながり、目覚めているときには眠った者につながっている。
死後に人間たちを待ち受けているのは、彼らが全く予期もしなければ思いもかけないようなことである。
知を備えた唯一の存在は、ゼウスの名で呼ばれることを非とし、かつ是とする。
魂の限界は、それに行つこうとして、たとえあらゆる道を踏破しても、見つけ出せないであろう。それほど深い理ロゴスを彼は持っている。
海水はとても綺麗で、とても汚い。魚はそれを飲み生命を保っているが、人間には飲めないし、命取りである。
不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かの者の生をこのものが死している。
火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。
魂にとって水となる事は死であり、水にとって土となる事は死であるが、しかし、土から水は生じ、水から魂は生ずるのである。
湿ったものになる事は、魂にとっての喜びであり、あるいはまた死である。
われわれはかのもの魂の死を生き、かのものはわれわれの死を生きる。
いかなる場合にも命運は定まっているのだ…。
どんなふうに生きていけばいいものやら、…。
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