すべてが理想論で片付けられるわけでもなく、すべてが現実主義で片付けられるわけでもない、それが人間。その時々、個別的な事例で適切さを見ていく。
また、生まれながらに善性も悪性もあり、人によっては善性のほうが多かったり、悪性のほうが多かったりもする、そしてまたそのどちらでもない領域もあって、環境や教育によって変わりうるような余地もある。
そんな感じではないでしょうか?
アリストテレスが言っていた中庸ですが、中庸とは中間を取れということではなく、その時々の適切さを実践していくことではないのかなと考えたことがあります。
「勇気」とは、「無謀」と「臆病」の中間ではなく、少し「無謀」に傾いている。その傾き加減が大事。
とにかく最初から先入観で「性善説だ」「性悪説だ」「現実主義だ」「理想論だ」とあらかじめすべてを片付けるのではなく、一旦それらの考えは置いておいて、個別具体的に起きている現象を見ていき、その時々の適切な対処を考えるということが大切よね。
他にも、大食は七つの大罪のひとつですが「食べるな」という意味ではない「食べすぎるな」という意味。
今まで生きてきた中でいつもぶつかるのは程度の問題ばかり。どの程度が適切なのか?妥当な落とし所は何か?
ある意味、政治的。
「人間はポリス的な動物である」とは言ったものだ。
実際に妥当な落とし所を探って行かなきゃならない。それはある意味では現実的。
だからといって、理想を捨てているという意味ではない。
常に理想はそこにある。なぜなら、人々は理想を求めてもいるから。理想を求めるからこそ、理想との乖離に絶望したり、諦念したりする。
そうしてまた理想に近づこうとし、幾分や多く達成させる人もいる。
そうでなければ、ここまでの文明発展もないだろう。空を飛びたいという理想なしに、わざわざあんなめんどうなものを作って事故ってまた改良して空を飛ばないだろう。
理想に近づく技術と道徳。
しかし、技術は歴史的に蓄積するが道徳はなかなか歴史的には蓄積しないというのがふたつの違いだろう。道徳はなぜか個人で終わり、次世代に伝えることは技術に比べると難しい。
0 件のコメント:
コメントを投稿