2023年9月19日火曜日

狂人とは理性を失った人間のことではない。

チェスタトンの格言

「狂人とは理性を失った人間のことではない、理性以外のあらゆるものを失った人間のことである。」

これには二つの意味があるかもしれないと考えてみる。


ひとつはどこまでも理性によって合理性で突き進んでしまう場合、パラノイアや陰謀論者は実は極めて理性的だと言われる。彼らの中では合理的に説明がうまくつながり結びついている。

最近、現代形而上学論集を読んでいるけれど、そこでも同じような感じだ。そこでの論者は、ここに猫が一匹いるのに、少なくとも1001匹いることになってしまったりすると論じたりしていた。

ある意味では、理性ゆえに現実という大地から離れてしまっている。

適切性がない。論理的ではあっても、現実に生きている人々の視点などが無視されたりする。


一方で、その正反対、極めて良識的すぎるという意味で理性的な狂人。ダスマンかも?しかし、その良識があなたが生きているその時代のその場所のあなたの生きている界隈での社会感覚において良識的理性的ということであって、文化相対的なのだが、それに気がつかない場合。

“私の思うこの良識”が絶対だと押し付ける。

フーコー的な考え。近代科学の発達過程における理性概念によって、自分達と異なる人、狂人、すなわち反常識的、非理性的な者は、病気であるとされ精神病院に封じ込められた。理性的な振る舞いを強要することに何の疑問も持たない。狂気を病気とする考えも狂気かもしれない。


伝統的には

前者が認識に関わる理性

後者が実践に関わる理性

その二つをカントは混淆するからややこしいのかもしれない。

2023年9月16日土曜日

事実factと真理truthは違う



 「考古学で大事なのは事実だよ!事実!真理に興味があるならば、タイラー先生の哲学科は廊下をまっすぐいったところだ」インディジョーンズ


事実factと真理truthは違う

三角形について、その内角の和は180度というのはひとつの真理。

目の前のおにぎりの内角の和を実際に分度器で測ればそれは事実。

真理は、それがこの世界には事実として存在しないものでも扱える。

例えば一億八万角形とかについて、その内角の和だって計算できる。それは真理だが、事実としては、一億八万角形がこの世界になくてもよい。ただ、真理であるならば、事実としても存在する可能性は秘めているだろう。


彼は浮気をしているかどうかを確かめることは個別的であり事実に関することだが、あらゆる男は浮気をするか?となると真理をもとめていることになる。

2023年9月15日金曜日

中庸とは適切さを探ること

すべてが理想論で片付けられるわけでもなく、すべてが現実主義で片付けられるわけでもない、それが人間。その時々、個別的な事例で適切さを見ていく。

また、生まれながらに善性も悪性もあり、人によっては善性のほうが多かったり、悪性のほうが多かったりもする、そしてまたそのどちらでもない領域もあって、環境や教育によって変わりうるような余地もある。

そんな感じではないでしょうか?

アリストテレスが言っていた中庸ですが、中庸とは中間を取れということではなく、その時々の適切さを実践していくことではないのかなと考えたことがあります。

「勇気」とは、「無謀」と「臆病」の中間ではなく、少し「無謀」に傾いている。その傾き加減が大事。


とにかく最初から先入観で「性善説だ」「性悪説だ」「現実主義だ」「理想論だ」とあらかじめすべてを片付けるのではなく、一旦それらの考えは置いておいて、個別具体的に起きている現象を見ていき、その時々の適切な対処を考えるということが大切よね。


他にも、大食は七つの大罪のひとつですが「食べるな」という意味ではない「食べすぎるな」という意味。


今まで生きてきた中でいつもぶつかるのは程度の問題ばかり。どの程度が適切なのか?妥当な落とし所は何か?

ある意味、政治的。

「人間はポリス的な動物である」とは言ったものだ。

実際に妥当な落とし所を探って行かなきゃならない。それはある意味では現実的。

だからといって、理想を捨てているという意味ではない。

常に理想はそこにある。なぜなら、人々は理想を求めてもいるから。理想を求めるからこそ、理想との乖離に絶望したり、諦念したりする。

そうしてまた理想に近づこうとし、幾分や多く達成させる人もいる。

そうでなければ、ここまでの文明発展もないだろう。空を飛びたいという理想なしに、わざわざあんなめんどうなものを作って事故ってまた改良して空を飛ばないだろう。


理想に近づく技術と道徳。

しかし、技術は歴史的に蓄積するが道徳はなかなか歴史的には蓄積しないというのがふたつの違いだろう。道徳はなぜか個人で終わり、次世代に伝えることは技術に比べると難しい。

2023年9月14日木曜日

不可知論について考える前に「知る」の意味を考えるべし

不可知論とは何か?


不可知とは「知りえない」「知ることが不可能」ということである。


不可知論を語る前にまず「我々は何を知りうるのか?」「「知る」とはどういうことなのか?」を考えなくてはならない。


最初から不可知について考え始めてしまうと、知りえないことはそもそも知りえないのだから、それは私にとって存在しないのと同じことだ、でよくよく考えもせず終わってしまうこともあるからだ。


不知は知らないことで、不可知は知りえないことで、未知とは未だ知らないことだが、無知とは「知る」ということがよくわかっていないのにああだこうだ述べることである。