2011年4月28日木曜日

みんな違う?

「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがあるよね」という言葉に違和感を覚える。
みんなって誰なんだ。「みんな変」という時の変はみんなに共通なのか、と。
みんなではなく、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・としか言えないのではないか。
もちろん変であると言う言葉をみんなを主語としてつけても差し支えないし、、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・→「みんな変だ」としても論理的、文法的にはよいだろうが。
注意:ここでは「この人」の多様なあり方については考えない。
注意:「みんな変である」という命題はもちろん経験的な憶測に過ぎない。
「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う言葉は事実であるかどうかということを問題にしたいのではない。
私は「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う人はそれを言った後にさまざまな人々のさまざまな変さや異なる性質を度外視して「変」という言葉で一義にしてしまうのである。
自分と他人がどれだけ違っているのか、それをよく見極めることこそが私は重要だと考える。
そして「私」と「君」との関係性こそが道徳を形成していくのではないかと考えている。
ここでは理念としての道徳や正義は度外視する。そんなものはあってもなくても実践においては無意味である。
それはともかく、「みんな〜」ではなく、「その人の固有性をよく見よ!」と言いたい。

2011年4月27日水曜日

選択

なぜこんなに苦しいのだろうか。
私がこの苦しさを選んだからだ。
 
私はもっと楽な生き方があることを知って、あえてこの生き方を選んだ。
私は善、均衡状態、平和を知って、あえて悪、不均衡、闘いを選んだ。
空気が違うことが分かっていてあえて空気を読まない。
悪化することが分かっていてあえてより悪化させる。
その上で権威には媚びいろうとするような卑劣さ。その卑劣さに対抗しよう。だが、それは未だ達成されてない。
私は自分で朝早く起き、授業でいわゆる内職をしながらも授業に積極的に参加し、うるさいやつを注意した。誰も話しかけず、周りには反感を買い、授業中は友人とも距離を置く。先生、学生たちとの闘いの場。
全て自分が選んだことだ。
弟に「それで楽しいのか」と訊かれて、応えることができなかった。
だが、私が自分でその生き方を選んでいること。その常に不満足な生き方に満足していることであろう。楽しいという生き方を選んでいたら満足な生き方に不満足だったに違いない。
そして、「退屈だ、つまらない」と嘆いている弟より、絶望的生を充実している。
 
常にさまざまなことを考え、実行していく。弱さからくる強さ。あの言葉が浮かぶ。
 
「芸術家はつねに孤独のど真中で無と対決している」岡本太郎

2011年4月17日日曜日

avater アバター

現代においてはインディアンの問題を考えることは難しくなっている。それをアバタ—は人々に受け入れやすい形で復活させた。
映像美、「300」や「パンズラビリンス(原題El labyrinto del fauno)」、あるいは「パフューム」に見られるような映像美は中身が無内容であっても見るに値すると思われる。この映画もそういった映像美がすばらしい。そして単にすばらしいだけではなく、自然の神秘を伝えるのにまったくもって言葉を必要としない伝え方が出来るのである。同じような映画に「もののけ姫」があるが、あの映画はそれだけではなく、神を動物として物体化しているという点が異なる。アバタ—ではそれが植物にやどる目に見えないものとして、表わされている。
また、アバタ—はまったくもって単なるエンターテイメント作品として見ることもできるのである。
映像としてはやはり、CGを使い、ゲームの様な世界観を醸している。一方で、「もののけ姫」は、やはり、二次元であるという感じは否めない。言葉で言うなら「アバターはすごいけど、現実味がない」のである。しかしそれには理由がある。
 
「アバター」とは何であろうか。
辞書には二つの意味が出ている。
�神の化身、具現
�チャットなどのコミュニケーションサービスが利用できるインターネット上の会員制コミュニティにおいて、自分の分身として設定するキャラクター
 
第一の意味においては主人公は「トル—ク・マハト」、神的力を持った者としてある種の救世主となる。
第二の意味においては現実には足の不自由な主人公は惑星上の住人の身体(つまり分身)で惑星の世界にコミットし体を自由にする。これは現実には力を振るわない人がネット上のコミュニティーでは中心になれるのと同じである。
そして、最後に主人公は本来の現実の身体を捨て、その惑星の住人の身体で一生を送ることにする。つまり、仮想を現実にしてしまうのだ。

アリス・イン・ワンダーランド  Alice in Wonderland by TimBurton

DVDでバートンのアリス・イン・ワンダーランドを観た。
率直な感想だが、やはり原典を越えることはできなかった。通俗的な話で、奇妙な美のみが見どころとなっている。勧善懲悪。悪の対立。圧政。女性英雄が運命を主体的に切り開く話だった。

不思議の国のアリスのテーマはそんなところにはない。徹底的な矛盾、運命による翻弄にあろう。主体的であることはその世界に秩序をもたらす。従って、アリスが主体的であるのは好奇心のみであって、何らかの決心は必要ない。
既存の不思議の国のアリスの世界が固定的になってしまっている。不思議の国はより流動的なものであると思う。 もはや不思議の国のアリスを映画として撮ることは固定的なイメージの繰り返しでしかないのか。

もっと独創性が必要だと思う。例えば、赤の女王の顔が大きいのは最初は面白く見えたが、しばらくすると面白く
もなんともない。だが、もしその顔が女王の感情によってふくらんだりしぼんだり変化するとしたらどうだろう。 あるいはもっと帽子屋はもっとトンチンカンなことを言ってもいいはずだが、映画ではまったくもって狂人のようにふるまう常識的な人間だった。
全体的に可笑しさが中途半端であると感じた。ビックフィッシュのほうが、よっぽど独創的で面白い。
同じ世界観でも原典に沿ったディズニーの不思議の国のアリスのほうがよく思える。 それはディズニー独特の音楽(歌)の力にあると言えし、アニメだから画像が加工しやすいということもあるし、お茶会はまったくもってイカレていてでおもしろすぎる!それに比べてこの映画には面白いところが少ない。

キャラクター呼称の日本語表記について差別用語だなんだといろいろあろうが「マッド・ハッター」ではあまりになじみがない。日本語の語感を発揮した「いかれ帽子屋」のほうがよっぽど親しみやすいと思う。
いかれるという表現に問題があるなら、そもそも英和辞書によれば"mad"も"mentally ill"よりは弱い表現であるが、"insane"より強く凶暴であり、問題はあるのではなかろうか。英語には強くないのでよくは分からないが。