「知は力なり。」ベーコン
イドラ(思い込み)を廃して、実際の実験データなどに基づき、ちゃんと知ろう。そうすれば、自然を征服できる。
「知は(権)力なり。」フーコー
かつて権力を批判した言説も再び権力的に振る舞うようになるぞ。
知は(権)力なり
権力も力も英語でPower。
精神病院、軍隊、学校
これらはすべて残虐刑の代わりとなった近代の監獄を元に作られている。
特に学校
自然を支配するためにまず自然を知ろうという意味での「知は力なり」フランシス・ベーコン
それは、学校によって意味が変質する。
学校は、これが正解の知だというものを教えるだけでなく、
それをよく知っている(記憶している)者は偉いという序列によって、評価する。
すると不思議なことに、学生たちは真理としての知を求めず、権力としての知を自主的に求めるようになる。
「知は(権)力なり」フーコー
それは心に自分で牢獄を作るようなものである。
人は一見優しそうな顔をして言う。
「勉強するかどうかは君の自由だよ」と
しかし、顔は「勉強しろ」という顔をしており、社会のすべては「勉強しろ」という構造になってしまっている。
そして、その一見優しそうな言葉によって、子供は自分で牢獄を心に作るしかなくなるのだ。
いまや、その牢獄から抜け出せなくなり、自決した子供がまた増えた。
日本政府はゆとり教育と競争教育の間を数十年ごとに振り子のように動いている。ゆとり教育によって学力低下が叫ばれるようになると、競争教育をけしかけ、競争教育によって子供たちの疲弊などが叫ばれると、再びゆとり教育に移行する。
学校制度は人々が知識を得ることで自由になるために建てられたと思われているが、実はその逆で、これが正しい答えだよ、もっと言うとこれが正しい社会的常識だよという都合の良い知を刷り込んでいくことによって、うまいこと人が自発的に支配されるようになっている。学校が監獄や病院や軍隊がモチーフでできているからだ。
力とはなんなのか?
ニーチェによれば、もともとは力とは権力ではなく、単純な暴力だった。
それは単純に肉体や頭脳が強い者、勝者のことだった。
しかし、イエスおよびパウロがそれを転倒させた。
弱い者こそ救われる、と。
そのため、後に暴力ではなく、すべてが権力的に作用するようになった。
したがって、イエスは弱いことによって、十字架にかけられることによって、最も強い権力者となったのだ。
フーコーはニーチェのこれをさらに先鋭化させた。
権力とは、人の精神や肉体を操作しようとするときに働くもの。
「監獄誕生」や「狂気の歴史」において、残忍な刑罰がなくなり、禁錮刑ばかりになることと、学校、精神病院、軍隊が単なる寄せ集めではなく、機械的に規律が整えられるということとは無関係ではない。
そこには大いなる権力が働いている。ラベルが貼られ、評価診断され、これが真理・健康・強いと教えられるしつけによって、人々がついに自分で自分自身を束縛するようになり、勝手に管理されやすくなる。これこそが国家が人々を最も権力的に効率よく支配する例だとした。
先ほど述べたが、学校においては「これが真実である」ということが教科書によって教えられる。それを覚えられる者が成績という形で評価される。このシステムそのものが権力的である。
そして、これはフーコーには書いてないが、明らかにその源流は、宗教だろう。すべての人がある人によってこれが真実だと教えられる。それが真実かどうかというのはすべての人にはわかるわけではない。しかし、それを押し付けられるのだ。
フランシスベーコンは科学は自然を支配できるという意味で「知は力なり」と言ったが、フーコーは知は権力的に人々に作用するという意味で「知は(権)力なり」という。
フランシスベーコンが人間が自然を知ることによって自然を支配していくことを「知は力なり」と言いましたが、フーコーはそれをさらにつっこんで「権力は抑圧し罰するだけでない。それよりずっと奥まで浸透し、欲望を生み、快楽を煽り、知を創り出す」というところまであぶり出していくのだ。
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