2026年3月7日土曜日

ロボコップとデトロイト





 久しぶりにロボコップ・シリーズを見た。リメイクは今回初めて見た。


ロボコップは80年代のSFアクションのアメリカ映画である。そして、舞台はデトロイト。これだけでピンとくる人がいるかもしれない。


デトロイトといえば、自動車工場が立ち並ぶモーターシティ。中心にはゼネラルモーターの本社もあって、摩天楼が立ち並び、ルネサンスセンター(1977〜)とも呼ばれている。



一方で、郊外にスラムができており犯罪率も高い。



同じくデトロイトで会社を創ったフォードのベルトコンベアー(1913〜)を思い浮かべる人もいるかもしれない。人間が歯車のように扱われ、非人間的ではないかという指摘がチャップリンの映画「モダイタイムズ」(1936)ができたときからされていたが、



そうした背景の元にできた機械化していく勢力(オムニ社という架空の大企業)とそれに対抗する人間性との闘いをサイボーグの警官を中心に描いた映画なのである。


ロボコップは続編にて、再開発についても描いており、ルネサンスセンターを意識していることは間違いない。


また、3作目では、日本の企業が裏にいる設定になっており、サムライニンジャロボットも出てくるので、日本の自動車産業を念頭に置いているのだろうが、ちょっとした皮肉になっているw


そして、3作目からデトロイトが強調されなくなっており、2014年のロボコップリメイクでは、ほとんどデトロイトという都市名が強調されず、むしろアメリカ全体を語っていた。



ロボコップ(1987)


ロボコップ2(1990)

2作目は敵のロボットがなかなかかっこいいし、ドラッグ中毒のギャングの脳みそが使われたサイボーグという設定も意味不明で良いw


ロボコップ3(1993)


3作目のサムライニンジャロボットだが全体に対してかなり影が薄かった、全体のテーマにあまり関係がなく、目立たない方が忍者らしいからいいのかな?ww


ロボコップ(2014リメイク)

豪華俳優でかっこよくリメイクされている。



ロボコップのリメイクを見ていたら、突然のフランシスベーコンの絵画w

ちなみに、この人はバートン版のバットマンやってた人。




2025年12月13日土曜日

現実を考えないならどんな仕事をしますか? ー非現実とは?ー

「現実を考えないならどんな仕事をしますか?」みたいな問いを見かけた。

難しいな。人は何を考えるにも現実をベースにしている。それを全く抜きにしたものは通常、考えられない。


これから、仕事を考えるにあたって現実をできる限り消し去ろうと思う。

現実から離れるには、段階を踏むのが良いようには思われる。


まずは、今、就いている仕事以外の仕事。

今はトヨタ系列の仕事はしていないし、ウーバーイーツの仕事もしていないし、また、今就いている仕事を運営している社長でもないから、それらの仕事に就くことは現実を考えない仕事の最初の段階になるんじゃないのかな。

でも、それだと、全然今からでも就こうと思えば就けるね。


そこで次の段階に行く。

例えば、量子力学の研究でノーベル賞を取り教授になるとか、油田を当てて億万長者になるとか、宇宙飛行士になり宇宙を飛び回る仕事に就くとか。そういうのは一般的な意味で現実を考えない仕事の範疇に入りそうだ。


しかし、もっといけると思う。

例えば、私が今生きている時代とは別の時代で考えてしまうのはどうだろう?

つまり、20世紀に戻って、アインシュタインそのものになり相対性理論の論文を書くとか、15世紀に戻って、コロンブスそのものになり、航海して新大陸を見つけるとか。

かなり現実味がないと思う。なにしろ今生きている自分でさえないのだから。


さらにもっと現実を考えない領域に行けるだろうか?

例えば、森林で木を運ぶインド象になるとか、笛の音に合わせて踊るコブラになるとか、火星の生命体として、火星の仕事を真っ当するとか。


もっともっといける。

消しゴムになって、書かれた字を消す仕事を真っ当するとか、テレビ受像機になり人々に日々番組を写し続けるとか。


さらには、数学的概念0になるのはどうだろう?意味がわからないと思うが、私は数学的概念0として仕事を真っ当するなら、人々が計算をするのに役立つ。あるいは、存在そのものはどうだろう?我々は今は人という存在者で、目の前にあるのはスマホという存在者なんだが、人という存在者は存在しているときのその「存在」そのもののことである。(もっと意味がわからないかw)


もっといけるか?

私は、完全な非現実なものとして、非現実な仕事を真っ当する。それがなんなのかは言えないし、わかりえない。なぜなら、我々が理解できるものは、すべて現実に基づいているからだ。しかしそうすると、もはや「仕事」という概念が成り立ち得ない。

仕事もろともすべて消し飛んでしまうのである。


そして、哲学者はここまで徹底して考える。

この問題に対してここまで考えた人っているの?w

2025年12月8日月曜日

ライプニッツの夢見る石ころ

そう、たとえるなら、子どもが描いたたった一枚の落書きにも、実は読み取ることのできない全宇宙が描き込まれている、とでも言おうか。


石ころが転がっている。

石ころが存在している。

なぜ?......偶然。

こんな石ころにも、魂が宿っているとしたら?

存在が生まれる前、現実が生まれる前、宇宙が生まれる前、

あらゆる可能性がつまった、いわば卵のようなもの

この卵は存在を求めて宇宙を夢見ている。

その可能性は無限大。卵はそのすべてを実現する力を秘めている。

だが、我々がその卵から生まれてきたのだとして、

あのときの可能性の1%も実現できたのだろうか。

ところで、この卵は、宇宙のすべてを知っている。

ここから起こり得ること起こるだろうこと、見えること、見えないこと

それどころか起こらなかったこと起こり得ないこと、知り得ないことまで。

なにしろ、丸い四角のような不可能な図形や

赤い匂いがする数字概念1の肌触りという

意味の分からないものさえも含まれているらしいのだ。

だが、当の卵自身はそれを知らない。

知っているのに知らない。つまり、気づいていないのだ。

空を見上げれば昼であっても、無数の星が瞬いているはずだ。そう、全宇宙の真理はすでにあなたの目の前にすべて映り込んでいるはずだ。

ただあなたはその細部に至るまでは認識できない。

だが、意識の太陽が沈み、闇の中に身を置けば

こそ、無限の宇宙が開かれる。

それこそが殻に閉ざされ、未だこの世界に

投げ出されていない卵なのだ。

だが卵は待っているのではない。

外から与えられる光も、衝撃も、啓示も必要としていない。

その闇に閉ざされた殻の内側で星のように輝き

始める。すでにすべては始まっている。

卵は世界を「映す」のではない。

世界を「生じさせているのだ。

見ず、聴かず、触れず

それでも、その内側で、ひとつの宇宙を正確に

緻密に、絶えず描きつづけている。

ただ、自らの法則にしたがって、自らの宇宙を展開している。

その姿は、まるで静止しているかのように見えているが

本当は、どんな星雲よりも激しく、どんな時間よりも深く動いている。

世界と世界は互いに触れ合わない。

だが狂いもなく、ずれもなく、響き合っている。

ここから124光年離れた惑星で

宇宙人が溜息をついても、

この卵の中の宇宙は微細な反応を遂げる。

この卵は殻の中に閉ざされているのに、

外の世界を正確に受けとり、表現する。


石ころが転がっている。

石ころという存在者... なぜ?

可能な限りたくさんの可能性

ありえた世界、ありえなかった世界もしもの世界を思い浮かべてみよ。

この無限の可能性の中でこの世界だけが

選ばれた理由は、誰の目にも映らな一場所で

静かに永遠に成立している。


それが最善だからだ。卵自身が無意識のうちに、自身にとって最も良い選択肢を選び取ったのだ。


だがそれでも私は尋ねずにはいられない。

この世界が最善であるならば、

私たちに与えられたこの漠然とした不安は、

いったい何のためにあるのか?

しかし、その不安すらもまた、

あらかじめ用意されたひとつの響きであり、

この宇宙という楽譜のなかに、

すでに書き込まれている音なのだとしたら?

卵は、沈黙している。

語らず、動かず、ただ在る。

しかし、その内側では、

世界が幾度となく生まれ幾度となく滅びている。

そして、卵の奥深く、

闇とも光ともつかぬぬくもりの中で

ひとつの胎児が静かに眠っている。

その胎児は、まだ言葉をもたない」

まだ、自分自身すら知らない。

けれど、その夢の中で

星々はすでに燃え、海はすでに波打ち

人々はすでに愛し、失い、問いを発している。


そして私は思う。

世界とは外にあるのではない。

この世界とは、この胎児の見るひとつの夢に

すぎないのかもしれない。

石ころが転がっている。

それは、まだ目覚めぬ胎児が、いま、この瞬間

に見ている夢のかすかな揺れなのかもしれない。

2025年12月7日日曜日

哲学するのに哲学書を読む必要あるか?

あなたの思う哲学とはなんですか?と問われた。

その方は哲学書などはあまり読んでおらず、そうした知識には詳しくない。けれども、その人なりにいろんな哲学的なことを考えているらしい。


さて、哲学とはなんなのか?

2025年11月15日土曜日

プラトンの髭をどうしても剃りたい哲学者





 クワインの論文「なにがあるのかについて」を対話ふうにして書いてみた。



クワインはプラトンの髭を剃りたいらしい。

プラトンの髭といっても、実在の哲学者プラトンの髭があったということじゃなくて、プラトン的な考え方の先に生まれた哲学的な髭のことだ。

プラトンはこの世界にはいろんな馬があるが、馬そのものがないと言った。そこで、馬そのものという余計な存在者(存在するもの)を作った。

その延長線にいる(とクワインに見なされる)哲学者たち(実際にはマイノングという哲学者とかがいますが)によって、存在するものはもっと増えていった。

例えば、ペガサスの存在とかね。

彼らプラトン的な人は「ペガサスは存在する」と主張する。それをプラトンの髭みたいなものだとクワインは言ったのだ。

なんでもかんでもすべて存在させたがるプラトン的な哲学者の論理をちょっと提示してみよう。

2025年11月3日月曜日

リメイク版「サスペリア」から暗黒舞踏を探る?!

 最近、映画サスペリアの2018年のリメイクを再鑑賞しました。





ちょうど先日ハロウィンでしたが、ちょっとハロウィン的かもしれません。キリスト教とは違う、魔女的な、まさに土着の民族的なものを表している。しかも、ナチスとの関連も匂わせている。


映画に出てくる魔女の踊りのタイトルは「民族」でした。

映画のダンスを振り付けしたのは世界的なダンサー、ダミアン・ジャレ🇫🇷



サスペリアで描かれていたのは、おそらくノイエタンツを意識していたのだろう。


20世紀初頭から勃興したノイエタンツはドイツ表現主義ダンスやモダンダンスとともに、相互に影響しあって作られてきた新しいダンス表現でした。それらはクラシックバレエへの反抗という側面もあるようです。


映画でも、主人公がダンスにおけるジャンプの際に、飛翔よりも大地が気になるなどと発言していました。


実際、ノイエ・タンツ創始マリー・ウィグマンの代表作には「魔女の踊り」というものがあります。


日本における暗黒舞踏の土方巽もノイエタンツを学んでいたとか。


参考までにYouTubeで関連のダンスを確認することができます。

▶︎マリーウィグマンの魔女の踊り

▶︎サスペリアでのダンスの振付師ダミアン・ジャレのオリジナル・ダンス「メドゥーサ」

▶︎「サスペリア」リメイク2018におけるダンス「民族」





2025年10月13日月曜日

現代のサーカス

 先日、木下大サーカスを見まして、サーカス関連の映画を見てみました。



「フェリーニの道化師」1970伊

サーカスブームが去り、年老いた道化師たちを取材するという映画。フェリーニ監督。


「グレイテスト・ショーマン」2017米

身体障害などのため、個性的であらざるを得ない人たちを募集し、共にサーカスを立ち上げる団長のミュージカル物語。ヒュー・ジャックマン主演


「フリークス」1932米

サーカスで働く身体障害者たちが、彼らを軽蔑しつつ金目当てに騙そうとする美女に復讐しようとする話。モノクロ映画、魔神ドラキュラの映画監督トッド・ブラウニング



サーカス映画を観た後に、木下サーカスを見て、思ったこと。

もはや、フェリーニの道化師のようなはちゃめちゃをやる道化師はいないのか?大砲や銃を打ち鳴らし、斧をもうひとりの道化師の頭に振り下ろし、頭に仕掛けがあるのか、大量の涙を流し、パイを顔に投げつけ、めちゃくちゃやるということは木下サーカスではさすがになかった。


木下サーカスには動物はまだいるが、奇形者(フリークス)はもういない。小人症や巨人症、多毛症や欠落、結合双生児などなど。


「グレイテストショーマン」より、映画「フリークス」のほうがさらにフリークスな身体障害の方が出てきていた。調べたところ、映画「フリークス」は、本物の奇形者が多数出演したこともあって、センセーショナルで、イギリスでは公開から30年もの間公開禁止となっていたという。

サーカスに道義的な問題はついてまわる。


シルクドゥソレイユには、動物は出てこないという。木下大サーカスには、象二頭、ポニー5頭、ラマ一頭、ライオンが一頭が出てきた。

しかし、時代は難しいところにきている。

サーカスは怪物の見せ物小屋ではなく、技術的な技を披露する出し物と化するしかないのだろうか。


「グレイテストショーマン」では、団長がフリークスに対し「君は笑い物ではなく、みんなに必要とされるユニークな存在なんだ」などと説得していた。

実際の当時のサーカスはどんなものだったのか?


「いうこと聞かないとサーカスに売り飛ばすよ」という子供への脅し文句もあったらしいが…


サーカスに売り飛ばされたピノキオはロバにされて働かせられた。

サーカスの負の側面というものはどれほど本当だったんだろうか?



映画グレイテストショーマンもフリークスも、ただ虐げられるというよりも、サーカスを通して、自身が奇形であることに誇りすらあるし、そこでこそ初めて必要とされるというそんな感じを受けたが、特にグレイテストショーマンは美化しているのかもしれない。


しかし、サーカスが無くなることで、彼らはひとつの選択肢を失い、入院するか、手術を受けるか、引きこもりするしかなくなる。あるいは、一部は自身をネタにYouTubeをして、自らが自主的にある種の見せ物になるというのが現代的なのかもしれない。