2026年4月28日火曜日

「羊たちの沈黙」に隠された意味


映画「羊たちの沈黙」みなさんはこの映画に隠された意外に深い意味を知ってますか??
最近(2016年)、この映画に隠されていた意味を知って、改めて単なる猟奇殺人鬼映画ではないと確信し、興奮してます。今(2026年)は納得していない部分もありますが、やはり斬新だと感じています。

ハンニバル・レクター博士は、人肉を食べます。レクター博士には教養はありながら、人を殺すことに罪の意識を全く感じないサイコパスです。
しかし、なぜかFBIのクラリス・スターリング捜査官は、レクター博士と交流していくうちに親近感を覚えます。
その不思議な交流を描いていくのがこの映画の骨子ですが、さて、一体なぜスターリング捜査官は親近感を覚えるのでしょうか?

まずはタイトルの解明から入ります。
「羊たちの沈黙」のタイトルの意味とは、何でしょうか?

タイトルの邦訳は「羊たち」となっていますが、英語を見るとlamb(ラム)であり、「子羊」です。

子羊というと、羊飼いにたとえられるイエス・キリストを想起させますね。

迷える子羊を導き、救う救世主はクラリスでしょうか?


続いてsilence「沈黙」とはなんでしょうか?

第一に、クラリスの幼少期のトラウマ、すなわち、父の死と子羊の死を目の前にして、何もできずただ沈黙しているしかなかったということを意味しています。クラリスは子羊たちの鳴き声を夢に見て、子羊たちを沈黙させてやりたいと望みます。子羊たちの鳴き声はクラリスが助けてやれなかったという悔恨、つまり良心の声なのです。

第二に、バッファロービルなど殺人鬼たちの前では被害者たちは泣き叫ぶ子羊です。クラリスは彼女らを助けようとすることで、夢に見る子羊の鳴き声を鎮めて沈黙させたいと願います。

○幼いクラリスは殺される運命の羊たちを救いたい

⚫︎FBI研修生のクラリスは殺される女性たちを救いたい


第三に、死人に口なし。つまり被害者である彼女らは沈黙するしかない。確かに殺されてしまった女性は沈黙するしかないが、さまざまな痕跡を残しており、そうした痕跡が沈黙しているのに叫び声をあげている。そうした痕跡を捜査することで犯罪の真相にせまるのです。
cum tacent, claimant. (彼らは沈黙しているとき、叫んでいる)

第四に、
内田樹というフランス現代思想の研究をしている哲学者による指摘を取り上げます。

彼は、実はレクターは逆のイエスキリストなのではないか?と問いました。

人間は、動物たちの肉をなんのためらいもなく食べる。それは(キリスト教では罪ではないけれど)今や罪深いことです。

すると、レクターは人間の肉を食べることで、人間の罪を逆の仕方で贖おうとしているとも読めるのではないか?という。

ここで、なぜスターリング捜査官は親近感を覚えるのか?という問いに戻ります。

一つ目の理由は、もちろん、精神分析的なものです。レクターはクラリスに情報を提供する代わりに、彼女自身のプライベートな生い立ちなどの情報を要求しました。それをきっかけに彼女は自身の心のトラウマを打ち明け、レクター博士がそれを受け止めたため、親近感を持つに至ったのです。
人間は誰しも自分自身の心を打ち明けてしまうと、一気に親近感を覚えるようになるものなのです。

もう一つの理由はハンニバルシリーズの物語の深層部分にあります。それはレクター博士が罪の意識なく人肉を食べることによって、罪の意識なく動物の肉を食べる人間に、いわば象徴的な形で復讐していることがクラリスを象徴的に救っているのです。

意味が分かりませんね。もう少し丁寧に追っていきます。

物語の主人公クラリス・スターリングは幼少の頃、アメリカの片田舎に住んでいました。彼女の叔父は生活のため家畜を殺すのですが、彼女はそうした子羊や馬などの家畜のことがかわいそうでなりません。一度は馬と子羊と一緒に家出さえしました。
しかし、結局、動物たちを救うことができませんでした。
そして、その記憶はそのまま、彼女の中で罪の意識を形成しました。

大げさに言えば、要するに動物を殺して食べたり衣類にするという人間の罪深さを自覚したのです。

レクター博士は人間が動物に対して為す屠殺を、人間に対して復讐することで、いわば、人間の罪を贖っているのです。殺人鬼のバッファロービルもそうかもしれません。人間を衣類にしてしまうので。
つまり、イエスキリストがやったのとは逆の方法で人間を救うように描かれているのです。

レクター自身が救世主として捧げられた子羊たちを生贄として、クラリスら罪深き人間を救うという。
タイトルの子羊の意味は、昔から子羊は神への捧げものとして使われていたことの暗喩ともなりうるのです。

つまり、一方ではクラリスは犠牲となった女性たちを救いたい。もう一方では、殺人鬼たちによって、子羊としての人間たちが犠牲となることによって、クラリスたちが象徴的に救われるのです。

註:内田樹の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」のネタを自分なりに再構成しました。
2016年→2026年に改訂

2026年4月14日火曜日

アンデルセンの「赤い靴」は哲学者にとっての真理である!

 アンデルセンの赤い靴の舞踏コンテ・ワカバコーヒー版に現れている新解釈!!


2026年4/11〜12に行われた舞踏コンテのワカバコーヒーによるワークショップ公演「The Red Shoes」(舞踏コンテとは、暗黒舞踏の系譜の舞踏とコンテンポラリーダンスとの融合した身体表現の造語)


新解釈は、私の友人でもある哲学者がこの公演を見て、あまりピンと来なかったと言っていたところから始まった。

彼はそんなことより鉄パイプ椅子が硬くてお尻が痛いことが気になっていたようだ。


まずは我々が見た舞台「The Red Shoes」 について大筋を描いてみる。


2026年3月7日土曜日

ロボコップとデトロイト





 久しぶりにロボコップ・シリーズを見た。リメイクは今回初めて見た。


ロボコップは80年代のSFアクションのアメリカ映画である。そして、舞台はデトロイト。これだけでピンとくる人がいるかもしれない。


デトロイトといえば、自動車工場が立ち並ぶモーターシティ。中心にはゼネラルモーターの本社もあって、摩天楼が立ち並び、ルネサンスセンター(1977〜)とも呼ばれている。



一方で、郊外にスラムができており犯罪率も高い。



同じくデトロイトで会社を創ったフォードのベルトコンベアー(1913〜)を思い浮かべる人もいるかもしれない。人間が歯車のように扱われ、非人間的ではないかという指摘がチャップリンの映画「モダイタイムズ」(1936)ができたときからされていたが、



そうした背景の元にできた機械化していく勢力(オムニ社という架空の大企業)とそれに対抗する人間性との闘いをサイボーグの警官を中心に描いた映画なのである。


ロボコップは続編にて、再開発についても描いており、ルネサンスセンターを意識していることは間違いない。


また、3作目では、日本の企業が裏にいる設定になっており、サムライニンジャロボットも出てくるので、日本の自動車産業を念頭に置いているのだろうが、ちょっとした皮肉になっているw


そして、3作目からデトロイトが強調されなくなっており、2014年のロボコップリメイクでは、ほとんどデトロイトという都市名が強調されず、むしろアメリカ全体を語っていた。



ロボコップ(1987)


ロボコップ2(1990)

2作目は敵のロボットがなかなかかっこいいし、ドラッグ中毒のギャングの脳みそが使われたサイボーグという設定も意味不明で良いw


ロボコップ3(1993)


3作目のサムライニンジャロボットだが全体に対してかなり影が薄かった、全体のテーマにあまり関係がなく、目立たない方が忍者らしいからいいのかな?ww


ロボコップ(2014リメイク)

豪華俳優でかっこよくリメイクされている。



ロボコップのリメイクを見ていたら、突然のフランシスベーコンの絵画w

ちなみに、この人はバートン版のバットマンやってた人。




2025年12月13日土曜日

現実を考えないならどんな仕事をしますか? ー非現実とは?ー

「現実を考えないならどんな仕事をしますか?」みたいな問いを見かけた。

難しいな。人は何を考えるにも現実をベースにしている。それを全く抜きにしたものは通常、考えられない。


これから、仕事を考えるにあたって現実をできる限り消し去ろうと思う。

現実から離れるには、段階を踏むのが良いようには思われる。


まずは、今、就いている仕事以外の仕事。

今はトヨタ系列の仕事はしていないし、ウーバーイーツの仕事もしていないし、また、今就いている仕事を運営している社長でもないから、それらの仕事に就くことは現実を考えない仕事の最初の段階になるんじゃないのかな。

でも、それだと、全然今からでも就こうと思えば就けるね。


そこで次の段階に行く。

例えば、量子力学の研究でノーベル賞を取り教授になるとか、油田を当てて億万長者になるとか、宇宙飛行士になり宇宙を飛び回る仕事に就くとか。そういうのは一般的な意味で現実を考えない仕事の範疇に入りそうだ。


しかし、もっといけると思う。

例えば、私が今生きている時代とは別の時代で考えてしまうのはどうだろう?

つまり、20世紀に戻って、アインシュタインそのものになり相対性理論の論文を書くとか、15世紀に戻って、コロンブスそのものになり、航海して新大陸を見つけるとか。

かなり現実味がないと思う。なにしろ今生きている自分でさえないのだから。


さらにもっと現実を考えない領域に行けるだろうか?

例えば、森林で木を運ぶインド象になるとか、笛の音に合わせて踊るコブラになるとか、火星の生命体として、火星の仕事を真っ当するとか。


もっともっといける。

消しゴムになって、書かれた字を消す仕事を真っ当するとか、テレビ受像機になり人々に日々番組を写し続けるとか。


さらには、数学的概念0になるのはどうだろう?意味がわからないと思うが、私は数学的概念0として仕事を真っ当するなら、人々が計算をするのに役立つ。あるいは、存在そのものはどうだろう?我々は今は人という存在者で、目の前にあるのはスマホという存在者なんだが、人という存在者は存在しているときのその「存在」そのもののことである。(もっと意味がわからないかw)


もっといけるか?

私は、完全な非現実なものとして、非現実な仕事を真っ当する。それがなんなのかは言えないし、わかりえない。なぜなら、我々が理解できるものは、すべて現実に基づいているからだ。しかしそうすると、もはや「仕事」という概念が成り立ち得ない。

仕事もろともすべて消し飛んでしまうのである。


そして、哲学者はここまで徹底して考える。

この問題に対してここまで考えた人っているの?w

2025年12月8日月曜日

ライプニッツの夢見る石ころ

そう、たとえるなら、子どもが描いたたった一枚の落書きにも、実は読み取ることのできない全宇宙が描き込まれている、とでも言おうか。


石ころが転がっている。

石ころが存在している。

なぜ?......偶然。

こんな石ころにも、魂が宿っているとしたら?

存在が生まれる前、現実が生まれる前、宇宙が生まれる前、

あらゆる可能性がつまった、いわば卵のようなもの

この卵は存在を求めて宇宙を夢見ている。

その可能性は無限大。卵はそのすべてを実現する力を秘めている。

だが、我々がその卵から生まれてきたのだとして、

あのときの可能性の1%も実現できたのだろうか。

ところで、この卵は、宇宙のすべてを知っている。

ここから起こり得ること起こるだろうこと、見えること、見えないこと

それどころか起こらなかったこと起こり得ないこと、知り得ないことまで。

なにしろ、丸い四角のような不可能な図形や

赤い匂いがする数字概念1の肌触りという

意味の分からないものさえも含まれているらしいのだ。

だが、当の卵自身はそれを知らない。

知っているのに知らない。つまり、気づいていないのだ。

空を見上げれば昼であっても、無数の星が瞬いているはずだ。そう、全宇宙の真理はすでにあなたの目の前にすべて映り込んでいるはずだ。

ただあなたはその細部に至るまでは認識できない。

だが、意識の太陽が沈み、闇の中に身を置けば

こそ、無限の宇宙が開かれる。

それこそが殻に閉ざされ、未だこの世界に

投げ出されていない卵なのだ。

だが卵は待っているのではない。

外から与えられる光も、衝撃も、啓示も必要としていない。

その闇に閉ざされた殻の内側で星のように輝き

始める。すでにすべては始まっている。

卵は世界を「映す」のではない。

世界を「生じさせているのだ。

見ず、聴かず、触れず

それでも、その内側で、ひとつの宇宙を正確に

緻密に、絶えず描きつづけている。

ただ、自らの法則にしたがって、自らの宇宙を展開している。

その姿は、まるで静止しているかのように見えているが

本当は、どんな星雲よりも激しく、どんな時間よりも深く動いている。

世界と世界は互いに触れ合わない。

だが狂いもなく、ずれもなく、響き合っている。

ここから124光年離れた惑星で

宇宙人が溜息をついても、

この卵の中の宇宙は微細な反応を遂げる。

この卵は殻の中に閉ざされているのに、

外の世界を正確に受けとり、表現する。


石ころが転がっている。

石ころという存在者... なぜ?

可能な限りたくさんの可能性

ありえた世界、ありえなかった世界もしもの世界を思い浮かべてみよ。

この無限の可能性の中でこの世界だけが

選ばれた理由は、誰の目にも映らな一場所で

静かに永遠に成立している。


それが最善だからだ。卵自身が無意識のうちに、自身にとって最も良い選択肢を選び取ったのだ。


だがそれでも私は尋ねずにはいられない。

この世界が最善であるならば、

私たちに与えられたこの漠然とした不安は、

いったい何のためにあるのか?

しかし、その不安すらもまた、

あらかじめ用意されたひとつの響きであり、

この宇宙という楽譜のなかに、

すでに書き込まれている音なのだとしたら?

卵は、沈黙している。

語らず、動かず、ただ在る。

しかし、その内側では、

世界が幾度となく生まれ幾度となく滅びている。

そして、卵の奥深く、

闇とも光ともつかぬぬくもりの中で

ひとつの胎児が静かに眠っている。

その胎児は、まだ言葉をもたない」

まだ、自分自身すら知らない。

けれど、その夢の中で

星々はすでに燃え、海はすでに波打ち

人々はすでに愛し、失い、問いを発している。


そして私は思う。

世界とは外にあるのではない。

この世界とは、この胎児の見るひとつの夢に

すぎないのかもしれない。

石ころが転がっている。

それは、まだ目覚めぬ胎児が、いま、この瞬間

に見ている夢のかすかな揺れなのかもしれない。

2025年12月7日日曜日

哲学するのに哲学書を読む必要あるか?

あなたの思う哲学とはなんですか?と問われた。

その方は哲学書などはあまり読んでおらず、そうした知識には詳しくない。けれども、その人なりにいろんな哲学的なことを考えているらしい。


さて、哲学とはなんなのか?

2025年11月15日土曜日

プラトンの髭をどうしても剃りたい哲学者





 クワインの論文「なにがあるのかについて」を対話ふうにして書いてみた。



クワインはプラトンの髭を剃りたいらしい。

プラトンの髭といっても、実在の哲学者プラトンの髭があったということじゃなくて、プラトン的な考え方の先に生まれた哲学的な髭のことだ。

プラトンはこの世界にはいろんな馬があるが、馬そのものがないと言った。そこで、馬そのものという余計な存在者(存在するもの)を作った。

その延長線にいる(とクワインに見なされる)哲学者たち(実際にはマイノングという哲学者とかがいますが)によって、存在するものはもっと増えていった。

例えば、ペガサスの存在とかね。

彼らプラトン的な人は「ペガサスは存在する」と主張する。それをプラトンの髭みたいなものだとクワインは言ったのだ。

なんでもかんでもすべて存在させたがるプラトン的な哲学者の論理をちょっと提示してみよう。