2026年5月15日金曜日

確定記述の束 〜ライプニッツからラッセル〜

 分析哲学のラッセルは、ライプニッツ研究もしていて、論文を出している。


「ライプニッツ哲学のクリティカル・エクスポジション」1900


さらに翌年1901年、ルイクチューラというこれまた分析哲学の人が「ライプニッツ論理学」を出している。


この2冊によって、ライプニッツは形式論理学の開祖になった。

で、計算機や二進法開発ゆえに、コンピュータの父、サイバネティクスの父とも見なされるようになった。

さらには個物は確定記述の束であるに近いことを考えていて、総合すると分析哲学の先駆と言えなくもない。


参考「モナドの窓」ブレーデカンプ


例文「ラッセルは1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である。」


主語と述語の関係から存在を考えていくのはアリストテレスに由来する。

例文で言えば、「ラッセル」という主語に、「1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である」という述語が結びついているが、その関係を探って、アリストテレスは実体と属性、本質と偶有性を考える。


実体とは主語となって述語とならないものである。偶有性とは、本質的でなく、そうでないこともありうるような述語(属性)である。本質とは、そうでないことがありえないような述語(属性)である。


そこで、「ラッセルはひとりの人間である」は本質であり、実体を規定する述語だが、「ラッセルは哲学の先生だ」は子供の頃など哲学の先生ではないこともあるので、本質的ではない。


しかし、ラッセルが人間でなかったらということだって、考えられるとして、アリストテレスの不備は指摘され、ライプニッツが登場する。


ライプニッツは、そうしたsubject (主体/主語/基体)をモナド、あるいは実体的形相、個体的実体と呼んで論じた。(実体的形相は明らかにアリストテレスを下敷きにしている。)

モナドはその中にすべてのそのモナドのパースペクティブから見られた概念を含んでいる。

つまり、ラッセルというモナドには、(あるいは、同じことだが、ラッセルという概念の中には)

ある時期から哲学の先生であることも、ひとりの人間であることも、1900年にライプニッツに関する論文を書いたことも、ヴィトゲンシュタインと出会うことやアインシュタインと平和を訴えることも、1905年5/3の朝10:05にケンブリッジの教室であくびをしたことも、何もかも含まれている。さらには、ラッセルの視点から理解可能な宇宙というのも、ラッセルが宇宙について知る前から、その概念に含まれている。

(ただし、それらのことを本人や他人が知っているかどうかとは関係がない。だから、ラッセルが人間でなかったらと考えることはできても、それは間違っていますねとなるだけだ。しかしここにはまだ問題があって、それが分析哲学の歴史を作ってきた。)


まあともかく、そのようなものである。

ラッセルはそうしたライプニッツの考えから、固有名詞が確定記述の束であると考えるところから始めたというのは十分ありうることだろう。


もしそうなら、ラッセルというモナドの中に「ラッセルはライプニッツの哲学から、固有名詞が確定記述の束であると考えた」ということが含まれているに違いない!w

2026年5月7日木曜日

オデュッセウスとユリシーズの由来

ユリシーズといえばジェイムズ・ジョイスの小説だが、一般的に言ってユリシーズと聞いてオデュッセウスを連想する人は少ない…らしい。

あなたもご存知でしたか?

そもそも知らない?

ホンダ自動車のオデッセイなら知っていますよね?

それはオデュッセウスの話が書かれた叙事詩オデュッセイアから由来しているそうです。

その辺について調べたので、もうちょい詳しく載せておく。


Ὀδυσσεύς : オデュッセウスという、ギリシャ神話における男の名前。


Οὐλιξεύς : オデュッセーオスが訛って、ドーリア式方言で「ウーリクセウス」とも読むことが、紀元2世紀頃のギリシアの文法学者アイリオス・ヘーローディアノスの『一般プロソディア』の第1巻に示されている。


Ulixēs/Ulyssēsラテン語。ドーリア式方言からラテン語のウリクセースおよびウリュッセースになる。

ここより、フランス語のユリス(Ulysse)、イタリア語のウリッセ(Ulisse)、英語のユーリシーズ(Ulysses)が派生している。



Ὀδύσσεια : オデュッセイア。オデュッセウスの女性名詞形で、詩歌を意味していたわけではないが、オデュッセウスについてのホメロスの詩歌をそう呼んだため、転じてオデュッセウスの旅のことを意味したりするようになった。


叙事詩のオデュッセイアは、古代ギリシア語の言葉を借用して、ラテン語では、オデュッセーア(Odyssēa)という語が作られた。ここから中世フランス語形を通過して、現代のフランス語では、オディセ(Odyssée)という言葉となった。英語ではアディスィ(Odyssey)で、ドイツ語ではオデュッセー(Odyssee)、イタリア語ではオディッセア(Odissea)である。


ということは、英語圏で

Odysseyという本を読むと、Ulyssesという男が出てくるということになるのかな。

ただ、両方とも古代ギリシャ語由来であることはわかった。


今後はユリシーズはラテン語由来うんぬんと言われたら、いやいや古代ギリシャのドーリア式方言から来ているのだよと返されることになる。


ところで、ホンダ自動車のオデッセイは、英語ではアディスィみたいな発音に聞こえるらしいので、日本語表記ということでよいだろうかw


表記とはなんだろうか?

OdysseyとUlyssesは英語表記だが、Odysseus とodysseus は古代ギリシャ語表記と言っていいんだろうか?


オデッセイは日本語表記でアディスィは英語表記と言ってもいいんだろうか?

2026年5月4日月曜日

アンデルセンの「赤い靴」は哲学者にとっての真理である!

 アンデルセンの赤い靴の舞踏コンテ・ワカバコーヒー版に現れている新解釈!!





2026年4/11〜12に行われた舞踏コンテのワカバコーヒーによるワークショップ公演「The Red Shoes」(舞踏コンテとは、暗黒舞踏の系譜の舞踏とコンテンポラリーダンスとの融合した身体表現の造語)


新解釈は、私の友人でもある哲学者がこの公演を見て、あまりピンと来なかったと言っていたところから始まった。

彼はそんなことより鉄パイプ椅子が硬くてお尻が痛いことが気になっていたようだ。


まずは我々が見た舞台「The Red Shoes」 について大筋を描いてみる。


2026年5月2日土曜日

多様な解釈を孕む作品「王鴉(オオガラス)」

写真撮影: 松原昭俊

作者が語らなくても、真実は作品そのものが語っている。

一旦、そう考えてみる。
もちろん、作者が意図を込めて作品を作ることはある。
しかし、作られてしまった作品は作者の元から離れて、鑑賞者の自由な見方に委ねられる。
そして、そういうのも大切にしたいと思う。
アートはわからないと多くの人は言う。
だから、作者はときおり説明をたくさんしてしまう。
作品が理解されてしまうと、その理解に満足してしまい、そこを立ち去る。
まだ、謎はたくさん残っているのに。
作者の意図も大切にしたいと同時に、もっと見る人の自由なイメージをも大切にしたいと思う。

今回の私の作品「王鴉」(オオガラス)
この作品を見て、お客様からさまざまな解釈をいただいたので、それを(さらに尾ひれを付けて)話してみたいと思う。

2026年4月28日火曜日

「羊たちの沈黙」に隠された意味


映画「羊たちの沈黙」みなさんはこの映画に隠された意外に深い意味を知ってますか??
最近(2016年)、この映画に隠されていた意味を知って、改めて単なる猟奇殺人鬼映画ではないと確信し、興奮してます。今(2026年)は納得していない部分もありますが、やはり斬新だと感じています。

ハンニバル・レクター博士は、人肉を食べます。レクター博士には教養はありながら、人を殺すことに罪の意識を全く感じないサイコパスです。
しかし、なぜかFBIのクラリス・スターリング捜査官は、レクター博士と交流していくうちに親近感を覚えます。
その不思議な交流を描いていくのがこの映画の骨子ですが、さて、一体なぜスターリング捜査官は親近感を覚えるのでしょうか?

まずはタイトルの解明から入ります。
「羊たちの沈黙」のタイトルの意味とは、何でしょうか?

タイトルの邦訳は「羊たち」となっていますが、英語を見るとlamb(ラム)であり、「子羊」です。

子羊というと、羊飼いにたとえられるイエス・キリストを想起させますね。

迷える子羊を導き、救う救世主はクラリスでしょうか?


続いてsilence「沈黙」とはなんでしょうか?

第一に、クラリスの幼少期のトラウマ、すなわち、父の死と子羊の死を目の前にして、何もできずただ沈黙しているしかなかったということを意味しています。クラリスは子羊たちの鳴き声を夢に見て、子羊たちを沈黙させてやりたいと望みます。子羊たちの鳴き声はクラリスが助けてやれなかったという悔恨、つまり良心の声なのです。

第二に、バッファロービルなど殺人鬼たちの前では被害者たちは泣き叫ぶ子羊です。クラリスは彼女らを助けようとすることで、夢に見る子羊の鳴き声を鎮めて沈黙させたいと願います。

○幼いクラリスは殺される運命の羊たちを救いたい

⚫︎FBI研修生のクラリスは殺される女性たちを救いたい


第三に、死人に口なし。つまり被害者である彼女らは沈黙するしかない。確かに殺されてしまった女性は沈黙するしかないが、さまざまな痕跡を残しており、そうした痕跡が沈黙しているのに叫び声をあげている。そうした痕跡を捜査することで犯罪の真相にせまるのです。
cum tacent, claimant. (彼らは沈黙しているとき、叫んでいる)

第四に、
内田樹というフランス現代思想の研究をしている哲学者による指摘を取り上げます。

彼は、実はレクターは逆のイエスキリストなのではないか?と問いました。

人間は、動物たちの肉をなんのためらいもなく食べる。それは(キリスト教では罪ではないけれど)今や罪深いことです。

すると、レクターは人間の肉を食べることで、人間の罪を逆の仕方で贖おうとしているとも読めるのではないか?という。

ここで、なぜスターリング捜査官は親近感を覚えるのか?という問いに戻ります。

一つ目の理由は、もちろん、精神分析的なものです。レクターはクラリスに情報を提供する代わりに、彼女自身のプライベートな生い立ちなどの情報を要求しました。それをきっかけに彼女は自身の心のトラウマを打ち明け、レクター博士がそれを受け止めたため、親近感を持つに至ったのです。
人間は誰しも自分自身の心を打ち明けてしまうと、一気に親近感を覚えるようになるものなのです。

もう一つの理由はハンニバルシリーズの物語の深層部分にあります。それはレクター博士が罪の意識なく人肉を食べることによって、罪の意識なく動物の肉を食べる人間に、いわば象徴的な形で復讐していることがクラリスを象徴的に救っているのです。

意味が分かりませんね。もう少し丁寧に追っていきます。

物語の主人公クラリス・スターリングは幼少の頃、アメリカの片田舎に住んでいました。彼女の叔父は生活のため家畜を殺すのですが、彼女はそうした子羊や馬などの家畜のことがかわいそうでなりません。一度は馬と子羊と一緒に家出さえしました。
しかし、結局、動物たちを救うことができませんでした。
そして、その記憶はそのまま、彼女の中で罪の意識を形成しました。

大げさに言えば、要するに動物を殺して食べたり衣類にするという人間の罪深さを自覚したのです。

レクター博士は人間が動物に対して為す屠殺を、人間に対して復讐することで、いわば、人間の罪を贖っているのです。殺人鬼のバッファロービルもそうかもしれません。人間を衣類にしてしまうので。
つまり、イエスキリストがやったのとは逆の方法で人間を救うように描かれているのです。

レクター自身が救世主として捧げられた子羊たちを生贄として、クラリスら罪深き人間を救うという。
タイトルの子羊の意味は、昔から子羊は神への捧げものとして使われていたことの暗喩ともなりうるのです。

つまり、一方ではクラリスは犠牲となった女性たちを救いたい。もう一方では、殺人鬼たちによって、子羊としての人間たちが犠牲となることによって、クラリスたちが象徴的に救われるのです。

註:内田樹の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」のネタを自分なりに再構成しました。
2016年→2026年に改訂

2026年3月7日土曜日

ロボコップとデトロイト





 久しぶりにロボコップ・シリーズを見た。リメイクは今回初めて見た。


ロボコップは80年代のSFアクションのアメリカ映画である。そして、舞台はデトロイト。これだけでピンとくる人がいるかもしれない。


デトロイトといえば、自動車工場が立ち並ぶモーターシティ。中心にはゼネラルモーターの本社もあって、摩天楼が立ち並び、ルネサンスセンター(1977〜)とも呼ばれている。



一方で、郊外にスラムができており犯罪率も高い。



同じくデトロイトで会社を創ったフォードのベルトコンベアー(1913〜)を思い浮かべる人もいるかもしれない。人間が歯車のように扱われ、非人間的ではないかという指摘がチャップリンの映画「モダイタイムズ」(1936)ができたときからされていたが、



そうした背景の元にできた機械化していく勢力(オムニ社という架空の大企業)とそれに対抗する人間性との闘いをサイボーグの警官を中心に描いた映画なのである。


ロボコップは続編にて、再開発についても描いており、ルネサンスセンターを意識していることは間違いない。


また、3作目では、日本の企業が裏にいる設定になっており、サムライニンジャロボットも出てくるので、日本の自動車産業を念頭に置いているのだろうが、ちょっとした皮肉になっているw


そして、3作目からデトロイトが強調されなくなっており、2014年のロボコップリメイクでは、ほとんどデトロイトという都市名が強調されず、むしろアメリカ全体を語っていた。



ロボコップ(1987)


ロボコップ2(1990)

2作目は敵のロボットがなかなかかっこいいし、ドラッグ中毒のギャングの脳みそが使われたサイボーグという設定も意味不明で良いw


ロボコップ3(1993)


3作目のサムライニンジャロボットだが全体に対してかなり影が薄かった、全体のテーマにあまり関係がなく、目立たない方が忍者らしいからいいのかな?ww


ロボコップ(2014リメイク)

豪華俳優でかっこよくリメイクされている。



ロボコップのリメイクを見ていたら、突然のフランシスベーコンの絵画w

ちなみに、この人はバートン版のバットマンやってた人。




2025年12月13日土曜日

現実を考えないならどんな仕事をしますか? ー非現実とは?ー

「現実を考えないならどんな仕事をしますか?」みたいな問いを見かけた。

難しいな。人は何を考えるにも現実をベースにしている。それを全く抜きにしたものは通常、考えられない。


これから、仕事を考えるにあたって現実をできる限り消し去ろうと思う。

現実から離れるには、段階を踏むのが良いようには思われる。


まずは、今、就いている仕事以外の仕事。

今はトヨタ系列の仕事はしていないし、ウーバーイーツの仕事もしていないし、また、今就いている仕事を運営している社長でもないから、それらの仕事に就くことは現実を考えない仕事の最初の段階になるんじゃないのかな。

でも、それだと、全然今からでも就こうと思えば就けるね。


そこで次の段階に行く。

例えば、量子力学の研究でノーベル賞を取り教授になるとか、油田を当てて億万長者になるとか、宇宙飛行士になり宇宙を飛び回る仕事に就くとか。そういうのは一般的な意味で現実を考えない仕事の範疇に入りそうだ。


しかし、もっといけると思う。

例えば、私が今生きている時代とは別の時代で考えてしまうのはどうだろう?

つまり、20世紀に戻って、アインシュタインそのものになり相対性理論の論文を書くとか、15世紀に戻って、コロンブスそのものになり、航海して新大陸を見つけるとか。

かなり現実味がないと思う。なにしろ今生きている自分でさえないのだから。


さらにもっと現実を考えない領域に行けるだろうか?

例えば、森林で木を運ぶインド象になるとか、笛の音に合わせて踊るコブラになるとか、火星の生命体として、火星の仕事を真っ当するとか。


もっともっといける。

消しゴムになって、書かれた字を消す仕事を真っ当するとか、テレビ受像機になり人々に日々番組を写し続けるとか。


さらには、数学的概念0になるのはどうだろう?意味がわからないと思うが、私は数学的概念0として仕事を真っ当するなら、人々が計算をするのに役立つ。あるいは、存在そのものはどうだろう?我々は今は人という存在者で、目の前にあるのはスマホという存在者なんだが、人という存在者は存在しているときのその「存在」そのもののことである。(もっと意味がわからないかw)


もっといけるか?

私は、完全な非現実なものとして、非現実な仕事を真っ当する。それがなんなのかは言えないし、わかりえない。なぜなら、我々が理解できるものは、すべて現実に基づいているからだ。しかしそうすると、もはや「仕事」という概念が成り立ち得ない。

仕事もろともすべて消し飛んでしまうのである。


そして、哲学者はここまで徹底して考える。

この問題に対してここまで考えた人っているの?w