以下、私の勝手な想像を綴ります。
ギャラリーに入ると奇妙な妖怪たちが出迎えてくれる。
妖怪のようなこの人形たちは何かの動物ににているし、顔は三角で、脳が潰れてしまっている。
妖怪たちは、どこか戯けたような印象がある。
彼らは狂ってしまったのか。
彼らはもともと妖怪だったのだろうか?
一体、どうしてこんな妖怪が誕生してしまったのか?
次の人形を見る前に、もう少しだけよく見てみる…
よくよく見ると顔顔顔…
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
以下、私の勝手な想像を綴ります。
ギャラリーに入ると奇妙な妖怪たちが出迎えてくれる。
妖怪のようなこの人形たちは何かの動物ににているし、顔は三角で、脳が潰れてしまっている。
妖怪たちは、どこか戯けたような印象がある。
彼らは狂ってしまったのか。
彼らはもともと妖怪だったのだろうか?
一体、どうしてこんな妖怪が誕生してしまったのか?
次の人形を見る前に、もう少しだけよく見てみる…
よくよく見ると顔顔顔…
猿の惑星についての昔のメモが残っていたので、紹介します。
さて、猿の惑星シリーズを順に見ていこうと思います。
「猿の惑星」
口の聞ける猿が口の聞けない人間を家畜として扱っている惑星に来てしまった男の話。
「続 猿の惑星」
猿にも人種ならぬ猿種があり、また、口の聞けない人類とは別の人類の成れの果て、原爆を神として崇めるミュータントがおり、ミュータントと猿とが戦争する話。
人間の別の成れの果てであるミュータントは、核兵器を神と崇め奉りながら、平和を愛しますが、人間に対しては超能力で人間同士に殺し合いをさせて自滅させ、自分では手を下さないから平和主義だと言っており、米ソ冷戦の代理戦争に対してかなりの皮肉になっています。
「新 猿の惑星」
猿の惑星の話す3匹の猿は、過去へタイムワープし、猿の惑星と反転した人の惑星を知る。人類を恐れ、未来のことを隠す猿たちだったが、、
「猿の惑星 征服」
猿が奴隷化した時代、未来から来た話す猿のひとり息子シーザーは生き延びていた。こき使われる猿たちの中で、シーザーは立ち上がる。
「最後の猿の惑星」
猿と人類との戦争で、ついに核爆発で都市が壊滅してしまったら後、生き延びた人類と猿とは立場が逆転していた。だが、壊滅した都市には他にも生き延びたミュータント化しつつある人間もいた。
キラーエイプ仮説というものがあります。
人間とは、同種の生き物を殺すようになった「殺す猿(キラーエイプ)」であると。これは今では疑似科学だとして退けられていますが。
実は、古き猿の惑星シリーズの最後、「最後の猿の惑星」ではまさにこれがテーマとなっています。
この映画では、猿たちが革命によって人間を奴隷にして、猿たちの国を作る。そのときに猿たちは自分自身の存在をこう定義づけた。
「人間は人間を殺す」。しかし、「猿は猿を殺さない」
ところが、、というお話です。
現代の対話篇〜
現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。中国の漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」
古代ギリシャ哲学者P「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」
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あなたは、何かを覚えておくためには書きとめておきなさいと言われたことがありますか?
先日、劇怖という恐怖をテーマにしたアングライベントに出演しました。
愛知県瀬戸市のりんごスタジオで行われたイベントで、血で絵を描く呪術師のライブペイントや緊縛やゆる怪談師が出演するショーケーススタイルのイベントです。イベントそのものは四度目、私の出演は二度目でした。
今回、安部火韻(アベカイン)はユニット愛蘭珈琲(アイリッシュコーヒー)として出演しました。
愛蘭珈琲は、《神様の死あるいは変容》をテーマに午前はどちらかというと日本の、午後はどちらかというと西洋よりのパフォーマンスを行いました。
午前における愛蘭珈琲の演目は主に他称魔女であり怪談師でもある白山葵が怪談を中心に行い、午後は私、安部火韻が好きなフランケンシュタインやニーチェをモチーフに身体パフォーマンスを中心に行いました。
愛蘭珈琲は、互いに思い付いたものを投げ合いながら創っていくスタイルです。
ところで、先ほど神様の死と変容についての表現を行ったと話したが、それについて話してみたいと思う。
確かにストア派と、エピクロス派はかなり似ている。
しかし、情念が無いこと(ア無+パトス情念)と、平静な心という精神的快楽(アタラクシア)に至ることとは微妙に異なる。
ストア派は、自然の理法たるロゴスに従うために、情念を滅する。ストア派にとっては、情念は、ロゴスに従うのを妨げる障害となっている。
エピクロス派は、例えば死への恐怖という情念を滅して動じない心に至るために、理性たるロゴスによって、原子論に至り、死によって動じない心に至る。
つまり、ストア派は情念を滅して、ロゴスに至ろうとし、
エピクロス派はロゴスによって、平静な心アタラクシア以外の情念を滅するに至る。