横尾忠則の「連画の川」
ただいま横尾忠則現代美術館にて行われている企画展「連画の河」
美術館の2階から3階までが、全体で横尾忠則の連作「連画の河」が流れている。
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
先月のいつだったか、 朝からオンライン哲学カフェQUALIAに参加。
勉強は他者にアウトプットし、他者からの評価によって自己理解につながり、勉強が進む。
と言うと、いやいや自分自身の内面だけで勉強することもあるでしょと言われ、
どうしたら勉強できるのか→勉強のモチベーションの維持の「どうしたら?」→目標となるような具体的なイベントや仕事の設定
勉強は、興味だけではなかなか難しいのではないか?興味も重要だけど、具体的なテストや評価となるような何かがないとモチベーションに効果的に繋がらない。取り組み方も興味だけだと非常にダラダラしてしまう(笑)
アウトプットの機会を作る。
実践で活かさなければ、身になっていない。
ヘーゲルの弁証法的に考えてみる勉強論
⑴直接性(なんとなく意識している事柄がある)
⑵外化(自分の中にあるもの[意識]をアウトプットする)
⑶疎外(アウトプットしたものを眺めて、その違和感に気がつく。あるいは他人に指摘してもらう。現実でうまくいかないことを経験する)
⑷止揚(違和感の部分を修正し、修正点とともに、現実に適合するよう総合的に解決を出す)
進歩史観がないと勉強はできない。
歴史だけでなく、個人として私は進歩している、道を新たに開く、自己破壊している
そう考えることによって、人は前に進めるのだろう。
離別と死別は違うのか否か。
これは入不二基義がその著書『現実性の問題』で取り上げていた問題だ。この例は入不二哲学ではない仕方でも、様相(可能性、必然性、偶然性あるいは現実性)というものを考えるのにいい材料と思われる。
ちょっと対話風にアレンジしてみた。
入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達と、亡くなってしまった祖母とは、会えないが毎日続いているという点では全く同じだよね。」
大人「いや、全然違うよ。転校してしまってもまだ会える可能性はあるけど、祖母にはもう会えないじゃないか」
入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達だよ。だから、現実にはその後一生会えていないんだよ?」
大人「現実には会えてなかったけど、可能性はあったでしょ。可能性に注目してよ」
入不二少年「現実を無視していい可能性なら、祖母にだって可能性そのものはあるよ。僕が死んだら会える可能性だって、祖母が生き返る可能性だって、現実を無視したらあるじゃないか。」
大人「いやいや、現実的な可能性を考えろよ」
入不二少年「現実的な可能性!?現実なのか可能性なのかどちらかではないのか?」(続く)
果たして、可能性とはなんなのか?現実とはなんなのか?
ここで、死別と離別は全然違うじゃん。相手の現実が違うと言うツッコミが入った。
しかし、私は会えるかどうかという話をしている。
離別でも、東京に引っ越すのと、大阪に引っ越すので相手の現実が違うとも言えるし、死別でも、ソクラテスのように死を喜んで受け入れたのと、特攻隊として国のために行ったのと、ヘーゲルのようにチフスで死んだのとでは現実が大違いとも言える。
細分化してしまえば、死別と離別とで区別することの意味は無くなる。が、逆に、抽象度をあげればすべてが同じになってしまう。
で、それをわざわざ中途半端な死別と離別の区別に拘る点だね。
結局は、死別と離別は違うか同じかを問いたいわけではなく、それを問うことで、現実性と可能性の関係についてのまずは不思議を感じることが主眼となっていると私は思うのだ。
死別と離別は、みんながイメージしている具体的な経験でいろいろ判断されてしまうのなら、これを別の仕方で喩えられるだろうか?
例えば、サイコロでもいい。
サイコロを振る前には2026/5/25/18:00におけるこの一振りは確率で2が出る可能性があると言われていた。
2026/5/25/18:00に振ったら、5の目が出た。
サイコロはこの2026/5/25/18:00における現実には5の目しかでなかった。
ゆえに、サイコロのこの一振りにはいかなる意味でも可能性などなく5の目が出る現実100%しかないとも言える。
それでも、2の目がでる確率は1/6あったのだと主張することは可能だろうか??
こんな感じが入不二さんが切り込んだ最初の視点だったように思う。
もちろん、これはあくまで導入で、この後にまだたくさんの議論が入不二さんにより展開されているけれど。
分析哲学のラッセルは、ライプニッツ研究もしていて、論文を出している。
「ライプニッツ哲学のクリティカル・エクスポジション」1900
さらに翌年1901年、ルイクチューラというこれまた分析哲学の人が「ライプニッツ論理学」を出している。
この2冊によって、ライプニッツは形式論理学の開祖になった。
で、計算機や二進法開発ゆえに、コンピュータの父、サイバネティクスの父とも見なされるようになった。
さらには個物は確定記述の束であるに近いことを考えていて、総合すると分析哲学の先駆と言えなくもない。
参考「モナドの窓」ブレーデカンプ
例文「ラッセルは1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である。」
主語と述語の関係から存在を考えていくのはアリストテレスに由来する。
例文で言えば、「ラッセル」という主語に、「1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である」という述語が結びついているが、その関係を探って、アリストテレスは実体と属性、本質と偶有性を考える。
実体とは主語となって述語とならないものである。偶有性とは、本質的でなく、そうでないこともありうるような述語(属性)である。本質とは、そうでないことがありえないような述語(属性)である。
そこで、「ラッセルはひとりの人間である」は本質であり、実体を規定する述語だが、「ラッセルは哲学の先生だ」は子供の頃など哲学の先生ではないこともあるので、本質的ではない。
しかし、ラッセルが人間でなかったらということだって、考えられるとして、アリストテレスの不備は指摘され、ライプニッツが登場する。
ライプニッツは、そうしたsubject (主体/主語/基体)をモナド、あるいは実体的形相、個体的実体と呼んで論じた。(実体的形相は明らかにアリストテレスを下敷きにしている。)
モナドはその中にすべてのそのモナドのパースペクティブから見られた概念を含んでいる。
つまり、ラッセルというモナドには、(あるいは、同じことだが、ラッセルという概念の中には)
ある時期から哲学の先生であることも、ひとりの人間であることも、1900年にライプニッツに関する論文を書いたことも、ヴィトゲンシュタインと出会うことやアインシュタインと平和を訴えることも、1905年5/3の朝10:05にケンブリッジの教室であくびをしたことも、何もかも含まれている。さらには、ラッセルの視点から理解可能な宇宙というのも、ラッセルが宇宙について知る前から、その概念に含まれている。
(ただし、それらのことを本人や他人が知っているかどうかとは関係がない。だから、ラッセルが人間でなかったらと考えることはできても、それは間違っていますねとなるだけだ。しかしここにはまだ問題があって、それが分析哲学の歴史を作ってきた。)
まあともかく、そのようなものである。
ラッセルはそうしたライプニッツの考えから、固有名詞が確定記述の束であると考えるところから始めたというのは十分ありうることだろう。
もしそうなら、ラッセルというモナドの中に「ラッセルはライプニッツの哲学から、固有名詞が確定記述の束であると考えた」ということが含まれているに違いない!w
ユリシーズといえばジェイムズ・ジョイスの小説だが、一般的に言ってユリシーズと聞いてオデュッセウスを連想する人は少ない…らしい。
あなたもご存知でしたか?
そもそも知らない?
ホンダ自動車のオデッセイなら知っていますよね?
それはオデュッセウスの話が書かれた叙事詩オデュッセイアから由来しているそうです。
その辺について調べたので、もうちょい詳しく載せておく。
Ὀδυσσεύς : オデュッセウスという、ギリシャ神話における男の名前。
Οὐλιξεύς : オデュッセーオスが訛って、ドーリア式方言で「ウーリクセウス」とも読むことが、紀元2世紀頃のギリシアの文法学者アイリオス・ヘーローディアノスの『一般プロソディア』の第1巻に示されている。
Ulixēs/Ulyssēsラテン語。ドーリア式方言からラテン語のウリクセースおよびウリュッセースになる。
ここより、フランス語のユリス(Ulysse)、イタリア語のウリッセ(Ulisse)、英語のユーリシーズ(Ulysses)が派生している。
Ὀδύσσεια : オデュッセイア。オデュッセウスの女性名詞形で、詩歌を意味していたわけではないが、オデュッセウスについてのホメロスの詩歌をそう呼んだため、転じてオデュッセウスの旅のことを意味したりするようになった。
叙事詩のオデュッセイアは、古代ギリシア語の言葉を借用して、ラテン語では、オデュッセーア(Odyssēa)という語が作られた。ここから中世フランス語形を通過して、現代のフランス語では、オディセ(Odyssée)という言葉となった。英語ではアディスィ(Odyssey)で、ドイツ語ではオデュッセー(Odyssee)、イタリア語ではオディッセア(Odissea)である。
ということは、英語圏で
Odysseyという本を読むと、Ulyssesという男が出てくるということになるのかな。
ただ、両方とも古代ギリシャ語由来であることはわかった。
今後はユリシーズはラテン語由来うんぬんと言われたら、いやいや古代ギリシャのドーリア式方言から来ているのだよと返されることになる。
ところで、ホンダ自動車のオデッセイは、英語ではアディスィみたいな発音に聞こえるらしいので、日本語表記ということでよいだろうかw
表記とはなんだろうか?
OdysseyとUlyssesは英語表記だが、Odysseus とodysseus は古代ギリシャ語表記と言っていいんだろうか?
オデッセイは日本語表記でアディスィは英語表記と言ってもいいんだろうか?
アンデルセンの赤い靴の舞踏コンテ・ワカバコーヒー版に現れている新解釈!!
2026年4/11〜12に行われた舞踏コンテのワカバコーヒーによるワークショップ公演「The Red Shoes」(舞踏コンテとは、暗黒舞踏の系譜の舞踏とコンテンポラリーダンスとの融合した身体表現の造語)
新解釈は、私の友人でもある哲学者がこの公演を見て、あまりピンと来なかったと言っていたところから始まった。
彼はそんなことより鉄パイプ椅子が硬くてお尻が痛いことが気になっていたようだ。
まずは我々が見た舞台「The Red Shoes」 について大筋を描いてみる。