「コイって言うから、アイに来た。」
「恋は下心である。愛は真心である。」などと言われる。
恋は幻想である。では、愛は現実であるか?
恋は幻想である。愛も幻想である。
そして、言語で表せるすべてのものは幻想である。
しかし、すべてが幻想なら、その幻想そのものが我々が言うところの”現実”を作っている。
ただ、恋は恋に落ちてない者にとっては非現実味を帯びているものだから、その幻想性に気付きやすい。
夢は起きるから、それが夢だとわかる。だが、それは覚めた者から見た視点なのだ。
では、夢を見ながらにして、起きることはできるだろうか?
「心の損得を考える余裕のある自分が嫌になります」宇多田ヒカル『君に夢中』
最近では、目の前が見えないほどの情熱的な恋はなかなかない。みんな諦めている覚めている悟っている、恋は幻想なんだって。
恋は幻想だと思うことで、相手に踏み込むことなく、自分が傷つかないようにしているようにも見える。
もちろん盲目的な恋は危険だが。
しかし、勇気は出すべきではないのか?
恋に落ちた今の現実を生きるべきではないだろうか?
しかし、私だけの問題でもないのだ。恋愛には相手がある。
相手との関係性、それをどう築きあげていくのか?
恋の幻想性とは、ひとつの元型的な物語である。ロマンとは、元は長編小説を意味する。
物語にはいろいろあるが、典型的なのは、私を主人公とした物語の登場人物として相手が現れ一目惚れするというものだろう。
それは私の物語における登場人物に過ぎないが、しかし、だからこそ特別な存在になる、お姫様とか、運命の人とか。
偶然の産物が”物語”として必然化される。ロマンの誕生である。
そのロマンに相手に関わってもらう。相手という存在が自分にとって必然化されていく。
しかし、それが終わりではない。幻想としての恋が終わるところに、相手への本当の終わりなき理解の試みが始まる。
相手の欠点や醜いところ、自分とは合わないところも出てくる時、それをどう受け入れるのか?
そこに恋が愛に変わるポイントがあるのだろう。
相手への理解には終わることがない。しかし、相手を完全に理解したと思ったところに愛も終わりが来るかもしれない。
愛とは理性的な行為だろう。
好き嫌いには還元できない。好きなところも嫌いなところも含めて相手を相手として受け入れつつ、自分のことも認めてもらう相互関係に現実性がある。
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