ゴルギアス
「無について、もしくは自然について」
論題の第1「何もない」
もし何かがあるとすれば、それは存在があるか、無があるか、あるいは存在がありまた無もあるかのいずれかである。
しかるに、存在がないことは、これから議論が証明するところであり、また無があるのでもないことも、議論の確証するところであり、また存在も無も双方ともにあるというのでもないこと、これも議論の知らしめる通りである。
したがって何かがあるということはない。
さて無はありはしない。なぜなら、もし無があるとすれば、あると同時にありもしないということになるからである。無とはありはしないものだと考えられるかぎりにおいては、それはありはしないが、無があるならばそのかぎりでは、今度はあるということになる。だが、何かがありかつありはしないということは、どうみても不可思議である。
さらにもうひとつ別の議論として、もし無があるならば、存在はありはしないことになろう。存在と無とは正反対なのであって、もしあるが無に帰属するなら、あらぬが存在に帰属することになるからである。だが、存在がありもしないということはない。そうだとすれば、無があるということもないのである。
また存在があるのでもない。というのは、もし存在があるならば、それは永遠のものか、あるいは生成したものか、あるいは永遠であってしかも生成したものであるかである。だがそれは永遠のものでもなければ、生成したものでもなく、またその両者でもないことは以下でわれわれの示すとおりである。したがって、存在はありはしない。
さて、もし存在が永遠のものであるとするなら(まずここから出発しなければならない)、何か始まりをもつということはない。なぜなら、生成するものにはすべて何らかの始まりがあるが、永遠はもともと不生であるのだから始まりはなかったのである。しかるに始まりがなければ、それは無限である。無限であれば、それはどこにもない。なぜなら、それがどこかにあるとすれば、それがあるところの場所そのものはそれ自身とは別になり、そのようにして存在は何かに包囲されることになって、もはや無限ではなくなるからだ。実際、包囲するものは包囲されるものよりも大きく、一方、無限よりも大きなものはないのだから、したがって無限がどこかにあるということはない。またそれがそれ自身に包囲されているということもない。というのは、その場合には同じものが包囲するものと包囲されるものになり、存在が場所と物(というのは、包囲するものが場所であり、包囲されるものが物だからである)という二つになってしまう。だがこれは摩訶不思議である。とすれば、存在がそれ自身に包囲されているということもない。
こうして存在は、もしそれが永遠ならば無限であり、無限であればどこにもなく、どこにもないのならば、それはないのである。したがって、もし存在が永遠であれば、それはそもそも存在ではない。
しかしまた存在が生成したものであることも不可能である。というのは、もし生成したのであれば、存在から生じたか無から生じたかのいずれかである。しかし、存在から生じたのではない。なぜなら、存在からであるならば、生じたのではなく、もとからあるのだからだ。また無から生じたのでもない。なぜなら、無は何かを生み出すことができないからで、それは生み出すことのできるものは必ず何らかの存在性をそなえていなければならないからである。してみると、存在は生成したものでもない。
また同様に、その両者、永遠であって同時にまた生成したもの、でもない。というのは、それらは相互に他を破壊する両立不可能な関係にあり、もし存在が永遠ならば、生成したものではなく、また生成したのならば、永遠でもない。こうして、存在が永遠でもなく、また生成したのでもなく、さらにその両者を兼ね備えたものでもないとすれば、存在はありはしないことになるだろう。
さらに、もし存在があるのだとすれば、一であるか多であるかいずれかである。だが、一でも多でもないことは、以下で証明されるとおりである。したがって、存在はないのだ。
すなわち、もし一であるなら、不連続な量であるか、連続体であるか、大きさを持っているか、物体であるかである。だがこれらのいずれであろうと、一ではない。不連続量であれば別々に分けられるし、連続体であれば切断される。同様に、それが大きさをもつものと考えられると、不可分ではなくなる。また物体であれば三次元のひろがりをもつだろう。長さと幅と奥行きをもつからである。しかるに存在がこれらのいずれでもないと言うのは、摩訶不思議である。したがって、存在は一ではない。
また多でもない。なぜなら、もしそれが一でなければ、また多でもないからである。多は一つ一つあるものの集合であり、それゆえに一が抹消されれば、多もそれとともに抹消されるのである。
存在があるのでも無があるのでもないことは以上から明らかである。
また両者、つまり存在と無とがあるのでもないことも、容易に推論される。というのは、もし無がありかつまた存在があるのなら、あるという点で無は存在と同一になるだろう。そしてそのゆえにいずれもありはしないことになる。なぜなら、無がありはしないというのは合意事項であり、他方これと存在が同一となることはいま証明された。そこで存在もありはしないのである。のみならず、存在が無と同じであるならば、両者がともにあるということもできない。なぜなら、もしそれが両者と数えられるならば、同じものではないし、またもし同じものならば、両者ではないからである。
ここから帰結するのは、何もありはしないということである。というのは、存在があるのでもなく、無があるのでもまたその両者がともにあるのでもなく、他方またこれら以外の場合はないのだとすれば、何ものもありはしない。
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