天才の夭折について
寺山修司が生きていたら、昨日(2023/12/10)で88歳だったそうです。
寺山修司は夭折し、鈴木忠志はまだバリバリ制作している。
モディリアニは夭折し、ピカソは長生きした。
ラファエロは夭折し、ミケランジェロは長生きした。
夭折について、哲学的に考えるとどうだろうか。哲学的に考えるということがどういうことなのかなかなか難しいですが、
若くして死ぬということは、それだけ生きている間に残した作品数が少なく、関わり合った人も限られてきます。
その意味では、なかなか産出されない稀少なダイヤモンドは価値が高い、というのと同じように、稀少価値の意味で価値が高いのかもしれません。
一方で、「もしまだ生きていたらどうなっていただろうか?」という空想が働きやすいのが夭折です。
もし生きていたらと、いろんな可能性に思いを巡らせるから、その分さらにその人に価値を置くようになります。
このとき、我々は通常はもっと長く生きて然るべきという社会通念が働いています。
もしも、ほとんどの人が30代40代で死ぬのが普通の世界であれば、30代40代で死んだ人を「もっと長生きしていたらどうなっていただろう?」と思うことも少なかったかもしれません。
最後に天才性について
特に今回は夭折したと言われるその人自身の天才性も考慮するところがあります。
「もしもまだ生きていたら?」ということを空想させるには、単に早く死んだということだけでなく、亡くなったその人自身の魅力も考慮せざるを得ません。
その人の魅力が、さまざまな可能性へと空想力を引き立てるのです。
というわけで、今回は天才の夭折について
・稀少価値
・社会通念による可能性への空想
・その人自身の魅力
の3つにわけて少しだけ考えてみました。
みなさんはどのように考えますか?
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