2011年2月26日土曜日

クラシック的美しさとカオス的美しさ

音楽の美しさというのは何だろう。
音楽の先生は言う
「絶対音感のある自分が正しいんだとG(音階のある音)の音で歌うよりは、互いの音に合わせて相対的な音感で歌ったほうが観客にとってはいいんだよ。
 
いつか友達との会話を思い出す。
「美って何だと思います?
「・・うーん。何らかの心地よさを与えるもの?」
「バランスですよバランス。比率が良いものが美なのですよ。」
彼はピアノを弾くのだった。
 
べつの友達もやはりピアノを独学で弾くのだが、かれは原音ではなくすべてハ長調に直して弾くのだった。
 
やはり音楽はバランスのたまものである。
 
それと違うのは絵画である。絵画は特に現代美術は現在も常に模索している。あるいはロックやポップやヒップホップのミキシングなどの軽音のなかでもインディーズの音楽の中にも実験的な音楽と言えるのかそれとも何かの音の羅列のようなわざと音を外したりする音楽を作ろうとするものがある。
岡本太郎は言う
「だれが何と言おうと、だれがどんな顔をしようと、色にならない色、音にならない音を出すんだ!」
「ゴッホは美しい。しかしけっしてきれいではない。ピカソは美しい。しかしけっしてきれいではない。」
彼の言う美は、友達の言う美とはまったく違っている。
 
二種類の目的の違う音楽である。(ただし新たなクラシック的美しさを見つけ出すための実験というのはあるが)前者をクラシック的美しさ。後者をカオス的美しさとでも名づけて話を進める。
 
しかし、カオス的美しさはすぐにクラシック的美しさに還元されてしまう。特にその芸術がどのようなリズム、旋律になっているのかの一定の規則、法則のようなものを示すことによって・・。
(いわゆる感性の学としての)美学や芸術評論の類はこうしたカオス的美しさをクラシック的美しさに変える。
また、人もその音楽のカオス的なリズムを記憶とまでは行かなくても慣れてしまうことによって、クラシック的な美しさに移行してしまうのだ。
だから、カオス的美しさは持続することはできない。すぐに色あせるか、移行してしまう。反対にクラシック的美しさは例えそれが存在したのが一瞬であっても永続することができるのだ。
 
"Be always searching for new sensations. Beafraid of nothing."     -Oscar Wilde(The Picture of Dorian Gray)
 
注:ここでは世間受けするようなものについては言及しないでおく。
注:もしも、クラシック的美しさ、カオス的美しさよりもいい名称が思い浮かんだら教えていただきたい。

2011年2月23日水曜日

時浪

同じことに関して全く正反対の教訓を得ることがある。一人で勉強していた時は一人で勉強するよりもやはり、グループで読書会をしたほうが分からないところを解き明かしながら進めるのでいいと思い、グループで勉強していると、人と時間を合わせたりこんなにも時間を浪費する仕方をするくらいなら、一人で勉強したほうがいい。
しかし、結局は自分の地道な忍耐力が足りないだけなのだ。うんざりしてしまう。
今うんざりしているのは努力できない自分にか。それとも人々の会話に入れないからか。それとも人々の会話が参加するに値しないほどのくだらない話で聞くに堪えないからか。それとも単にお腹が減っているだけか。

経験と記憶と忘却

ある日、何らかの失敗経験をして「AはBである」ということに気付いたとしよう。その言葉としての「AはBである」は次第にそれに付属していたその時の経験のあるイメージを失っていく。そして「AはBである」という言葉だけがひとりで残っている。その経験と教訓とが強烈だった場合、私はその言葉と衝撃をよく覚えていながら、その意味だけを忘れていく。「AはBである」という言葉に含まれていない多大な情報が欠落していくのである。あるいはさらに時がたつとその言葉すら忘れて衝撃を受けた感覚のみ、あるいはその逆に衝撃感覚を忘れただの言葉だけ残ることもある。経験というものは次に同じことをする前にそれをあらかじめ予期して吟味するための材料となりえるものなのだが、経験内容を失った言葉、や忘れてしまった言葉、言葉なしのその経験のある感覚だけが残っていてもほとんど役に立たない。そしてまた同じ失敗経験を繰り返す。そして、こう思うのだ「ああ、前にも同じ失敗をして同じ教訓≪AはBである≫を得たのだったな」。忘れていた言葉、その意味と経験感覚をもう一度再現する・・。
同じ失敗をした自分に嫌悪する。しかし、時がたてばまた繰り返す。

2011年2月3日木曜日

ある恋愛の話。

今、スタバでカフェモカを飲んでいる。
 外は雲一つない快晴。
 外で中学生達がおしゃべりしながら歩いているのが見える。 
だが、気分は正直すこし暗い。
 偶然の神様はほほえんでくれなかった。
そりゃあ、ほほえむことのほうが少ない。 
ぼくはツイてない。 
今日、彼女に告ろうと思ったが、失敗した。 
たまたま、僕が遅かっただけだ。 
残念だった。 
彼女は僕の好意に感づいているのか、すでに気まずい状態だった。 
それに彼女は今日神奈川に帰ってしまうのだった。 
僕の筋書ではこうだった。
 彼女が駅から帰る直前に僕が呼びかける。 
僕は彼女に言う。
 「お別れの握手をしよう」と。 
彼女が手を差し出すと、僕はその手を引いて肩を抱き、耳元でこう言う。 
「君が好きだ。でももう諦める」 僕は彼女から少し離れ、向きなおってから笑顔でこう言う。
 「最後のお願いなんだけど、一緒に写真を撮りたい」と。 
僕は彼女に「ありがとう。僕らは友達だよ。」と言い、僕は立ち去る。
 後ろは振り返らない。 
 実際には間に合わなかった彼女を乗せたバスは一足先に駅に到着し、僕は彼女の顔を拝むこともできなかった・・。 
「俺って本当に馬鹿だよなぁ~」俺は駅で待っていてくれた友達にぼやく。
 「いいえ、ooさんは誠実ですよ」と友達がフォローしてくれた。 
 僕はなんとかして、気まずい感じをなくしたかっただけだ。
僕は彼女と仲直りして普通の友達になりたかっただけだが、叶わなかった。
いままでのことをすべてを悪い思い出にしたくなかっただけなのに。 

 『神様等しく俺にも命をくれたが、それだけで何もしてはくれない・・』

Blue Herbの歌詞が聞こえてくる。 
 何とも言えない悲しみのこの気持ち。
心は灰色の雲に覆われている。
ぼやけて見える。 
カフェモカの甘さが癒してくれる。 
よけいに涙が出る。


今更、見返してみると、これはやらなくてよかったなと思う。相手に恐怖を与える可能性が高く、おおかた迷惑になるだろう。我ながらキモい2021/10/01


2011年2月1日火曜日

オキテ

依存関係。
友達は作っても、自分の意志と時間を大切にすること。
親友はよく選ぶこと。いなければ、恐れずに一人でいること。
恋人にする人をよく選ぶこと。いなければ、恐れずに一人でいること。
できても依存しすぎないこと。
恐れないこと。考えることを考えること。したいことを考えること。実行すること。
不確かな情報や自分の勝手な憶測やその場の空気に惑わされないこと。
常に敏感でありながら、時には鈍感な・振・り・をすること。
私の人生を常に眺めてみてその建設の具合を傍観し、じっくり設計すること。