ヘラクレイトスからヘーゲルの系譜
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの思想
「同じ川に二度入ることはできない。」
→万物流転(パンタレイ)
「万物の根源は火である。」
「闘争は万物の父であり、万物の王である」
→万物は闘いである。
ヘラクレイトスは確かに、闘争が万物の父と言ったが、万物の根源は火であるとも述べている。
しかし、火というのは比喩である。
他の哲学者、例えばミレトス学派の哲学者たちとは違い、万物は火そのものなのではなく、万物は火のようなものという意味で万物は火だと言っているのである。
闘争とは、何かと何かの対立であり、互いにぶつかり合い、故に、あい混じり合い、その限りでは混沌として見える。
しかし、それを全体としてみると調和(ハルモニア)であるとヘラクレイトスは考えていた。
火を見るとその度毎に形を変えて変化し続けている。しかし、そのすべてはひとつの「火」に見えるのである。
そう言えば、ライプニッツも波を見て、これだけ変化が激しいのに全体としては「波」に見えるこの認識を不思議がり、そこから統合する感覚「統覚」という概念を思いついている。
ヘラクレイトスに戻るが、
万物は一見、生成と消滅を繰り返し変化し続け、二つのものが対立し合う闘いがあるが、実は全体として調和している、ひとつの火のようなものなのである。(火)
ドイツの大哲学者ヘーゲルはこの辺りに弁証法的な何某かを見出していたように思われる。(後ほど説明します。)
・ヘラクレイトスは暗い人と呼ばれていおり、詩のような語り口だったので、古代の厨二かもしれませんw
・ヘラクレイトスに対し、ものを申す養老孟司。
「万物は流転するが、万物流転という真理は流転しない」養老孟司
「人生は遊ぶ小児」と言うヘラクレイトス↓
https://iranaiblog.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html
一方、ヘラクレイトスの正反対の考えを持つパルメニデスは万物については語らず
ト・エオン(あるいはト・オン。つまり、存在のこと)について語りました。
「あるものはあり、あらぬものはあらぬ。」
残っている断片集を読むと
生成(何かの誕生)はない。
生成するとは、無だったものが有となることだが、無は無であり、有は有なのだから。
消滅(何かの死)はない。
消滅するとは、有だったものが無となることだが、無は無であり、有は有なのだから。
また存在するものは複数ではない。
複数ならば、あるものと、べつのものとの間に無がなければならないから。しかし、無は無い。
存在するものはひとつであり、永遠であり、無はあらゆる意味でない。
では、なぜ目の前にいろんなものが生成消滅を繰り返しているのか?それは単なる見せかけだ。
というようなことが書いてあります。
つまり、パルメニデスの論理では、存在は存在し、無は無い。それゆえ、
何かが生まれるということ(誕生や生成)はない。
「生まれる」とは無いものが存在するようになることだから、矛盾する。
また、何かが死ぬということ(死や消失)もない。
死ぬとは、存在しているものが無くなることだから矛盾する。
さらに、変化もない。
変化とはある性質が存在していたものが無くなり、同時に別の性質が無かったのに、存在するようになることだから。
まじで存在しかないのである。
パルメニデスとヘラクレイトスとはほとんど同時代と言われていますが、交流があったのかどうかは定かではありません。
他の諸科学においては無視されているらしいですが、カントとヘーゲルはパルメニデス的なものを否定したと言えると思います。
パルメニデス的なものがのちのスコラ哲学や神の存在論的な証明になっていくので。
古代ギリシャにおいては、ゴルギアスが、パルメニデスどころかあらゆる論理的な言説に真理なしとしうるようなことを言っています。
さて、
ヘラクレイトスの主張をパルメニデスのような語りで語ろうとしたのがヘーゲルです。
ヘーゲルは「小論理学」で次のように書いている。
「ところでこの純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である」
ヘーゲルは存在は無であると言いたいようである。
存在はそれが純粋にただの存在ならば、まだ何も規定されていない。つまり、何も規定が無い。純粋な存在とは、無内容な存在。無を孕んだ存在。ということらしい。
「真の哲学のはじめはエレア学派、もっと厳密に言えばパルメニデスに見出される。かれは、有のみが有り、無は存在しないと言うことによって、絶対者を有として把握している。これが哲学のはじめである。」
しかし、
「エレア学派は有のみ真理を求め、そのほかになおわれわれの意識の対象をなしているすべてのものの真理を否定することによって、あまりにもいきすぎているのである。」
「本当の関係はこれに反して次のようでなければならない。すなわち、有は不変で究極のものではなく、弁証法的にその対立物に転化するのであり、そしてこの対立物は、同様に直接的にとれば、無である。」
高校倫理でもこの「弁証法」という言葉はヘーゲルの基本的な概念として出てくる。倫理の資料集には、この弁証法をバラの例で書かれていることが多い。
「手近な例は【はじめ】である。はじめにおいては事柄はまだ存在していない。しかし、はじめは単に事柄の無にすぎないものではなく、そのうちには有もまた存在している。はじめもそれ自身また成であるが、ただはじめと言えば、すでに一層の進展が顧慮されている」
「無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成である。」
成というのは生成変化のこと。
「ヘラクレイトスが「すべては流れる(万物流転)」と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言いあらわされている。」
高校倫理の弁証法の説明は次のような図
定立⇔反定立
⇩止揚アウフヘーベン
総合
有の例だと、有と無の総合で成となるみたいな感じ。
人とのコミュニケーションがうまくいかないとき、そして、ヘーゲル↓
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