真理はひとつなのか?
『「真理はひとつではない」ということが真理かどうか』について考えてみる。
前提1
「真理はひとつである」か、「真理はひとつではない」か、のどちらかである。
論証1
もし「真理がひとつではない」というのが真理ならば、
「真理がひとつではない」というのが唯一の真理となるが、
そうすると
その「真理がひとつではない」という"ひとつの真理"しか認めないということになる。
そうすると、「真理はひとつではない」しかも同時に「真理がひとつである」ということとなり、矛盾する。
ゆえに、真理はひとつである。
また、次のようにも言える。
論証2
「真理がひとつではない」という命題を命題Aと言い表すことにする。
もし「真理がひとつではない」というのが真理ならば、
命題Aは真理であるということになる。
しかし、命題Aだけが真理だとすると、真理が命題Aのひとつだけになってしまう。
したがって、「真理はひとつではない」とは、『命題Aというひとつの真理』以外の真理も同時に認めなければならない。
真理はひとつであるかひとつでないかのどちらかなので(前提1)、命題A以外の真理、「真理はひとつである」という真理を認めなければならなくなる。
そうすると、「真理はひとつではない」しかも同時に「真理がひとつである」ということとなり、矛盾する。
ゆえに、真理はひとつである。
しかし、これには論駁が可能である。
実は『「真理はひとつではない」ということこそが唯一の真理である』という命題は矛盾していない。
なぜなら、「真理がひとつではない」ということの意味は「真理はAである、真理はBである、真理はCである・・・」という複数個の真理をまとめた言い方であるだけからだ。
しかし、「真理はひとつではない」とは単に「真理の数が多い」ということなのか?
「独身者とは、結婚していない人間のことである」というのはひとつの真理である。
「あらゆる生起するものには、生起する原因がある」というのもひとつの真理である。
このとき、この二つの真理が並列しているからといって、「真理はひとつではない」と言えるのか?
「真理はひとつである」と主張するとき、その人は、矛盾しない二つの真理が同時に並列して成立しているからといって、「真理がひとつではない」ということを認めることになるのだろうか?
いいや、そうではない。
「真理はひとつである」とは、「あらゆる命題は、真か偽かのどちらかでしかない」ということに他ならない。
例えば『「独身者とは、結婚していない人間のことである」ということが真であって、しかも同時に偽でもあるということはありえない』ということを意味しているのだ。
その昔、古代ギリシャのソフィスト(知者)たちが、そして、今では2ちゃんねる創設者ひろゆきが、討論において、「○○は是か非か」ということにおいて、どちらの立場でも相手を論駁できると言っていた。
どちらの立場でも相手を論駁できるとは、彼らにとってはその命題は真でもあり、偽でもあるということなのだ。
そういった人たちは相対主義者と呼ばれる。
「真理は相対的に決まる」という主張をするものたちである。
しかし、彼らは真理など存在しないと言っているのに等しい。
というのは、あるときは、AはBであることは真理だと言い、あるときはAはBではないというのが真理だと言っているならば、「〇〇のことは真理である」と主張しても誰も信じなくなってしまうので、もはや"真理である"と主張することに意味が無くなってしまうからである。
したがって、
そもそも「真理」という観念には「真か偽かひとつに決まる」と言う意味を含んでいるのだ。
つまり、真理が一つではないならば、ひとつではない真理など真理ではなく、
「真理は、もしそれがあるならば、一つである以外にはない」
これこそが真理についての真理である。
こんなふうに論理や合理性を重視する哲学者は考える。
しかしながら、ニーチェなどの論理や合理性を重視しない哲学者はそうは考えない。
真理について追及した結果、科学および数学を発展させたが、特に道徳・倫理・政治といったことについては、「真理がひとつである」ということは疑わしくなってきた。
そうして、そこからニーチェは科学や数学においての真理も道徳と無関係なものではないのだとして糾弾していく。
ドイツの大哲学者ヘーゲルは、多くの哲学者たちがさまざまに対立する意見を主張していて譲らないのを見て、こう語った。
「思い込みは現存の哲学体系に対し賛成か反対かの何れかを期待し、この体系について説明するときには賛成だけを見るのが普通である。思い込みは諸々の哲学体系のちがいを、真理が前進するときの展開とはみないで、このちがいのなかに矛盾だけをみている。」(『精神現象学』序論)
ある命題に対し、ある人が「真である」と主張し、ある人が「偽である」と主張する場合、どちらの主張にも何らかの根拠があり、その根拠の限りでは、その根拠しか知らないならば、その主張は正しい。
しかし、それぞれが自分と対立する立場の主張とその根拠を知れば、自分の主張とかけあわせてみて、自分の誤っている部分を正し、相手の誤っている部分を正し、さらに正しさへと近づいていけるはずである。
ヘーゲルはそのように考えているのである。
しかし、そうしてヘーゲルは、最終的には、すべての人が合意するような本当の真理へと近づいていけると考えた。
ニーチェは次のように考える。
そもそも「真理はひとつである」などとまじめくさって真理を求めたがる者はだれか?
それは真理なるものに頼らなければ生きていけない弱者である。
たったひとつの真理などという誤謬にすがらなければ生きていけない弱者である。
実のところ、すべては力への意志であり、その力への意志のひとつに真理への意志がある。
力への意志とは、誤解を怖れずに言うならば、この世界をそれぞれ自分にとって都合がいいように解釈する力である。
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【追記】
さらに考えていて、思いついたのだが、
実は『「真理はひとつではない」ということこそが唯一の真理である』という命題は矛盾していない。
なぜなら、「真理がひとつではない」ということの意味は
「真理は存在しない」
「真理は1つである」
「真理は2つである」
「真理は3つである」
「真理は4つである」
・・・
という複数の無限に続く命題の集合を考えて、その中から、「真理は1つである」という命題を偽としたにすぎないからだ。
「真理は存在しない」→真偽不明
「真理は1つである」→偽
「真理は2つである」→真偽不明
「真理は3つである」→真偽不明
「真理は4つである」→真偽不明
・・・
つまり、「真理はひとつではない」とはひとつの誤りを除外しただけなのであって、未だ真理が何かはわかっていない。
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