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2025年7月10日木曜日

海の上のピアニストは、海に出たことがない大哲学者だった!? 〜1900とカントの伝説〜


「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老いを迎える者は日々旅にして旅を住処(栖)とす。」『奥の細道』松尾芭蕉

映画「海の上のピアニスト」を見たことがあるだろうか?1900年に生まれたゆえに《ナインティーンハンドレッド》と名付けられしピアニストの男は、幼い頃から死ぬまで船の中で暮らし、決して船から降りて陸地へと旅立つ事はなかった。だが、彼は船の外の世界ことにも関心がないわけではなかった。むしろとても気にはなっていたであろう。だが、それらを実地で歩いて、知ろうとはしなかった。

ただ彼は、一度だけ、陸地に旅立とうとしたことがある。しかし、彼は船と陸とを繋ぐタラップの上で陸地を目の前にして尻込みし、こう考えたのだ。


「ピアノは違う。鍵盤は端から始まり端で終わる。鍵盤の数は88と決まってる 無限じゃない。弾く人間が無限なんだ。人間の作る音楽が無限。そこが好きだ……タラップから見えたのは何千何億という鍵盤だった。無限に続く鍵盤 人間が弾ける音楽は無い。神のピアノだ……」


彼は陸地の大きさを目の当たりにして船から陸地へと降り立つことを自らの意志で断念したのだ。


私はこれらの話を見て、18世紀のドイツの哲学者カントを思い出す。

2025年4月28日月曜日

カントの自由と道徳

 ネオ高等遊民さんがカントの「実践理性批判」を解説する動画を見た。


だが、ネオ高等遊民さんはカントの著作そのものはあまり読んでないということがわかる。


ネオ高等遊民さんはこう話していた。

 我々は自然法則には逆らえないが、道徳法則には逆らえる。例えば、嘘はついてはならないが、嘘がつけてしまう。だから、我々人間は自由だ、とカントは見抜いた、と。


これは全然違う。

実際に、実践理性批判を開いてみよう。

2024年10月1日火曜日

カント哲学 否定と無限!

否定判断と無限判断

ジジェクはカントのこの区分けをユーモアを伴って説明していました。

単に否定命題でHe is not dead.「彼は死んではいない」と言うときと、he is an undead.「彼はアンデッドだ」というのとでは意味が違う。


カントは、人間が考える時に使っている思考(悟性)の形式をカテゴリーに分けて整理しました。


カテゴリーには4つあり、そのうちの「質」がありますが、今回は質を取り上げます。


悟性のカテゴリーの質はさらに3つに分かれます。

(カントは判断の形式を悟性の形式を導くための手引きとしていますので、判断を3つ取り上げます。)


ひとつ目は肯定判断。例えば、「これは長い」とか、「これはりんごである」とか。


ふたつ目は否定判断。例えば、「これは長くない」とか、「これはりんごではない」とか。


最後に無限判断。例えば、「これは長くないものである」とか、「これは非りんごである」とか。


この最後のものは、内実は否定判断なんだけれども、それを無理に肯定判断にしたもので、一見したところ否定判断と違いを感じないように見える。

私も最初読んだ時には、「何が違うのか?」と疑問に思ったものです。


しかし、カントは否定判断は単にひとつの「長い」という性質を否定したのに対し、無限判断とは、長くないすべてのものが可能性として含まれてしまっていることに留意する。

つまり、長くないものには、短いもの以外にも、空間的でないものやら、丸い四角やらも含まれてしまっているのです。そうしてカントはこれを「無限判断」と呼ぶのです。


(ただ、この無限判断から導かれたカテゴリーは制限命題とも名づけられています。それは「長くない」という一点において制限されているのみとも言えるかららしいです。)


そして、私の読みではこれがカント哲学のひとつの根幹でもあるのかなと。


例えば、世界の限界について考えるときでも、

(カントは世界は有限であるということの証明と世界は有限ではないことの証明を両方することによって、それら証明そのものが有効でないことを示し、それをアンチノミー〈二律背反〉というのですが)


「世界は時間的に有限である。」

「世界は時間的に有限ではない。」

このどちらか以外の方法として「世界は非=有限である」を考慮に入れていた節があります。


そう考えると、実はあの「世界は有限である」の反対は「世界は無限である」というのは言葉としては翻訳は正しくとも、正確には無限を積極的に提示しているというより、有限の否定についての話なのかもしれないと。すると、この命題はカントの真意にそうなら、「世界は有限ではない」と訳すべきであって、積極的に無限を証明したわけではないと言えるかもしれません。


そして、アンチノミーのあとで、それらの問題は不定であるとしてある種の結論めいたものを出しますが、そのときでもこの第3の判断のことを思わずにはいられないのです。

2024年2月1日木曜日

主観的なものと客観的なものとを分けることは可能か?

 何かを考える時、

客観的に考えるより

主観を優先させる方がというより優先させないと

多分生きることは不可能

というのが個人の主観

と言った人がいる。


私はそれに対してこう返した。

何かを考える時

主観的に考えるより

客観を優先させる方がというより優先させないと

多分生きることは不可能

というのが客観的な事実


まあ、何の考えもなくただ逆転させてみました。


今のは単に逆転しただけだけれども、

大体、すべてを客観や主観にするのがよくわからないと思う。


主観にすべきところを主観にし、客観にすべきところを客観にするだけなんじゃないのかな。


自分が何をしたいのかを日本人男性一般が何を望んでいるかの統計で考えていたら、意味がわからないし、

逆に、自分の望みを叶える手段を自分の思い込みに従って客観的なデータに基づいてやらなければ叶わないだろうし。


「主観的」「客観的」の語法

よく主観と客観の二項対立の批判があるが、その批判点の一つに「主観と客観はそう簡単に別れるものではない、主観にも客観が、客観にも主観が混じっているではないか」というものがある。


カントにはそんなことはわかっていた。

だから、カントは主観的なものをある観点から見れば、客観的だが、別の観点から見たら主観的だと言ったりするのだ。

つまり、「大きい」とか「小さい」という概念と同じである。

大きいも小さいも相対的な概念である。

何かを基準にしたときに、大きいとか小さいとかが定まるのであって、別のものを基準にすれば、変わってしまう。

客観と主観も同じようなものなのである。

あるものを基準にすると、より主観に近い、より客観に近いという関係性があるだけで、基本的には相対的な概念なのである。

2024年1月29日月曜日

人間をモノとして扱う事の曖昧な領域 ~カント倫理学の限界~




モノ化について

人間をモノとして扱う事、モノ化。


「直感的にモノ化はだめっていうのは分かるけど、現実的にはモノ化は不可避だと思うんですよね」という指摘があった。

「同じモノ化でも、(女性が監督やプロデューサーや大物芸人などの立場の高い男性が)有用だから付き合うというのは許されても、(そうした立場の高い男性が女性を)モノとして献上される上納システムは批判される。

ここの道徳的な部分を話すのに、モノ化自体がだめというのは解像度が低いと感じてしまいました。」


確かにモノ化にも確かに程度がありそうである。

上下関係があって立場の低い相手に何かを命ずる時などは、相手をある意味ではモノとして、道具として、手段として、扱っている。

しかし、そうだとしても、モノのように乱暴に扱うのでは非難される。


命令するか、頼むか。

そのときに、役職で呼ぶか、名前で呼ぶか、「おい、雑魚」って呼ぶのか。

相手のミスを否定するのか、人格を否定するのか。

一部モノとして扱っているところがあるのだとしても、相手の人格を雑に扱うのか、あるいはある程度でも相手を尊重しながら扱うのか、という違いだろうか。


これをカントで考えてみる

2023年9月14日木曜日

不可知論について考える前に「知る」の意味を考えるべし

不可知論とは何か?


不可知とは「知りえない」「知ることが不可能」ということである。


不可知論を語る前にまず「我々は何を知りうるのか?」「「知る」とはどういうことなのか?」を考えなくてはならない。


最初から不可知について考え始めてしまうと、知りえないことはそもそも知りえないのだから、それは私にとって存在しないのと同じことだ、でよくよく考えもせず終わってしまうこともあるからだ。


不知は知らないことで、不可知は知りえないことで、未知とは未だ知らないことだが、無知とは「知る」ということがよくわかっていないのにああだこうだ述べることである。

2023年6月3日土曜日

カント哲学 「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従っている。」

 カント哲学

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従っている。」


例えば、生まれた時から一生外せない赤い色眼鏡をつけた人間。彼は物を見ると、すべて赤く見える。したがって、「すべての物体は赤い」と考える。

しかし、本当に赤いかどうかは色眼鏡を外さなければわからない。

これは譬え話だが、


人は、時間、空間、概念、(および論理)によって何かしらの物を認識する。

だから、時間、空間、概念、論理がその何かしらの物(認識の対象)に備わっているのだと勘違いしているのだ。

しかし実はそうではなく、時間、空間、概念、論理という認識の枠組みが人間にあって人間はそれでしか認識できない。

だから、すべての物体はその認識の枠組みを通して、時間、空間、概念、論理的に整合性のある物として見えている。

いわば、時間、空間、概念、論理という色眼鏡をかけているのだ。

2023年5月12日金曜日

メタとは何か?

 「メタ的な」とか、「メタ表現」など「メタ」という言葉を「超越的な」という意味で使う人がいる。


しかし、正確には微妙に違う。


2023年3月13日月曜日

魂の不死を証明するカント以前の形而上学?

 魂について

カントは純粋理性批判の中の魂の誤謬推理において

魂が不死かどうかは断定できないという感じでしたよね。

ライプニッツヴォルフ学派の人たちが述べた魂は不死であるみたいな証明に、いや、あれは証明したとは言えないと述べています。


カント以前から、昔からよくある形而上学における魂の不死の証明を紹介します。それらを理解しておくとカントがわかりやすくなります。大体これに似たようなのを論駁したいので。

二つ紹介します。

2023年2月19日日曜日

カントのアプリオリな総合判断の意義

 「直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」カント

直観とは、我々が理解している時間や空間のこと。

概念とは、我々が言葉で捉えるそれのこと。

分析的とは、もともとその概念に含まれていたもので分解できるもののこと。

総合的とは、その概念には含まれていない別の概念をくっつけて新たな概念を作ること。

アプリオリとは経験的ではないということ。

アポステリオリとは経験的であること。


さて、

5+7=12

はまさに、アプリオリな総合判断と言えます。

2023年2月14日火曜日

因果論ヒューム批判するカント

 いきなりで申し訳ないのですが、今哲学で考えてることがありまして、因果律についてです。


つい最近まで、何事にも原因と結果があるのであれば、現世で死ぬことで次(来世や死後の世界)があると考えてたのですが、因果律の批判(ヒュームの思想)を知りました。

因果律の考えは私たちの習慣に基づくものであるという批判でした。

例として、火に手を近づければ熱いですが、99回目までは熱いとしても100回目では熱くないかもしれない、というのがある本で書かれてました。

そこで私が知りたいのが、このヒュームの批判に対する批判です。

この因果律の否定の先の考え・議論をあるのでしょうか..??


それについては、カントの考えがあります。


カントは「確かに、突然、明日、太陽が昇らないということはあり得るだろう。しかし、それがなんの原因もなしに。ということは考えられない。」みたいなことを言いました。


これこれの原因によってこの結果が起きるとは限らない。しかし、だとしても、それは別の原因による別の結果が起きているだけで「あらゆる生成変化はなんらかの原因を持つ。」と我々人類は考えざるを得ない。


そもそも人間は何に対しても「それはなぜか?」と問い続けることができる存在であり、なぜと問うときにその結果を必ずや加味している。それはたとえなんの原因も見当たらなかったとしても、原因が見当たらない原因は何か?と問えてしまうことからも分かる。


例えば、科学において、実験結果が理論と微妙に違っている時に、そこには誤差の出るなんらかの要因があるから、と考えたり、理論自体が違っていて別の理論がいるのではないかと考えたりする。

しかし、なんの要因もなしにそこに誤差が出ると考えることはそもそもできない。


ヒュームは表面上の現象にはさまざまな可能性があることを示唆しているだけで、実は原因と結果の関係についてはあまり考えていない。

原因結果には必ず「なぜ?」というものがついて回る。

火に手をかざして熱いのはなぜか。

100回目で火に手をかざして熱くなかったのはなぜか。


そこに単に権威ある人が言ったことを鵜呑みにするのでなく、ちゃんと根拠のある科学的なものの見方のひとつの大切さがあるように思われます。

アリストテレスの因果論やヒュームの因果論までわかるカント解説↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2020/04/blog-post_3.html

2022年11月12日土曜日

理性から出てくるカントの道徳論、解説

 ドイツの大哲学者イマヌエル・カント。

彼の道徳論は定言命法「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法に妥当するよう行為せよ」というもので有名ですが、批判ばかりで、その内実を理解している人は少ないように思います。

そこで、わたしが読み解いたカントの道徳論を解説してみたいと思います。


彼の道徳論は認識論である「純粋理性批判」から地続きになっている。


まず因果関係の系列の話がある。

あらゆる科学的な言説が前提としている「すべてのものにはなんらかの原因(あるいは根拠)がある。」というものがある。

「量子力学において、不確定性原理が働いており、すべては確率的に決定されるので、ラプラスの悪魔のような想定は正しくない」ということが真だとして、しかし、それがなんの原因も(あるいは根拠も)なしにということはあり得ない。


それは

「〇〇ならば✖︎✖︎である」というような概念(今風に言えば言語だが)、それは我々の悟性が持っている純粋悟性概念の仮言的判断によってなされている。


そうして、あらゆる現象にこの仮言的判断を適応すれば、すべては原因結果(または根拠と結論)の系列として扱われうるからなのだ。


そして、そこには善も悪もない。単にさまざまなことが生起しているだけである。

ある人が誰かを刺したとしても、そこにはさまざまな要因(社会的要因や親からの影響やその相手の反応などなど)が絡んで、刺したのだとすれば、その人には責任はない。すべては、彼によって刺されたのではなく、外的要因によって、彼が刺すように強要されたような形で理解されるのだから。

我々はそのような悪事を見たときでも仮言的判断を行い、なぜそのような犯罪が起きたのかという原因を探る。


しかし、人間は因果関係の系列から自由でありうるという可能性を秘めている。だから、彼自身の責任でもある。

と、カントはそう考えている。と、私は考えている。


人間は、自分にとって殺したいくらい大嫌いな男が溺れているのを見た時、助けたくないという気持ちもあるかもしれないが、助けなくては!!という気持ちもいくらかは起きてしまう。

そのとき、助けないのが自然界での普通であり、自然であるにも関わらず、どうしてそんな気持ちが起こったのか?(もちろん今では動物行動学において、動物は仲間を助けようとすることも認められてはいるが)

そんなとき、それは人間が自然界の法則を離れて自由になれる可能性を秘めているからだ。

とカントは思ったのかもしれない。


そこでまずは「〇〇ならば✖︎✖︎だろう」という仮言的判断ではなく、(「〇〇ならば✖︎✖︎せよ」という仮言的命法でもなく)、「無条件に(無制約に/無制限に)〇〇せよ」という定言的命法を提唱する。

仮言的判断だと、最終的にすべては因果関係の系列に還元されていってしまうからだ。しかし、無条件に「○○せよ」という定言命法は違う。「(いつであれ、どこであれ!例外なしに)○○せよ」ということであれば、あらゆる仮言的なものから、離れているからだ。


また、そのためにマクシム「格律」というものを置く。これは自分で作った自分自身のための法律、あるいは、座右の銘みたいなもので、「わたしはいついかなるときも例外なく○○することにしている」というものだ。人間は弱くすぐに外的要因によって自分で立てた格律を守ることはできなくなってしまう。しかし、これを外的要因とは全く無関係に守ることによって、その人間の人格というものは形成される。

具体的には「嘘はつくな」「生命を大切にせよ」とかそういう感じのものだ。


これによって、なんらかの行為を行うとき、動機が外的要因などから無関係であって、自分自身の意志で立てた格律に基づいているということが少なくとも可能性として担保される。


では、続いてそもそも自分の立てた道徳法則という格律は本当に正しいものかという疑問がある。

格律そのものもまた外的要因に縛られずに規定しなくてはならない。

そこでその格律がいつでもどこでも例外なく妥当するものかどうかを判断しなくてはならならない。これが普遍的立法と言われる。


ちなみに、無制約なものを規定して法則を立てようとするのはそもそも理性の能力とされている。

行為の動機も理性のみに基づき、道徳法則の立法も理性のみに基づき、最後に道徳の目的も理性のみに基づくことが必然とされる。

なぜなら、仮言的なものから無制約でいられるためには、そうしたものから無関係でなくてはならず。それができるのは普遍性を備えているものしかないからだ。


最後にその道徳の達成によってなされる目的は、それ自身、それはつまり、理性自身であって、理性的な存在者そのものだとされる。つまり、人間の尊厳が目的とされるのだ。

これはアリストテレスから来ている。理性が理性そのものを目的として働く。そうすれば、人間は完全に仮言的なものから自由になれるのだ。


とはいえ、現実には難しい。カントもそう考えていた。

ほとんどいつも、なんらかの外的な要因に動かされて人間は行為してしまうものだ。

しかし、それとは違った行為を行える可能性を人間は想定できる。カントはそれをもって、人間には責任があると考えた。

人間もほとんど動物だが、動物とは「(いつもいかなるときでも例外なしに、つまり、どんな外的要因があっても)○○せよ」を守ろうというふうには行為しない。そして、その意味では責任は問われない。理性を持った人間だけが責任を問われうるのである。


カントの道徳論は、動物の理解について誤っているし、人間中心的であり、理性信者であり、善悪については説明がなされていないなど言われるが、ここまで読み解けば、その思考を学ぶ価値はあるようにわたしは思う。

2021年9月20日月曜日

自我論を端的にまとめました。

「私とは何か」カントとヘーゲルのエッセンスから考える。


これはカントが考えていたことなのですが、


(目の前に現れる知覚されるものや感じるもの、


肉体的であれ心的であれ記憶であれ、という)現象に


(言葉や記号といった)概念や


(時空間上に位置付けていく)直観を


結びつけるものがあり、


それは統覚と呼ばれています。

この統覚こそが根源的な私ではないかという議論があり、


実際のところ、

統覚の権利として

表象を様々に結びつけたのちに、

「と私は思う」という一文を付与することが可能になっています。


しかしながら、

カント自身はこの統覚を安易に「(本物の)私」などと呼ぶことに慎重になっており、

むしろ、この統覚が私と私でないものを経験的に区別していくことで

経験的な「私」というものが立ち現れる。

そのように考えています。



そして、その立ち現れ方は、

(これはヘーゲルや心理学からヒントを得ていることですが)

他人との出会いによってです。

例を出して、考えていくと、

ある人は「痛い」と言ってのたうち回っている。

しかし、「痛み」の現象が全く知覚されていない。

しかし、その痛がる姿に、かつて痛かった時の記憶を想起させるなにがしかがある。

それゆえ、この人は私ではない存在、他人である。


「今、私は痛くないが、その私に多少なりとも似たふるまいをする他人は痛いのだろう」


そのことによって、無意識に他人を確定しており、他人でないものを私と言っている。


というようなことを無意識的に規定してしまっている世界に生きているのです。


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正義・恐怖・狂気

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2021年9月18日土曜日

不可知論とカント

 18世紀、カントという大哲学者がいた。



彼の残した世界一難しいと言われる本「純粋理性批判」

この話をしたい。


そもそもこれは何を述べた本なのか?


タイトルから察するに純粋理性を批判する本なのだろうという。


その通りである。

カントは批判を吟味するぐらいの意味で使っているので、

純粋理性を吟味した本と言える。


我々は理性を使ってさまざまな事柄を認識している。

眼の前にパソコンの画面やスマホの画面があるということが分かるのも、計算ができるのも、持っている物を離すと落ちることを知っているのも、すべて理性である。

(正確には、カントは目の前の現象に妥当させる理性を悟性と呼んで区別はしているが)


そして、カントはこの理性の能力がどこまで適応できるかということの限界を見極めようとしたのである。


そうして、理性の能力の限界を超えてしまうがゆえに、判断不可能なものが三つあるということを結論した。

その三つが、魂の実体性、世界の限界、神の存在である。

ひとつめは理性は「魂は単純な実体として存在しており、それゆえに不死である」というような推理をしてしまうことである。

カントは、これを頭で考えるだけで結論付けようとする純粋理性の誤謬推理であるとして否定した。


二つめは、理性は

「世界(宇宙)の時空間的な広がりに限界はあるか」

「世界(宇宙)の物体は無限に分割可能か」

「世界(宇宙)に自由は可能か」

「世界(宇宙)に第一原因(世界で変化が起きるためのそれ以上遡ることのできない最初の原因)は存在するか」

という四つの命題について判断できない、というものである。

「そうである」とも、「そうではない」とも結論付けることができてしまうのである。

これを純粋理性の二律背反という。


最後に神は存在証明についてである。

神の存在証明について多くの神学者(スコラ哲学者)や哲学者が取り組んできたが、それらのすべては存在が理性によって証明できたからと言って実在すると結論するということはできないというものである。


判断不可能であるというのは、知ることができないということなのである。

こうして、カントは、神や魂や世界の限界に対する不可知論の立場を不可知論という言葉がない時代に明確に打ち出したのだ。

(不可知論という言葉は、ダーウィンの進化論を擁護する生物学者トマス・ヘンリ・ハクスリーによって提唱されたとされる)


そして、これら三つのものの本当の姿を物自体と呼んでいた。

しかし、物自体はあるということの意味は、

神と魂と世界の限界はあるということでは全然無く、本当は、

神の存在はいるかいないかのどちらかであり、

魂は実体であるか属性であるかのどちらかであり、

世界の限界はあるかないかのどちらかである、

というようなことで、どちらかは不可知だが、どちらかとして存在するはずであるという意味なのである。

そうでなく、物自体が存在するということを例えば無限分割は不可能であり、最小の実体が存在するとかいう意味なのであれば、カントが執拗なまでに理性による認識はできず判断不可能であることを主張したことを自ら無駄にしているという矛盾に陥る。


では、自然科学においてカントの問題は解決されたか?

これについてはまたのちのブログにて書きます。


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2020年5月26日火曜日

カントから生命の尊厳??

カントは、道徳において、手段として扱ってはならず目的として扱えと言っているところで生命を重視していると思えるような箇所もありますが、

実は正確にはカントは命が一番大事とは言っていません。カントがより重視したのは、ドイツの憲法にも掲げられている「人間の尊厳」です。

カントは人間を手段として扱うなとは言いますが、同じ生命を有しても、理性がないとされている動物は手段として扱っても良いわけです。

「命が大事」という思想は、古くは宗教における「殺すなかれ」に発端があるようですが、
(聖書にモーセの十戒があり、東洋では、生きとし生けるものの不殺生を説く仏教哲学がありますね)

しかし、西洋哲学としては、カント以後の、比較的新しいものに思います。そして、西洋では未だにあまり受け入れられない感じがあるのです。

2020年5月5日火曜日

カントの「崇高」とショーペンハウアーの「意志」、そして、表現主義の不条理性

新カント派のリッケルトが言うには、ジンメルが生の哲学と芸術における表現主義とを繋げて考えていたと言っていたらしい。

では、カントの「崇高」概念によって、表現主義の不条理性を捉えることは可能でしょうか?

結論から言うと、それはあまり適当でなく、ショーペンハウアーの「意志」の「表象」の方が妥当だと思います。



まず、表現主義とは何でしょう?

映画「カリガリ博士」に
ムンクやシーレやファイニンガー、カンディンスキーの絵画、
カフカの小説、
ゴットフリート・ベンの詩集、
シェーンベルクの作曲に、
日本の暗黒舞踏にもかなりの影響を与えたノイエタンツのマリー・ヴィグマン、
メンデルスゾーンによるアインシュタインの相対主義に影響された建築物アインシュタイン塔に至るまで具体的な作品群
があげられますが、それらを統一することはかなり難しいと言えましょう。

(一般にはムンクとカフカとエゴンシーレぐらいしか知られていないようですが。)

また、表現主義は、ニーチェやゴッホやゴシックやロマン主義などとも重なる部分や影響が多いため、一概には語れず、それをひとまとめにするのはひとつの暴力のようなものでもあるように私には思われます。

ですが、あえて表現主義の発端から、演繹的に考えてみましょう。

2020年4月9日木曜日

人とのコミュニケーションがうまくいかないとき、そして、ヘーゲル

私、他人、主観と客観
(カント、レヴィナス、ヘーゲル)

カントが考える客観性とは、時空間上における数値化されたものであり、かつ因果律によって説明のつくもののことであります。

つまり、理性を有している者であれば誰もが共有することのできるもの。

2020年4月3日金曜日

因果律についてカントさんに教えてもらいました。

どうも、カントです。
本日は私による因果関係について、アリストテレスさんとヒュームさん、そして、そこから導かれる自説を話します。
私が散歩に行く時間を忘れたのは、ルソーの「エミール」という本を読んだときでしたが、人生でルソーほどの衝撃だった本がもう一つありました。



2020年4月2日木曜日

カントさんが畏敬を抱く2つのものについて、本人にインタビューしてみた!

今回、安部火韻は哲学者で有名なカントさんにインタビューしてみました。ではどうぞ

どうもカントです。今日は、ルソーを読んでいて時間や通りに散歩に行けませんでした。私の散歩で時計を合わせていた方、ご迷惑をおかけします。


本日はですね。次の文章について解説しようかと思います。



こちらは、実践理性批判の結語にあたる部分で、よく引用されます。詩的だということで印象に残るようですね。

まあ、私もロマンチストな部分もあるのですよ。

書いたときは心地よくぶっ飛んでいました。