「 他人の眼差し」という概念への注目は、フランスの哲学者サルトルから始まったのかなって感じがします。
その後、ラカンによって精神分析の基本概念のひとつとなり、レヴィナスの「顔」となる。
思えば、学生時代にラカン読書会を開いたとき、無償でしてくれた指導教官はサルトル研究の教授でした。
ドゥルーズにハマっていた学生と、カントを勉強してた私と、サルトル研究の教授、3人合わせて文殊の知恵w
ラカン読書会ではフランス語とドイツ語と英語参照しながら、エクリを読んでいた。
ある日、ある一文に何十分も費やしたあげくに、
「あ、これただのギャグかよw」
ってなったことがありましたw
フランス人が聞いたらこれぞ日本人の典型だと馬鹿にされるような話ですw
〉それって、最優秀インテリさん揃って、江戸時代に杉田玄白等が解体新書訳してたときとおんなじかもしれません。
杉田玄白たちは、解体新書を翻訳するとき、顔の真ん中で隆起しているもの という記述を、不完全な辞書でようやく単語調べて、これなんだろう、、と散々悩んで、「鼻」かよ、てなったような話があります。日本語と西洋語の関わりはそんな感じで始まったようです。
ラカン読書会にいそしむこの3人は当時、非モテ・インテリでしたのでw
解体新書は身体についてでしたが、我々は精神についての解体新書とも言うべきもので、
こうして、高い鼻👃がへし折られ、我々の精神が解体あるいは分析されたわけであります。
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