2024年1月31日水曜日

合理性、論理を論理的に。

 我々は合理性においてしか、物事を考えることができない。

思考することの根底に合理性が横たわっているからである。

従って、非合理性について思考するということは、単に主体の思考過程それ自身の自己点検を行うことではない。

非合理性が成立する理由を考えるということは、非合理性を合理的な理由によって説明することで立証することであり、

合理的な理由が立証された非合理性などはもはや、見かけだけの非合理性ということになろう。

従って、非合理性について考えることとは、非合理性など存在しないということを証明することなのである。


前提1.我思う

ゆえに

結論我あり


「我思う故に我あり」には「我思う」ならば「我あり」が論理的に正しく帰結するということが含まれていない。

だから、我思うからと言って我ありが帰結するのかどうか。

それが帰結するということをあらかじめ前提として認めなければ論理的に帰結しない。なので、


前提1.かりに我思うならば我あり

前提2.我思う

ゆえに

結論我あり


まだ足りないぞ。ここには{仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」に帰結する}ということが前提されていなければ、かりに「我思うならば我あり」かつ「我思う」からといって「我あり」と帰結することはできない。


前提1.仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」

前提2.仮に「我思うならば我あり。」ならば、「我あり」

前提3.実際に「我思う」

3つの前提ゆえに

結論:「我あり」


まだ足りないぞ……続く


何故何故思考で迷走するか、無我無我思考で瞑想するか

2024年1月29日月曜日

人間をモノとして扱う事の曖昧な領域 ~カント倫理学の限界~




モノ化について

人間をモノとして扱う事、モノ化。


「直感的にモノ化はだめっていうのは分かるけど、現実的にはモノ化は不可避だと思うんですよね」という指摘があった。

「同じモノ化でも、(女性が監督やプロデューサーや大物芸人などの立場の高い男性が)有用だから付き合うというのは許されても、(そうした立場の高い男性が女性を)モノとして献上される上納システムは批判される。

ここの道徳的な部分を話すのに、モノ化自体がだめというのは解像度が低いと感じてしまいました。」


確かにモノ化にも確かに程度がありそうである。

上下関係があって立場の低い相手に何かを命ずる時などは、相手をある意味ではモノとして、道具として、手段として、扱っている。

しかし、そうだとしても、モノのように乱暴に扱うのでは非難される。


命令するか、頼むか。

そのときに、役職で呼ぶか、名前で呼ぶか、「おい、雑魚」って呼ぶのか。

相手のミスを否定するのか、人格を否定するのか。

一部モノとして扱っているところがあるのだとしても、相手の人格を雑に扱うのか、あるいはある程度でも相手を尊重しながら扱うのか、という違いだろうか。


これをカントで考えてみる

2024年1月28日日曜日

誤読を恐れない勇気

 難解な本は「誤読を恐れない勇気」が必要かも。一旦、この《読み》で片付けてしまおう、と。


しかし、常に「私は誤読している」ということを意識する必要がある。読みが違ったなら修正を繰り返す必要があるからだ。

2024年1月27日土曜日

哲学を学びたい人へ




 アカデミックな教養として学ぶのならば、倫理の教科書など教科書的なものを読むのが良いでしょう。

また、倫理の教科書も順に読み進めるのもいいですが、読み飛ばしたり、パラパラめくってみて気になるところだけつまむ読み方というのもありかなと思います。

それで、読んでみて、気になったテーマや哲学者がいたら、その入門書を読む。

注:哲学の本は教科書とか入門とか書いてあっても、教科書でも入門でもない場合があります。


逆に、哲学史を概観するのではなく、実際に哲学的にいろいろなことを考えてみたいという感じであれば、


「翔太と猫のインサイトの夏休み: 哲学的諸問題へのいざない」永井均

「哲学の謎」野矢茂樹

「哲学の道場」中島義道

「哲学の教科書」中島義道

この辺りが私の個人的なおすすめです。

しかし、私に偏った勧めとは関係なく、書店でなんでも手に取って、パラパラめくり、肌に合うようなら、買って損はないかと思います。

興味はあっても、読んでみて、肌に合わないものは買わないでください。

哲学的な肌荒れしますw

(というかたぶん、読まれません)



そして、哲学書の原典を読みながら、哲学的な問題に取り組んでみたいと思われるならば、

初心者向けとしてはデカルトとプラトンをおすすめします。


「方法序説」「省察」デカルト

「ソクラテスの弁明」「饗宴」プラトン


デカルトはカウチに座ってひとりでじっくり考え込むタイプの哲学。

プラトンは、誰かとあって激論を交わしながら、考えていくタイプの哲学。


関連ブログ

哲学に向いている人の条件は何か?

https://iranaiblog.blogspot.com/2023/12/blog-post_21.html

2024年1月26日金曜日

道徳的であるとはいかなることか?(スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ、江川隆男)

 



  • はじめに

明日には現代思想ビッグクエスチョンにおけるひとつの記事「道徳的であるとはいかなることか」江川隆男の読書会がある。


いまのところ、全体は全く読んでいないが、ブルーノさんがあげてくれた2ページだけから読み解いてみる。

そのため、大いに誤読する可能性はあるだろうが、すべてを読んだとしても、全く読めてない人もあるということ、ポストモダン以降、すべてをつぶさに読んで壮大なお話、つまり、体系立てることの無意味さが露呈した今、こういう読み方もアリだろうと思うので、そうする。(2023/1/26/0:00ごろ)

と思ったが、書いている途中で、今回はどうしても気になって読んでしまった(笑) (2024/1/26/19:00ごろ修正と追記)


そして、たった今読書会が終わったので、論考を修正したい。(2024/1/27/23:30ごろこれから修正と追記予定)

2024年1月25日木曜日

安部火韻の哲学との出会いと読書術

哲学という知的活動は「飲む/打つ/買う」の代わりに「読む/書く/議論する」の3本によって成立しているらしい。

しかし、なかなかその3つの時間を取ることが難しいとも聞く。

私、安部火韻はどのように哲学と向き合っているのかを書こうと思う。



2024年1月15日月曜日

生産性がない無駄なものとは何か?

 「哲学などやっていても、生産性がない」

哲学の祖タレスは空を見上げて歩いていて、溝に落ち、街の人に笑われたとか。


哲学は、その最初から考えてばかりで生産性がないと見られていたのである。


しかしながら、タレスは溝に落ちたのではなく、天体観測のためにあえて、溝を掘って自分で入ったのではないかという説もあるようだ。


そうして、タレスは天体観測を通して、オリーブの収穫時期を予測し、オリーブ絞り機を買い占め、一儲けしたとか。


タレスは、今で言うデリバティブの祖でもあるのだ。





さて、今日のテーマは、生産性とは何か?


2024年1月1日月曜日

初日の出を見ながら、年明けについて考える。


 明けましておめでとうございます!

7:01すぎに日の出を見ました。


元旦を0:00に祝うっておかしいのではないか?


「明けまして」とは日の出を意味しているのではないだろうか?

もともとは、日没に年が終わり、日の出と共に新年が始まるというものなのではないだろうか?