2021年12月9日木曜日

真理はひとつか?

 真理はひとつなのか?


『「真理はひとつではない」ということが真理かどうか』について考えてみる。


前提1

「真理はひとつである」か、「真理はひとつではない」か、のどちらかである。


論証1

もし「真理がひとつではない」というのが真理ならば、

「真理がひとつではない」というのが唯一の真理となるが、

そうすると

その「真理がひとつではない」という"ひとつの真理"しか認めないということになる。

そうすると、「真理はひとつではない」しかも同時に「真理がひとつである」ということとなり、矛盾する。

ゆえに、真理はひとつである。


また、次のようにも言える。

2021年10月17日日曜日

どんなときにも問う。それであなたは幸せか

 「何かがおかしいと疑問に思う。問いが溢れてがんじがらめになる。それであなたは幸せか。そうでなければ今すぐ問うことをやめろ」

そう言う人がいた。


みな、それぞれ問いや悩みに苦しんでいる。

「どうして私は評価されないのか」

「どうしてあの人があの待遇なのか」

「どうして人とうまくやっていけないのか」

「どうしてあのような不幸が起きたのか」

「どうして世の中が理不尽なのか」

あなたは悩みすぎて、もう悩みたくないと思うかもしれない。

思考停止を願い、何も考えず酔生夢死したいなど思う人がいてもおかしくはない。


だが、それは違う!と私は思う。




哲学者ミルはこう言った。

「私は、満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。


それはこういうことだ。


あなたが引っかかってしまったその問いに、悩み、考え、全身全霊で向かい合う。

そのほうがどれほど人生を豊かにすることか。


確かに、あなたはその問いに直面するより、気になってしまう問題を問わずに、無視してしまえば楽であり、忘れてしまえば幸福である。


しかし、本当にそれでいいのだろうか?


例えば、地球温暖化なんてそんなこと、考えずに生きたほうが楽に決まっている。

例えば、政治だって、そんな難しいこと考えずに生きたほうが楽に決まっている。

例えば、会社にこき使われていても、それをどうにかするよりも、何も考えずに受け入れてしまったほうが楽に決まっている。


だが、本当にそれでいいのだろうか?

「悩みが深いほど、世界は美しくみえるかもしれない」


問題を問うとは、単に頭でその問題を転がして遊ぶというだけではない。


その問いを生きる、ということなのだ。


私たちはそうした問いを投げかけてくるこの世界にすでに投げ入れられてしまっていたんだ。


最初は、地球温暖化について本読んで頭で転がすだけでいい。だが、本当にその問題を生きるには実際にその問題の解決に当たらなくてはならない。


そのとき、その問題を身体で生きることになる。


確かに、それは大変だ。


例えば

「誰にも評価されない」

そんなことを悩んでいるとする。

頭でその問題を巡らす。焦る。どうしたらいいのかと考える。


そのとき、実際にその問題を解決するために自分の身体を動かして対処する、ということを、少なくとも意識しているか?意識するだけでいい。


実際に、その解決のために現実を動かすことが難しくても、動かそうという意識を持っていたか?


だが、そのとき、問いは単なる頭の中だけのものではなくて、問いを生きていることになる。


そうして、実は、その問いを通して、自分自身と向き合っているとも言える。


「何をそう難しく考えているの?」

「考えないほうが楽に生きれるよ」

「若いねぇ」

「世の中、甘くないよ」

などと言って世間はあなたの問いを思考を潰して何も考えない人間にしようとしてくることがある。

あなたはあなただけが気にしているかもしれないその問いを言われるままに潰してしまうかもしれない。そのほうが楽だから。


しかし、むしろ、あなたはその問いを守るべきなのである。


それはあなたの感受性に引っかかる問い、他ならぬあなただけの問いなのだから。


あなたが感じた世の中の理不尽をあなたなりに生きたほうが、それは苦しいことだろうし、現実には解決できないかもしれないが、それでも無視しないほうが良いと言える。


問いを生きるということは、幸せじゃないかもしれない。

その問いを持ってしまった自分自身をごまかさずに、生きる。

それは苦しいことかもしれない。

その問いを通して、あなたにとっての世の中の理不尽さに直面することかもしれない。

それで幸せかどうか?

幸せじゃなくてもいいじゃないか?

問いに向き合わずに誤魔化した脆い幸せを生きて、何も知らずに死んでいく。


そう、あなたはいずれ死んでしまう。100年先か、50年か、明日か。

何年生きようとも死んでしまう。

それは事実だ。


ただその事実を見据えるだけでも、すでに幸福とは言えないんじゃないか?


ということは幸福とはすべてまやかしなのではないか?


むしろ、あなた自身の問いを大切にし、育て、考え続けること。

あなたがあなたとして生まれてきたなら、それをすべきなんじゃないか??


なぜなら、あなた自身の固有の問いを生きることで、あなたはあなた自身に忠実でいられるから。


この世界にあなたはあなた自身として生まれたのだから。


どんなときにも問う「それであなたは本当に求めていることなのか?」と。そうでなければ、それはやめろ。



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追記:中島義道の哲学は私の中に深く刺さっており、その影響下にあるため、読んだことのある方は、この記事を彼と同じことを言っているように感じられると思います。

2021年9月25日土曜日

仕事workと労働laborの違いは何か? ~何かするならクリエイティブなことをしたいのでは?~

仕事というのは、英語ではworkと言われる。


英語ではworkは他に「(芸術)作品」を意味している。

つまりは、仕事とは創造である。

ロックの影と言われるヴェルヴェットアンダーグラウンドのかつてのメンバー、ルー・リードとジョン・ケイルが出したウォーホル追悼のアルバム「ソングスフォードレラ」に"work"という曲があるが、ウォーホルの作品制作とそれによる仕事のふたつの意味を指している。

workという考えを持って、諸企業はこぞってイノベーションを繰り返し目指し創造的なことを成し遂げようとする。
スティーブ・ジョブズの製品への熱いこだわりのような。

そこには、全体として進んでいくべきビジョンがある。

企業理念なんかがそれにあたるのだろう。

その理念へ向けて会社全体が動いていく。

社会を創造していく。

そういう目的論的なものなのだ。


一方で、これに対する概念としては労働laborが挙げられる。

laborとは従事すること。

つまりはある指示や作業に従うこと、服従することである。

ちなみに、このlaborという語チェコ語ではrobita(強制労働)といい、文字通り、robotの語源である。

チェコのチャペックという作家の描いた最初のロボット小説の通りである。ロボットとは最初から主人に服従するものとして確立していたのである。



マルクスはこの仕事と労働の違いを見抜いていた…らしい。

2021年9月20日月曜日

自我論を端的にまとめました。

「私とは何か」カントとヘーゲルのエッセンスから考える。


これはカントが考えていたことなのですが、


(目の前に現れる知覚されるものや感じるもの、


肉体的であれ心的であれ記憶であれ、という)現象に


(言葉や記号といった)概念や


(時空間上に位置付けていく)直観を


結びつけるものがあり、


それは統覚と呼ばれています。

この統覚こそが根源的な私ではないかという議論があり、


実際のところ、

統覚の権利として

表象を様々に結びつけたのちに、

「と私は思う」という一文を付与することが可能になっています。


しかしながら、

カント自身はこの統覚を安易に「(本物の)私」などと呼ぶことに慎重になっており、

むしろ、この統覚が私と私でないものを経験的に区別していくことで

経験的な「私」というものが立ち現れる。

そのように考えています。



そして、その立ち現れ方は、

(これはヘーゲルや心理学からヒントを得ていることですが)

他人との出会いによってです。

例を出して、考えていくと、

ある人は「痛い」と言ってのたうち回っている。

しかし、「痛み」の現象が全く知覚されていない。

しかし、その痛がる姿に、かつて痛かった時の記憶を想起させるなにがしかがある。

それゆえ、この人は私ではない存在、他人である。


「今、私は痛くないが、その私に多少なりとも似たふるまいをする他人は痛いのだろう」


そのことによって、無意識に他人を確定しており、他人でないものを私と言っている。


というようなことを無意識的に規定してしまっている世界に生きているのです。


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2021年9月19日日曜日

孤独から世界を超えるところまで

~~~~~~~~~~~~

「ねえ、つれて行って。私も」 

「だめだったら」

 少年は怒ったような声色だった。

「海は、二人でたのしみに出かける場所じゃない。人間が、一人きりでぶつかりに行く相手なんだ」 

「私よりも、海のほうが好きなの?」 

少年はいらだち、神経質に眉をよせた。 

「君といっしょにいると、僕は、ときどきもう一人の自分が、ひどく遠いところに置き去りにされているような気分になる。

僕は、そのもう一人の自分を取り戻すために海へ行くんだ。

・・・海は、人間を本当の一人きりにしてくれる場所だからね」 

「どうして一人きりになりたがるの?」

「女にはわからないさ」 

少年はきびしい顔で答え、ふいに白い歯を光らせて笑いかけた。そして、いった。

「君を好きだよ」 

スナイプはすでに岸を離れていた。



~~~『朝のヨット』山川方夫『夏の葬列』集英社から~~~


孤独哲学


私は一人そこにいた。

私は孤独を感じた。

私はただ漠然と孤独を感じた。

私は一人考え始めた。


孤独とは何だろうか。

孤独... こうしてただ一人でいること。


大抵の場合、ここで、孤独とは何かという問いは終り、孤独になると何を感じるか、あるいはなぜ孤独に感じるのかという問いにすりかわる。

というのも、これ以上どうやって問うたらいいのか、そもそもそれ以上追及することになんの意味があるのか分からないからだ。


そうして、人はただ孤独感を晴らそうとする。

だが、私はこのまま孤独とは何かを問いつづけよう。

孤独の定義内容つまり孤独とは何かが分からないというのであれば、孤独ではないということがいかなることかを考えればよいのだ。

では、孤独ではないとは、どういうことだろうか。

それは誰かといるということであろう。


誰かと居るとは、ただ同一の空間に2人の人がいるということではない。


想像してみよう。

たくさんの人通り、誰も私を振り返ることも無く、それぞれがそれぞれ別々の目的に向かって歩いている。

誰も振り返ることも無く、ましてや話しかけることもなく…。

たとえたくさんの人がまわりにいたとしても、その人とコミュニケーションを取っていないのであれば、彼は孤独だろう?


多くの人と、同一近接空間にいながらにして孤独であることを孤立という。


では、その人たちが彼とコミュニケーションを取っていたとしたらどうだろうか。

コミュニケーションを取っているならば、それは確かに孤独ではないと考えるかもしれない。が…、

例えば、両者の意見の食い違いにより、口論議論をしていたら、

それはあるコミュニケーションの成立状態にあるとは言えるが、

同じ意見をもつ同士のいない彼は孤独ではないだろうか。


では、同じ意見をもつ人間がいるならばどうだろうか。

その人は彼を承認してくれ賞賛してくれる。

確かにそれならば、孤独ではないと言われる。


が、それでも孤独である場合は多々ある。

例えば、著名な作家、アーティストは、人々からしばし賛同を受け、彼を承認してくれる。

ところが、彼らは理解されていないと孤独を感じることが多い。


アーティストは、大衆は我々を理解していないと感じる。

私自身を理解できるのは、私自身であると感じる。

そのことによって孤独なのである。


ただ、これは、たとえ本人以上に彼のことを友人が理解していたとしても、彼が友人の自分への理解を予期していなければ、同じことである。

また、理解していたとしても、彼がその友人を理解していない、信用していない、あるいは、その友人に興味がなければ彼は孤独に感じる。

そもそものところこの孤独を感じる私とは何であろうか。

最後にどれほど以上の条件を満たしていたとしても、哲学的洞察によって、他の誰にも変わることのない「この私」の特殊性を自覚すれば、彼は孤独感を感じる。


以上の考察に共通するのは、彼が意識を自己に向けているということである。


これは意識が他者に差し向けられていないということ、ではない。

遠距離の彼女は、愛する人のことを、意識するほどに寂しさを感ずる、しかし、恋人はそれだけ自分のことをも意識しているので寂しさを感ずるのだ。


逆に、孤独であって良いという人もいる。

「俺はみんなに理解されたくはない。俺はみんなとは違う存在でいたいからだ。」

「俺はみんなとはあえて違うものを選ぶ」

などと主張する人がいる。


しかし、そういう人ほど月並みの凡人だったりするのだ。


実のところ、その主張自体が、世間で言われる「みんな違ってみんなよい」とか「個性を尊重しよう」とか「あなたは特別で唯一の存在」「みんなとはちょっと違った生き方をしよう」といったありきたりな文句に無意識に流されている可能性があるのだ。


そこからわかること、それは孤独とは、これはナルシシズムの可能性を秘めているということだ。


いや、むしろ、

ナルシシズムこそが孤独の根源、なのかもしれない。

ナルシシズムとは自己を愛することなのだが、正確には自己のイメージ、自己像を愛すること。

人は自己それ自身を見たり聞いたり愛したりすることはできない。


そもそも、自己それ自身が存立しているのかどうかも分からない。


だが、創り上げられた自己像、生まれた自己イメージは、自己に関する過去の断片と感じることを集めて「私」という概念にまとめあげた像のこと。


「私とは何か」などと問うとき、人はナイーブにこうした自己像に頼りがちだが、実際は、私が持っているある感じとして、断片的なものがあるだけである。


私というものは、

特に、鏡に映して、あるいは他人という鏡に映してはじめて存在せしめるものなのです。

ゆえに、精神分析医ラカンが言うように本当は鏡像のようなものに過ぎない。


それは他者像に似せて作られた像なのだ。


そうした自己像と他者像、その間の感覚的な距離がさみしさの発生源かもしれない。


しかし、ここで次のように問えると気付くだろう。

すなわち、はたして寂しさと孤独とは同じものなのかと。

寂しさと孤独とは異なる。

恋人を待つ少女は寂しくはあるかもしれないが孤独ではないはずだ。

その少女が孤独になるとき、それは恋人が結局連絡なしにとうとう来なかったときである。


孤独とは、私の居場所の確定とその外部への私の意識で生じる。

私の居場所とは文字通り私が居る場所のことである。

それは私の世界とでもいえるだろうか。

私の力の及ぶ同一性の及んでいる世界である。

私の意識と認識の及ぶ世界である。

私が「こうである」と思いこんでいる世界である。


あの人はこう思っているに違いないとか、普通こういうときはこうするものだという推察や推測から、

ここは夢ではないとか、ここには酸素があるとか、私は生きているとか、物理的な力が働いているといった当たり前だという感じがかなり強いものまで含めて、

私は「これこれのことはこうである」と思っている。

その世界のことだ。


「だれもが自分の視野の限界を世界の限界だと思っている。」ショーペンハウアー


レヴィナスはこれを「totalité(全体性)」と呼んだ。


ではその外部とはなんだろうか? 

想定外の世界という可能性を多分に含んだ領域である。

その想定外の可能性とは、

起こるとは思えないほどの大きな地震が起きたり、信じきっていた人が裏切ったり、こうだろうと思いこんでいた街角から自転車が突っ込んできて事故したり、思わぬ憧れの人から告白されたり、末期ガンが奇蹟的に治ったり、

死人が生き返ったり、未開の地の奇妙な風習の民族とであったり、未知なる惑星の思いがけない不思議な現象を見たり、究極的には、数学や物理学、論理学さえもが私が知っていることが通用しない世界に至るまで。

しかし、そんなことを今、可能性として、当たり前の想定になってしまったり、あるいは出会って知ってしまうと、想定外の世界は、今後想定内となり、全体性へと帰す。

しかしまた、新たな想定外に出会うだろう。

それは限りがない。

レヴィナスはこうした運動性を「infinite(無限)」と呼んだ。


孤独は(他人との)無限という関係において生まれる。


常に、相手の意外なところを知り続ける、しかし、常にまだ、知らない一面も生産され続ける。

相手のことを知って、この人ってこういう人だよねという了解のもとで生きる。

しかしまた、それは覆される。


それを肯定的に捉えられるか?


肯定的に捉える精神は新たな一面をおもしろいと思う好奇心。

一方、否定的に捉える精神は、壁である。

相手のことに永遠にたどり着けないという絶望、それが孤独に通じる。


それは相手をすべて知りたい、という飽くなき欲望に基づいている。


そしてまた、人は常にすべての人を意識しつつ生きているわけではない。


恋人を待つ少女は、恋人がやってきつつあるという世界を生きている。

しかし、とうとう恋人が来なかったとき、その連絡なき恋人がどうしているのかわからないという不安な状態にあって、その恋人の世界と、少女の世界とが分断されてしまっているのだ。


そのとき、彼女は想定外の可能性の世界に向けて、その真っ只中にいるのだ。


こんなとき、自分の世界を超えた外部へと意識が差し向けられやすくある、のではないだろうか?




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2021年9月18日土曜日

不可知論とカント

 18世紀、カントという大哲学者がいた。



彼の残した世界一難しいと言われる本「純粋理性批判」

この話をしたい。


そもそもこれは何を述べた本なのか?


タイトルから察するに純粋理性を批判する本なのだろうという。


その通りである。

カントは批判を吟味するぐらいの意味で使っているので、

純粋理性を吟味した本と言える。


我々は理性を使ってさまざまな事柄を認識している。

眼の前にパソコンの画面やスマホの画面があるということが分かるのも、計算ができるのも、持っている物を離すと落ちることを知っているのも、すべて理性である。

(正確には、カントは目の前の現象に妥当させる理性を悟性と呼んで区別はしているが)


そして、カントはこの理性の能力がどこまで適応できるかということの限界を見極めようとしたのである。


そうして、理性の能力の限界を超えてしまうがゆえに、判断不可能なものが三つあるということを結論した。

その三つが、魂の実体性、世界の限界、神の存在である。

ひとつめは理性は「魂は単純な実体として存在しており、それゆえに不死である」というような推理をしてしまうことである。

カントは、これを頭で考えるだけで結論付けようとする純粋理性の誤謬推理であるとして否定した。


二つめは、理性は

「世界(宇宙)の時空間的な広がりに限界はあるか」

「世界(宇宙)の物体は無限に分割可能か」

「世界(宇宙)に自由は可能か」

「世界(宇宙)に第一原因(世界で変化が起きるためのそれ以上遡ることのできない最初の原因)は存在するか」

という四つの命題について判断できない、というものである。

「そうである」とも、「そうではない」とも結論付けることができてしまうのである。

これを純粋理性の二律背反という。


最後に神は存在証明についてである。

神の存在証明について多くの神学者(スコラ哲学者)や哲学者が取り組んできたが、それらのすべては存在が理性によって証明できたからと言って実在すると結論するということはできないというものである。


判断不可能であるというのは、知ることができないということなのである。

こうして、カントは、神や魂や世界の限界に対する不可知論の立場を不可知論という言葉がない時代に明確に打ち出したのだ。

(不可知論という言葉は、ダーウィンの進化論を擁護する生物学者トマス・ヘンリ・ハクスリーによって提唱されたとされる)


そして、これら三つのものの本当の姿を物自体と呼んでいた。

しかし、物自体はあるということの意味は、

神と魂と世界の限界はあるということでは全然無く、本当は、

神の存在はいるかいないかのどちらかであり、

魂は実体であるか属性であるかのどちらかであり、

世界の限界はあるかないかのどちらかである、

というようなことで、どちらかは不可知だが、どちらかとして存在するはずであるという意味なのである。

そうでなく、物自体が存在するということを例えば無限分割は不可能であり、最小の実体が存在するとかいう意味なのであれば、カントが執拗なまでに理性による認識はできず判断不可能であることを主張したことを自ら無駄にしているという矛盾に陥る。


では、自然科学においてカントの問題は解決されたか?

これについてはまたのちのブログにて書きます。


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「多様性」という概念のあいまいさと危険性

「多様性」についてある哲学カフェで論じられていた。

しかし、なんだか、参加者が「多様性」について、ピンときていない感じがあった。

なぜなら、そこには明確な問いがなかったからだろう。

多様性と言う概念の周りをうろついている感じであった。

公開するものとしては、予習がなされていないようだったが、そういううろつきでも得られるものがあるのだろう。


だが、

それを見て、私は物足りなさを感じた。

それをきっかけにした私の欲は、もっと深く「多様性」について掘り下げること。


そもそも問題は何だろうか?


問題を明確にしたい。

そのために、もう少し深く「多様性」の周りをうろついてみたい。

2021年9月17日金曜日

歴史には法則性があるのか、それとも偶然の積み重ねにすぎないのか?という誤った問い

 歴史には法則性があるのか、それとも偶然の積み重ねにすぎないのか?


この問い、問いそのものが世界を単純化し過ぎている。

私はそう感じてしまう。

(問いかけを一般化することに関してはこちらのブログ記事でも指摘したことがあります。)


歴史は、というかあらゆる物事には、法則性があって、かつ、偶然の積み重ねである場合が多いんじゃないのか?

問題なのは、もっと具体的な話で、どこまで法則が適応していて、どこからが偶然なのか、だろう。


例えば、「ナチスによるホロコーストのようなユダヤ人の大量収容と大量虐殺が起こる原因は何か」、という問いかけであれば、それがどういった点においては法則性によるのか、そして、どういった点においては今回のみしか起き得ない偶然的な事柄だったのかを調べていくことが有益になるだろう。


歴史そのものに対して法則性を見出す。


いったい誰が何によって法則性を見出すのか?

2021年9月16日木曜日

「攻殻機動隊」とソクラテスのダイモーン、埴谷雄高の死霊、そして、ハイデガーの良心の呼び声

攻殻機動隊ゴースト・イン・ザ・シェルとソクラテスのダイモーンについて話してみたいと思います。


① ゴーストとは何か?攻殻機動隊

SF「攻殻機動隊ゴースト・イン・ザ・シェル」とは、身体を脳に至るまでサイボーグ化でき、そして、脳から直接にインターネットに接続できるような世界でのお話で、マトリックスにも影響を与えたとも言われています。



この副題である「ゴースト・イン・ザ・シェル」とはどういう意味でしょうか?

日本語訳すると「貝の中の幽霊」とでも言いましょうか?

この作品で主人公素子が放つセリフに「そう囁くのよ、私のゴーストが」というセリフがあります。これは素子が自分自身の「こうだ」という無根拠の確信を自覚するときに使われるセリフです。直感を信じるみたいな。

ゴーストとはなんでしょうか?幽霊と訳されることがありますが、幽霊とは肉体から離れた魂、つまり、肉体とは区別される魂、精神という意味でもあります。


つまりそれは自分自身の魂のようなものです。




② ダイモーン(神霊)とは何か?ソクラテス

続いて、古代ギリシャの哲学者ソクラテスのダイモーンについて話します。


ソクラテスはダイモーンによって若者たちをたぶらかした罪で死刑になりました。

私はこのソクラテスのダイモーンと攻殻機動隊のゴーストとが同じなのではないか?そう私に囁きます、私のゴーストが。


ソクラテスは友人たちに「ソクラテスは無罪なのだから脱獄すべきだ」と言われます。しかし、ソクラテスは友人に反論し、この国の仕組みである裁判によって決定したことなのだから、それには従うべきだということを主張します。ここから「悪法も法なり」という言葉が生まれるのですが。


ソクラテスは、国家というダイモーンが私に語りかけてくるという仕方で話をします。

国家のダイモーンが、この国家の恩恵をあなたは受けてきたし、この国家の裁判の仕組みをあなたはあらかじめ批判していたわけではなかった。今更都合が悪くなったからと言って、国家の仕組みを無視して裏切ることはおまえにとっての正しさなのかと。


国家とはポリスであり。みなさんは制度や政府というイメージがありますが、ここで、ポリスとは人と人との共同体のようなものをイメージするとよいでしょう。


あるいは別の著作では、ソクラテスは巫女とギリシャ神話のエロース(ローマ神話でのキューピット)について話をしているのですが、その中でダイモーンとは美でも真でも善でもないということを言います。エロースは愛の神霊なので、人を愛させる力がある。しかし、エロースという愛の神霊そのものは美しいはずがない。エロースそのものが美しいならば、美を自分で持っているので、美しいものを目指さないからだ。

そうではない。神と人との中間にある仲介者のようなものだ。ということなのです。


ちなみに、ダイモーンという概念は後にキリスト教によって邪神扱いされ、悪魔を意味するデーモンという言葉になりました。


さて、攻殻機動隊ではゴーストとは私の魂のようなものであることがわかり、

ソクラテスのダイモーンとは神と人との仲介者であって何かを私に語りかけるものであることがわかりました。




③ 自我から自我を取り去ると残るのは何か?埴谷雄高

ところで、埴谷雄高という日本の作家が「死霊」という作品の中で興味深いことを書いています。

Ich + Ich = Ich

Ich - Ich = Daemon


Daemonとは、デーモン/ダイモーンのことで、Ich(イッヒ)とは「私」「自我」という意味である。

例えば(私は「私が今存在していること」を考える)とき、「」かぎかっこ内の存在する主語の【私】と()まるかっこ内の考える主語の【私】とは文法上、あるいは時間的にズレているために区別されている。しかし、その2つの【私】は根源的には同じものであることを理解している。

昨日まで、奥さんと子供がいるというニセの記憶を信じていた私と、それがニセの記憶だと知って絶望している独身男の私とが同じであるということを知っているから絶望するのだ。


その意味で、そうした様々な私をいくら足してもそれはすべてがひとつの私なのである。


では、「私」から「私」を取り去るとどうなるのか?


私から私を取り去ることなどできない。

しかし、「私」とは、ワタシという言葉に集約される様々な表象(現れ)のことである。

「私が考える」「私は痛い」などと言うが正確には、『「考え」がある』、『「痛み」がある』のであって、それらの知覚を束ねている「私」など、どこにもない。

しかし、そんな私に集約される様々なものを取り除いたあとに残るものが「私」という言葉に集約されているのにも関わらず(全く他人のようなという意味で)「私」でないもの。それがダイモーンなのである。




④ 良心の呼び声は何と言っているのか?ハイデガー

20世紀最大の哲学者と呼ばれる大哲学者ハイデガー。

彼は、「存在」について考え続けた哲学者で、

主著「存在と時間」を残しています。


そのハイデガーの哲学に、「良心の呼び声」という言葉があります。

これがダイモーン、そして、私に囁くゴーストに近いものではないだろうか?


ハイデガーはその著「存在と時間」において、人間がすぐに世間の風潮や流行、噂話や視線に流されて自分自身を失ってしまうことに注目していました。

「私」(ハイデガーの用語で現存在)はいつも世間に流される世人(ダスマン)になってしまっている。

そこで、私自身を見つめ直して本来の自分の在り方を見出すことが必要になってきます。

そこで良心の呼び声が重要になってきます。


この良心の特徴をハイデガーに即して列挙してみます。

・良心は現象ではなく在り方のうちにあり示される。

・良心は呼び声として露わにする。

・音声を発して知らせることが本質的ではない。

・良心は開示する。

・呼び声は、騒がしくなく、あいまいでなく、好奇心に依ることなく、呼ばずにはいられない。このようにして、呼びながら了解させるものが良心

・良心は、ひとりいつでも沈黙するという様態で語っています。

・呼び声は、何ごとも言表せず、世界の出来事になんらの情報も与えず、何も物語るものをもたないのです。

・呼び声は現存在自身に無を呼びかける。

・何ものも呼びつけられずにむしろ自己は自分自身へと、すなわちその最も自己的な存在了解へと呼びおこされている。

岡本太郎である前に人間だ。本来的な自己はよくちまたで言われる個性なんてものじゃない。

・自己へと人は呼びかけられるのです。

・現存在は良心のうちで、自分自身を呼ぶのです。

・負い目を持っている。

・その喚び声は黙するという不気味な様態で話す。


そういうものらしいのです。

つまり、良心の呼び声とは、不安にさせるような内容のない沈黙のようなものです。


友人が分かりやすい喩えを示してくれたのでここで紹介します。

例えば、あなたが引きこもりだったり不登校だったり鬱病で休職していたりするとする。

毎日、ふとんを被って、こう思うかもしれない。

「このままでいいや」

あるいはあるときはふとんから顔を出してこう思うかもしれない。

「このままじゃだめだ」


このとき、私は良心の呼び声はこう語っているのかもしれないのです。

「あなたはそれで本当にいいのか??」


これは「あなたはそれで本当にいいのか」という声が聞こえてくるわけではありません。

巫女や神託が有効であったソクラテスの時代にはありえたかもしれませんがw


そうではないが、しかし、私はこの声なき声を明瞭に理解するのです。


なんとなくわかります??



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2021年11月28日(日)15:00〜哲学会

「エロティックorプラトニック? 禁断の恋愛哲学」

気になるけれど、なかなか学ぶ機会がない恋愛哲学。

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2022年1月23日(日)15:00~哲学会

正義・恐怖・狂気 フーコーの哲学で見るバットマン

貴方はバットマンのテーマを知っていますか?

実は少しだけ恐ろしい!?

そんなバットマンを哲学的に見ていきましょう。


講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付



追記2022年8月

実は、スヴェンブロが、ソクラテスのダイモーンを近代的な内面の良心の声であると指摘していたらしい。

Svenbro, Jesper. “アルカイック期と古典期のギリシャ――黙読の発明”. 片山英男訳. 読むことの歴史 ヨー ロッパ読書史. Chartier, Roger; Cavallo, Guglielmo. 大修館書店, 2000, p. 33-73. 原著Histoire de la Lecture dans le Monde Occidental. Les Editions du Seuil, 1997. 

2021年9月15日水曜日

安部火韻によるお勧めの深い映画

 お勧めの洋画


『ストーカー』(タルコフスキー監督のロシア映画)宗教?哲学的な映画。苦悩する文学作家、大学教授(科学者)、道案内人の三人が話しつつ奇跡が起きると言われる聖域へと赴く物語。静かな映画で眠くなるかもしれません。


『ある結婚の風景』(ベルイマン監督のスウェーデン映画)ある恵まれた夫婦の情景を通して愛を描いた作品。元は連続ドラマだったようだ。


『子供の情景』(イラン映画)強い意思をもって生きようとする子供を通して戦争など人間社会の本質を描く。かわいい少女が困難に立ち向かう姿が痛々しい。原題の直訳に近い別題「ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた」



『メメント』(「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督作、ジョナサン・ノーラン原作)五分で記憶を失う男が妻を殺した男を追う話。すぐに記憶を失ってしまうとしたら、どうするのか?メモを取ったり、身体に書くことでそれを記憶として生きている男。記憶というものの本質に迫る。他の作品「ダークナイト」「インセプション」「プレステージ」もお勧め。ノーラン兄弟は「時間」「記憶」というものをテーマに哲学的なメッセージを込めて作品を描くことが多い。「メメント」を見ると、「インセプション」はこの「メメント」のメッセージをさらにエンタメ化したものにも見えてくる。



『ドッグヴィル』(「ダンサーインザダーク」のラースフォントリアー監督作)犬畜生の町ドッグヴィルにある女が迷い込んだ。犬畜生というものはどう扱うべきか?歩み寄る優しい神と救いようのない人間とのどうしようもない関係を象徴、いや、嘲笑している映画。ニコール・キッドマン主演。自由・平等・権利といった理念をとことん嘲笑した続編「マンダレイ」もお勧め。見た後、後味最悪なブラック映画です。



『嗤う分身』(ドストエフスキー原作)シュールでおもしろいドッペルゲンガー映画。カフカの小説のような不条理さがにじみ出ている。




『ステイ』映像の切り替えが凝っており、それを見るだけも価値あり。日常が少しずつシュールな狂気へと堕ちていく様子が描かれる。映像のさまざまなところに何度も繰り返し映されるさまざまな断片イメージ。




お勧めの邦画



『ヒミズ』(園子温監督作、古谷実原作)苛烈に生きる、あるいは、苛烈に生きず死なず。園子温監督作の多くは苛烈な熱い情熱を作品から感じます。他の作品、リアルに映画を撮る映画『地獄でなぜ悪い』、宗教と愛の映画『愛のむきだし』、新しい家族の形を探る話『紀子の食卓』、性を通して映画をひっくり返す映画『アンチポルノ』もお勧め。



『鉄男』(塚本晋也監督作)誰も見たことのない映像にしびれます!必見!機械と人間とが奇妙に混合してしまった怪物、鉄男の誕生。




『攻殻機動隊 イノセンス』(押井守監督作、士郎正宗原作)『攻殻機動隊 ゴーストインザシェル』の続編。とても美しい映画。哲学的示唆に富んでいる。ロボットたちが起こした事件を通して、人間と人形との関係は何なのかを探っていく。




『空気人形』(業田良家原作)これは原作は業田良家の「ゴーダ哲学堂」という漫画短編集の1つから着想を得ています。もともとは数ページの短いマンガなのですが、それをさらに発展させて原作もいいのですがさらに素晴らしい映画に仕上がりました。

ストーリー: ある日、性欲処理の空気人形に意識が芽生え動き出して街に出る。そして、出会ったレンタルビデオ屋の店員に一目惚れしてしまう。

「わたしは心を持ってしまった‥。」

空気人形の恋は実るのだろうか‥

テーマ:  きっと誰もが誰かのための風なんだ。

哲学: 哲学的な答えというよりも、問いを投げかけるほうが多い映画でした。心とは何か。人と人とが関わるとはどういうことか。代用品というものの存在意義とは?そうした問いを静かに投げかけられます。




『ラジオの時間』(三谷幸喜監督作)コメディだが、舞台など何人もの人が絡んだ企画をして、自分の思うとおりにならないという経験をしたことがある人にとっては身に染みる映画。もともとは舞台だが、作者の実体験だろうか?






以上、安部火韻によるお勧めの映画でした。実のところ、まだまだたくさんありますがw


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2021年11月28日(日)15:00〜哲学会

「エロティックorプラトニック? 禁断の恋愛哲学」

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2022年1月23日(日)15:00~哲学会

正義・恐怖・狂気 フーコーの哲学で見るバットマン

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2021年9月14日火曜日

宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?

 宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?


これにどちらとも答えることもできない。

こういう問いは、どのように考えていくのが良いだろうか?


「宇宙という世界」を「自然法則」が創造したとすれば、「自然法則」は宇宙という世界以前に無ければならない。


これは奇妙なことである。


「宇宙という世界」とは何か?

一般に宇宙とはtime and spaceという。つまり、空間と時間の広がりである。

この「空間と時間の広がりそのもの」を自然法則は創造することができるのか?

そもそも空間時間の内に存在している物的な存在に対して働くのが自然法則である。


したがって、そもそも空間と時間の広がりが存在する以前に物的なあらゆる存在もありえず、そうするとそれらに対して働く自然法則は存在しえない。


続いて、「神の意思」について考えてみる。

2021年9月13日月曜日

世界は複雑だってことを理解しているか?

 世界は複雑なのだ。


しかし、人間はすぐに問題を単純化しようとしてしまう。


例えば、「読書か、人間関係か?」


すぐにこういう問いを発する。


どちらかに拘泥しなくとも、読書しつつ人間関係にも目を向けることだってできるし、読書の量を減らすことだってできるし、人間関係の中でも、自分にとって煩わしい人間関係だけを断ち切って、その隙間に読書を入れたり、あるいは新しい人間関係を築いたりすることだってできる。

2021年6月30日水曜日

映画「ある結婚の風景」のお気に入りの風景

「ある結婚の風景」というベルイマン監督の映画がある。

結婚10年の女性マリアンヌは離婚弁護士をしている。

ある日、仕事で初老の既婚女性と面接をする。
その初老の女性は20年寄り添ってきた夫と離婚したいのだが、生活に何か問題があるわけでもなく、夫が浮気をしているわけでもない。むしろ、生活の面ではうまくいっている。しかし、子供が独立したのを見計らってその女は離婚を申し出る。

夫は、「何が不満なんだ!」とわめき繰り返す。

女は、「この結婚は愛がないから」と答える。
夫が「愛とはなんだ?」と尋ねる。
女は、「愛がないのにとうやって説明できて?」

こんな調子だ。
「でも、私はまだ誰も愛したことはないけど自分には愛することができるはずだ」とマリアンヌに言う。
愛はないけど思いやりやお金や子供はある結婚生活。しかし、愛がないために、何十年も経つとしだいに、すべての感覚が虚ろってきてしまう。ものを触っても、感覚が鈍く、感じれなくなってきている。
そうマリアンヌに言う。

実はマリアンヌは前から疑問に思っていた。
愛?愛なんて必要あるの?結婚生活に必要なのは思いやりの心と慈しみとユーモアと寛容の心、相手へのほどよい期待、それがあれば愛は関係ない、と。そんなものにこだわるから、離婚してしまうんだと。

しかし、マリアンヌは、その女の話を聞いて、はっとする、「わかる気がする」

なぜかはわからないが、何かが足りない。なにか空虚な、あらゆる感覚がうつろって何も感じられなくなる。そんな感じがマリアンヌの家庭、夫婦間でも存在していたことに気がついてしまったのだ。

映画では、説明はここまでなされない。この弁護士は「わかります」という一言と表情だけで語る。
2つのシーンを取り上げてみよう。





2021年6月14日月曜日

自分自身の感情を見つめてみよう!?

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

僕は、最近、ある本を読んで、こんな一節が気になったので、書き留めてみました。





2021年6月6日日曜日

珈琲を通して世界を味わう…

朝から、じっくりとコーヒーを愉しんだ。最近のいろんなことを考え込みながら…


まず珈琲豆の袋を開けて匂いを嗅ぐ。
1. コーヒー豆を引いて、粉になっていく様を愉しむ。
お湯を沸かして、ゆっくりとドリップするときのコーヒー豆がお湯に膨らんで周りに匂いが漂うのを愉しむ。
特に最初に少し注いで蒸らすときのゆっくりした時間を。

2. カップに注いで、匂いを楽しみながらホットでブラックのまま飲んで見る。
次にミルクを注いで、カフェオレにして違いを楽しむ。
その次に、もう一杯注いで今度はウヰスキーを数滴垂らして、嗜む。
3. そうしているうちに、冷めてしまったコーヒーデカンタのコーヒーを今度は氷の入ったグラスに注いで飲む。
そうして、半分くらいまで飲んだアイスコーヒーに、ミルクを注いで、アイスカフェオレにしてまた愉しむ。

こんな感じだ。生まれてきたからには、世界をできるだけ徹底的に味わい、尽くしたい。
例えば、このコーヒーがあなたにとっての日常だったり、散歩だったり、絵画鑑賞だったりするわけで…
いろいろと苦しいことや辛いこともありますが、生きていることはいろんな仕方で世界と関わること。

あなたは世界を堪能できていますか?



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2021年5月11日火曜日

今月のオンライン哲学会のお知らせ

古書店にて定期的に開催しているオンライン哲学会のお知らせです。 2021年度は奇数月の第四週目の土曜日に開催します。 次回の開催予定は5/22(土)15:00~18:00となります。 さて、今回5月のテーマは「私とは何か」です。このテーマは自我論と言われ、さまざまな哲学者によっていろんなことが言われてきました。それを紹介していきます。 


今回もたくさん取り上げていきますが、おおまかに三人の哲学者をここで少し紹介します。

#ヴィトゲンシュタイン 「世界が私の世界であることはこの言語の限界が私の世界の限界を意味することのうちに示されている」#論理哲学論考 ヴィトゲンシュタインは「私」、ほかならぬたった一人だけの「この私」というものは言葉によって語りえないものと洞察しました。『ほかならぬたった一人だけの「この私」』という言葉はかえって誰にでも当てはまるからです。あなたにも私にも。

#カント 「認識が対象にしたがうのではなく、対象が我々の認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば形而上学の課題をうまく進められるのではなかろうか」#純粋理性批判 カントは「私」というものは世界の内にある何らかの魂のような実体であると断定できるものではなく、むしろこの世界そのものをひとつの現実世界として統一して成立させうるような何かであると洞察しました。

#ヘーゲル 「私は私だ」とは、単なる無意味な同語反復ではない。「私は私だ」という言葉の内には「おまえはおまえだ」ということが暗に含まれているのだ。他者の承認を求め、そのことによって成立する「私」とは何でしょうか? このヘーゲルの考え方はマルクス、フロイト、ニーチェにまで適応できます。実のところ、マルクス、フロイト、ニーチェもヘーゲル的な洞察から逃れることは難しくかえってヘーゲル的になってしまわざるをえないのです。

こうご期待!

日時:5/22(土)15:00~18:00 要予約
配信:ZOOMによるオンライン講座(書店での直接受講は限定五名)
受講料:二〇〇〇円
講師:安部火韻
配信元:#特殊書店ビブリオマニア
支払い方法:paypalなどオンライン決済
※ZOOMによる顔出しや本名は必須ではありません。
※事前にワード資料とZOOMアドレスをお送りしますので連絡先をお知らせください。
#哲学 #哲学カフェ #哲学書 #哲学好き

2021年2月1日月曜日

子も子だが、親も親だし、国も国。 ~同語反復トートロジーにより隠蔽されたもの~

 子も子だが、親も親だし、国も国。

面白くないですか?同語反復(トートロジー)にすぎないのに、それ以上のことを語っていますよね。
子「ゲーム買ってよ、友達みんな買ってたし」 親「うちはうち、よそはよそ。……ちょっと行儀悪くしないで。よそに行ったときに恥ずかしいでしょ」 子「うちはうち、よそはよそ。」
この例はよそとうちとをはっきり区別・分断してしまうことによって、無関係にしてしまう効果が表れている。
「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に」(聖書)も同じだろう。
しかし、「子も子だが、親も親だし、国も国。」では、むしろ、子も親も国もネガティブなものとして同列に置こうとしている。 これらのことがヘーゲル的に考えていくとわかってくる。 「A=A」とか「私は私だ」というのは明晰でわかりやすいがこれだけではなにも言っていない。
私は私であるが、しかし、私は非私(私でないもの)でもある。
どういうことか? 例えば、「私は教師である」と言うが、こどものころから教師だったわけではない。
つまり、その昔においては「私は教師ではない」しかし現在「私は教師である」
A=Aで考えていると、AはAでしかありえないので、私は私でしかありえず、「私は教師だ」ということは常に嘘になる。しかし、そうではない。私は私であると同時に私は私ではないもの、つまり教師でもあるということが可能なのだ。
逆に「私は私だ」と強く主張することで「私は私ではないそれ以外のすべてのもの、教師だとか」を否定することができる。
トートロジーは単に繰り返すだけでなく、繰り返すことによって強調されるのである。
「子も子だが、親も親だし、国も国。」の場合には、子と親と国とをネガティブなものとして同列に置いているが、その場合には、必ずポジティブなものが対立されているはずだろう。

それこそが「私(たち)こそは私(たち)だ」であろう。

要するに、子とか親とか国とかを私とは関係のない第三者的なものとして規定してしまうことによって、非難しているのである。

言語というものはとかくいろんなものを省略し、隠しているものなのである。

だからこそ、逆に露わにすることもできるのであるが。




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2022年1月23日(日)15:00~哲学会

正義・恐怖・狂気 フーコーの哲学で見るバットマン

貴方はバットマンのテーマを知っていますか?

実は少しだけ恐ろしい!?

そんなバットマンを哲学的に見ていきましょう。


講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付


2021年1月18日月曜日

ニーチェとフランケンシュタイン それからプロメテウス

 テーマ1: 怪物とは何か -どうして怪物は存在しないのか!?-

 

モンスターmonsterという言葉、元は「警告」を意味するmonereというラテン語から来ており、「何かしらの異兆による神々の警告を意味しています。フランケンシュタインでは、フランケンシュタインという男が何やら死体を繋ぎ合わせて人間に似てはいるが得体の知れない生命を創り出してしまいます。しかし「それ」には名前がありません。

果たして、名付けられぬ「それ」は一体なんなのか?

 ニーチェという哲学者がいます。

ニーチェとフランケンシュタインとは近いようでいて遠いところにあります。

「フランケンシュタイン」の原題には「現代のプロメテウス」という副題がついています。

2021年1月17日日曜日

「めんどくさい」と「退屈」という罠あるいは卓越した技術

この世界は本当に「めんどくさい」、そして本当に「退屈」だ。

そんな感覚に陥ったことはありますか?

 「めんどくさい」と「退屈」という同じようで相反するような感情がある。



動くのめんどくさいでも、動かないのは退屈。

2021年1月9日土曜日

団結することって重要なの??団結の失われた日本

なだいなだ著「神、この人間的なもの -宗教をめぐる精神科医の対話-」

今日はこんな本を読んでいました。
そうして、読みながらいろいろと考えていました。

例えば、
「どうしてマルクス主義はこんなにも世界に広がったのか。」
それはキリスト教と同じで人々が希望を見出したから。

他の要因を上げるなら、政治的運動とその戦略になってくるかもしれません。

しかしながら、思想的には少なくともコミュニティを重視したということがある感じがあります。

「プロレタリアートよ、団結せよ」

と、これはマルクスとエンゲルスの著「共産党宣言」の有名な標語です。

これについて内田樹が指摘していることだが、
資本主義の打倒うんぬんよりもまず団結を先に上げているのはなぜか?

それは団結こそが鍵だからだ。

と説明しています。どういうことなのか?

今日はこの団結が鍵であるということについてちょっとだけ考えてみようと思います。