2010年9月14日火曜日

ヒーローの在り方(ヒーローズを観て)

スパイダーマンは「大いなる力には大いなる責任が」という言葉に代表されるように友情や愛情や家族愛などの個人的な感情と正義との葛藤を描いている。
一方で最近見た「ヒーローズ(アメリカのテレビドラマシリーズ)」のヒーロー達は全く自分勝手だ。自分の個人的個別的感情や野望から動いている。ただし、善と悪の違いは悪は「一番になりたい」というエゴに基づき、善は「家族を守りたい」という家族愛に基づいている。その点からみれば、家族愛とエゴとの対立であるとも見られるが、ヒーローは家族愛よりも正義を優先しなければならないのではないのか?
その点で唯一ヒロだけがその正義の自覚をもっているように思われる。
ところでアメリカ映画は家族愛に基づくものが多い。恋愛映画でさえ、最後には家族愛につながってしまうようである。個人主義であるだけに、重要なのだろうか。日本ではその逆である。ただし、日本の方が家族愛を描くのがうまい。

無の存在

もし私が失踪したら・・
死んでいるのか生きているのかよく分からないという不安
死んでいるのか生きているのかを誰にも知られずにいなくなってしまうのは恐ろしい
失踪・・・。

恐怖小説を読んだ後にその絵を描く。
それも描くものは見ないで描く。
自分の背後に見えるはずのものを描く。
そこに何かが存在していると言う感じを描く。
その際、音楽は要らない。
気がまぎれるものは何も要らない。
得体のしれない何かを見つめ続ける恐怖。
得体のしれない何かから逃げない強さ。
死と闘う恐怖。
死を見つめ続ける恐怖。
恐れず立ち向かう恐怖。
静寂と闘う恐怖。
静寂の中に浸る。だが、緊張は解けるような状態ではない。
感覚を研ぎ澄まし、あらゆるものをその存在に結び付ける創造力。
そう、それはもともと存在しなかったかもしれないが、知覚することによって存在するのだ。
絵にかくことによって存在してしまうのだ。
描かなければよかったと思える絵を描こう。
背筋のぞくぞく感や違和感のある気分。
何かの存在を知覚すると言う感じ。
最初から孤独なはずがそれがいることでより孤独に。
圧迫感。
意識。
無意識。
感覚を研ぎ澄まそう。
見えないところに何かがいると言う感覚。
例えば、この机の下に・・・!
現れるまで、現れるまで、そこに居つづける何か。
音楽つけたら消せなくなってしまうじゃないか。
消したらいろんなものが聞こえそうで。
はっとした気配。それに気づいて振り向いてしまう。
振り向く前に隠れてしまうのに・・。
誰かに見られているという感じ。
ストーカー。わたしを気にする者。わたしを愛する者。わたしにとっては愛されたくないもの。
私に偶然ばったり会った時のMのあの驚いた表情。あれはやはり、僕に対して何か得体のしれないものに出くわした時のような感じがしたのかもしれない。
無いところに存在を感じる

蛇にピアス ―神はサディスト―

「俺は神の子かもしれない」
 無表情で、シュールギャグをかますシバさん。
「カミノコ?何かノコギリみたい」
「人間に命を与えるなんて、神は絶対サディストだ」
「マリア様はMだった?」
もちろん、シバさんは呟いてまたラックに向き直った。
金原ひとみ『蛇にピアス』p47

アマがアマデウスでシバさんが神の子なら私はただの一般人で構わない。ただ、とにかく陽の光の届かない、アンダーグラウンドの住人でいたい。子供の笑い声や愛のセレナーデが届かない場所はないのだろうか。
(中略)
私はアマの寝顔を眺めながらビールを飲んだ。私がシバさんとセックスした事を知ったらアマはあの薄汚い男にしたように、私をたこ殴りにするだろうか。どちらかと言えば、私はアマデウスより神の子に殺されたい。でもきっと、神の子は人を殺さない。p49

大丈夫、大丈夫だってば……。私は自分に言い聞かせた。舌ピをした。刺青が完成して、スプリットタンが完成したら、私はその時何を思うだろう。普通に生活していれば、恐らく一生変わらないはずの物を、自ら進んで変えるという事。それは神に背いているとも、自我を信じているともとれる。私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。きっと私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない。p80

全体の印象として主人公の女性であるルイが同棲しているスプリットタンの男アマに対して抱いている感情がだんだん観念的になっていき、アマの友人でルイのセフレであるシバに対する感情の方がリアルな気がする。ルイのアマに対しての感情はアンダーグラウンドな世界への憧れから、アマは自分の物という意識への変移かもしれないと思わせられる。もしそうなら、この話は彼女がアマへの不安定な感情を捨てて現実へ戻ろうとする話として読み解く事が出来る。

聖書で読み解くなら、この話はエデンの園から追放され、アンダーグラウンドの世界へといざなわれるという話にも解釈できる。蛇の舌をしたアマは蛇であり、シバは神の子であるアダムであり、ルイはもちろんイブである。アマがルイを誘惑し、シバに会わせ、ルイはシバを誘惑するのである。

「蛇にピアス」 ―所有―

 龍と麒麟は最後のかさぶたを作り、それも完全にはがれ、完璧に私の物となった。所有、というのはいい言葉だ。欲の多い私はすぐに物を所有したがる。でも所有と言うのは悲しい。手に入れるという事は、自分の物であるということが当たり前になるという事。手に入れる前の興奮や欲求はもうそこにはない。欲しくて欲しくて仕方なかった服やバッグも、買ってしまえば自分の物で、すぐにコレクションの一つに成り下がり、二、三度使って終わり、なんて事も珍しくない。結婚なんてのも、一人の人間を所有するという事になるのだろうか。事実、結婚しなくても長い事付き合っていると男は横暴になる。釣った魚に餌はやらない、って事だろうか。でも餌がなくなったら魚には死ぬか逃げるかの二択しかない。所有ってのは、案外厄介なものだ。でもやっぱり人は人間も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているんだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れることはない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。鏡に映して彼等の目のない顔を見ていると、安心する。こいつらは、目がないから飛んでいく事すら出来ない。金原ひとみ「蛇にピアス」p82

私は欠けた歯をかみ砕いて飲み込んだ。私の血肉になれ。何もかも私になればいい。何もかもが私に溶ければいい。アマだって、私に溶ければ良かったのに。私の中に入って私のことを愛せば良かったのに。そしたら、私はこんなに孤独を味わう事はなかったのに。私の事を大事だって言ったのに。何でアマは私を一人にするの。どうして。どーして。p101

私はリビングでビールを飲んで、あのアマがくれた愛の証を、また眺めた。私は物置になっている玄関脇の棚をあさってトンカチを手に取った。二本の歯をビニールとタオルにくるみ、トンカチで砕いた。ボス、ボス、という鈍い音が胸を震わせた。粉々になると、私はそれを口にふくんで、ビールで飲み干した。それはビールの味がした。アマの愛の証は、私の身体に溶け込み、私になった。p120

所有の究極の形である「私になった」とは自分の手で消してしまうこと。そして、それと同時にそれがほしいという感情が薄れていくのが常である。この作品を「所有する」と言うものさしで読むのもおもしろい。