2024年4月19日金曜日

宮本美代子球体関節人形造形展

 



昨日は、宮本美代子球体関節人形造形展に行ってきました。

以下、私の勝手な想像を綴ります。





人形の向こう側には何が見えるのか。


ギャラリーに入ると奇妙な妖怪たちが出迎えてくれる。





妖怪のようなこの人形たちは何かの動物ににているし、顔は三角で、脳が潰れてしまっている。



妖怪たちは、どこか戯けたような印象がある。

彼らは狂ってしまったのか。

彼らはもともと妖怪だったのだろうか?

一体、どうしてこんな妖怪が誕生してしまったのか?


次の人形を見る前に、もう少しだけよく見てみる…


よくよく見ると顔顔顔


2024年2月23日金曜日

1番数学的な要素を持つ哲学者は?

数学的な要素とは何か?ということが難しいですよね。 数学における業績で考えると、ライプニッツやデカルト、フレーゲ、ホワイトヘッド、ラッセル、ピタゴラスも??などを思い浮かべる人がいるかもしれない。 

前期ヴィトゲンシュタインは確かに書き方や内容としての論理式などが数学を思わせるのかもしれないし、数学の基礎論を扱ってはいるが、全体としては数学的な論証にはなっていない。
むしろ、自然数に関して見ると、直観主義であって、直観主義は数学的とはあまり言えない。 数学の基礎を扱っているというだけなら、フッサールだって入ってくるだろう。 

その点で、カントは確かに数学よりも自然科学一般を扱うし、形式的には数学的な叙述がないが、ヴィトゲンシュタインや直観主義者とは違い、無限を扱える。(つまり、直観主義者はカントを誤読しているように私には思える) カテゴリーにおける単一性(ひとつ)、数多性(いくつか)、全体性(すべて)という純粋悟性概念 ひとつから、いくつかへは簡単に行けるが、それらのすべてをまとめるという全体性が大事になってくる。 ひとつの自然数1. いくつかの自然数1.2.3.4 自然数の全体(1.2.3.4.5....) ただし、それが直観において適応できなければ、それが自然宇宙(というか自然科学)における現実とは言えないというだけで。 数学という学問内においては全然扱える。

 さて、これは数学においてどこまでを認めるかというところが争点になっているが、 今度は叙述の形式を見てみよう。 

前期ヴィトゲンシュタインの論考は実はそんなに数学的な形式を使っているとは言えない。 1〜7の命題があって、それぞれに註釈がついて、それぞれの註釈にさらなる註釈をつけるという叙述形式をとっているが、そのような数学的な叙述を私は見たことがないのである。 

数学ということから、デカルトの省察を思う人がいるかもしれない。 しかし、叙述の形式だけを見ればスピノザはダントツで数学的な形式を取っている。

 スピノザはデカルトを意識していたようだから、デカルトの不完全さを補おうとしていた感じがある。 そして、その叙述は幾何学における証明のように構成されている。内容から言えば、数学とは関係がないが、形式で言えば最も数学的な要素を持った哲学者と言えるのではないだろうか?

2024年2月16日金曜日

「猿の惑星」シリーズについて

 猿の惑星についての昔のメモが残っていたので、紹介します。


さて、猿の惑星シリーズを順に見ていこうと思います。


「猿の惑星」

口の聞ける猿が口の聞けない人間を家畜として扱っている惑星に来てしまった男の話。



「続 猿の惑星」

猿にも人種ならぬ猿種があり、また、口の聞けない人類とは別の人類の成れの果て、原爆を神として崇めるミュータントがおり、ミュータントと猿とが戦争する話。


人間の別の成れの果てであるミュータントは、核兵器を神と崇め奉りながら、平和を愛しますが、人間に対しては超能力で人間同士に殺し合いをさせて自滅させ、自分では手を下さないから平和主義だと言っており、米ソ冷戦の代理戦争に対してかなりの皮肉になっています。



「新 猿の惑星」

猿の惑星の話す3匹の猿は、過去へタイムワープし、猿の惑星と反転した人の惑星を知る。人類を恐れ、未来のことを隠す猿たちだったが、、



「猿の惑星 征服」

猿が奴隷化した時代、未来から来た話す猿のひとり息子シーザーは生き延びていた。こき使われる猿たちの中で、シーザーは立ち上がる。



「最後の猿の惑星」

猿と人類との戦争で、ついに核爆発で都市が壊滅してしまったら後、生き延びた人類と猿とは立場が逆転していた。だが、壊滅した都市には他にも生き延びたミュータント化しつつある人間もいた。


キラーエイプ仮説というものがあります。

人間とは、同種の生き物を殺すようになった「殺す猿(キラーエイプ)」であると。これは今では疑似科学だとして退けられていますが。


実は、古き猿の惑星シリーズの最後、「最後の猿の惑星」ではまさにこれがテーマとなっています。


この映画では、猿たちが革命によって人間を奴隷にして、猿たちの国を作る。そのときに猿たちは自分自身の存在をこう定義づけた。

「人間は人間を殺す」。しかし、「猿は猿を殺さない」

ところが、、というお話です。

2024年2月9日金曜日

孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか??

 べつに、彼の自殺が恐かったのではない。くどくどと思いつづけながら、突然、それとは無関係な、全身のひきしまるようなある理解がきた。そうだ。孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか。・・・そうして、ぼくはぼくの孤独だけを感じた。
 そのとき、やっとぼくに恐怖がきた。それは山口という一人の他人には無縁な、ぼくだけの恐怖だった。いわばぼく自身の生命を、最後までぼく一人の手で始末せねばならないという、冷厳で絶対的な人間のさだめへの恐怖だった。
『煙突』山川方夫『夏の葬列』集英社より


サルトルは正反対のことを言っていた。
むしろ、死は突然、何の前触れもなく、私から全てを奪う。
死は絶対的な他者である。
私が私の命の始末をする前に、私からすべてを取り去りうるのだ。

ところが、死が巧妙に隠蔽される現代においては、基本的には自分は国家によって生きながらえさせられるように思わされる。

2024年2月7日水曜日

人類の記憶力を衰えさせたのは文字!?

現代の対話篇〜

現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。中国の漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」


古代ギリシャ哲学者P「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」

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あなたは、何かを覚えておくためには書きとめておきなさいと言われたことがありますか?


2024年2月6日火曜日

神と芸術 ~アングライベント劇怖からif糸布展へ~




先日、劇怖という恐怖をテーマにしたアングライベントに出演しました。

愛知県瀬戸市のりんごスタジオで行われたイベントで、血で絵を描く呪術師のライブペイントや緊縛やゆる怪談師が出演するショーケーススタイルのイベントです。イベントそのものは四度目、私の出演は二度目でした。

今回、安部火韻(アベカイン)はユニット愛蘭珈琲(アイリッシュコーヒー)として出演しました。


愛蘭珈琲は、《神様の死あるいは変容》をテーマに午前はどちらかというと日本の、午後はどちらかというと西洋よりのパフォーマンスを行いました。


午前における愛蘭珈琲の演目は主に他称魔女であり怪談師でもある白山葵が怪談を中心に行い、午後は私、安部火韻が好きなフランケンシュタインやニーチェをモチーフに身体パフォーマンスを中心に行いました。

愛蘭珈琲は、互いに思い付いたものを投げ合いながら創っていくスタイルです。

ところで、先ほど神様の死と変容についての表現を行ったと話したが、それについて話してみたいと思う。

2024年2月5日月曜日

ストア派とエピクロス派の微妙だが、最大の差異

 確かにストア派と、エピクロス派はかなり似ている。

しかし、情念が無いこと(ア無+パトス情念)と、平静な心という精神的快楽(アタラクシア)に至ることとは微妙に異なる。

ストア派は、自然の理法たるロゴスに従うために、情念を滅する。ストア派にとっては、情念は、ロゴスに従うのを妨げる障害となっている。

エピクロス派は、例えば死への恐怖という情念を滅して動じない心に至るために、理性たるロゴスによって、原子論に至り、死によって動じない心に至る。

つまり、ストア派は情念を滅して、ロゴスに至ろうとし、

エピクロス派はロゴスによって、平静な心アタラクシア以外の情念を滅するに至る。

2024年2月2日金曜日

2種類の愛

 愛には、2種類あるかなって思っています。

「殺したいほど愛してる」という場合と、「愛してるからこそその人に触れることさえ許されない。傷つけてしまうから」という場合とがあって、


この2つの側面を含んでいるものが同じく「愛」という言葉で表現されているのがおもしろいなって思います。


前者は、「良いと思い、それを求める」

 好きの極大表現のような

後者は、「それを大切にしたい」

 慈しむ。相手を尊重する。というような。


関連ブログ

孤独

https://iranaiblog.blogspot.com/2021/09/blog-post_19.html

ロマンティック、プラトニック、エロティック

https://iranaiblog.blogspot.com/2022/06/blog-post_27.html

映画「ある結婚の風景」のお気に入りのシーン

https://iranaiblog.blogspot.com/2015/10/blog-post_12.html

2024年2月1日木曜日

主観的なものと客観的なものとを分けることは可能か?

 何かを考える時、

客観的に考えるより

主観を優先させる方がというより優先させないと

多分生きることは不可能

というのが個人の主観

と言った人がいる。


私はそれに対してこう返した。

何かを考える時

主観的に考えるより

客観を優先させる方がというより優先させないと

多分生きることは不可能

というのが客観的な事実


まあ、何の考えもなくただ逆転させてみました。


今のは単に逆転しただけだけれども、

大体、すべてを客観や主観にするのがよくわからないと思う。


主観にすべきところを主観にし、客観にすべきところを客観にするだけなんじゃないのかな。


自分が何をしたいのかを日本人男性一般が何を望んでいるかの統計で考えていたら、意味がわからないし、

逆に、自分の望みを叶える手段を自分の思い込みに従って客観的なデータに基づいてやらなければ叶わないだろうし。


「主観的」「客観的」の語法

よく主観と客観の二項対立の批判があるが、その批判点の一つに「主観と客観はそう簡単に別れるものではない、主観にも客観が、客観にも主観が混じっているではないか」というものがある。


カントにはそんなことはわかっていた。

だから、カントは主観的なものをある観点から見れば、客観的だが、別の観点から見たら主観的だと言ったりするのだ。

つまり、「大きい」とか「小さい」という概念と同じである。

大きいも小さいも相対的な概念である。

何かを基準にしたときに、大きいとか小さいとかが定まるのであって、別のものを基準にすれば、変わってしまう。

客観と主観も同じようなものなのである。

あるものを基準にすると、より主観に近い、より客観に近いという関係性があるだけで、基本的には相対的な概念なのである。

2024年1月31日水曜日

合理性、論理を論理的に。

 我々は合理性においてしか、物事を考えることができない。

思考することの根底に合理性が横たわっているからである。

従って、非合理性について思考するということは、単に主体の思考過程それ自身の自己点検を行うことではない。

非合理性が成立する理由を考えるということは、非合理性を合理的な理由によって説明することで立証することであり、

合理的な理由が立証された非合理性などはもはや、見かけだけの非合理性ということになろう。

従って、非合理性について考えることとは、非合理性など存在しないということを証明することなのである。


前提1.我思う

ゆえに

結論我あり


「我思う故に我あり」には「我思う」ならば「我あり」が論理的に正しく帰結するということが含まれていない。

だから、我思うからと言って我ありが帰結するのかどうか。

それが帰結するということをあらかじめ前提として認めなければ論理的に帰結しない。なので、


前提1.かりに我思うならば我あり

前提2.我思う

ゆえに

結論我あり


まだ足りないぞ。ここには{仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」に帰結する}ということが前提されていなければ、かりに「我思うならば我あり」かつ「我思う」からといって「我あり」と帰結することはできない。


前提1.仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」

前提2.仮に「我思うならば我あり。」ならば、「我あり」

前提3.実際に「我思う」

3つの前提ゆえに

結論:「我あり」


まだ足りないぞ……続く


何故何故思考で迷走するか、無我無我思考で瞑想するか

2024年1月29日月曜日

人間をモノとして扱う事の曖昧な領域 ~カント倫理学の限界~




モノ化について

人間をモノとして扱う事、モノ化。


「直感的にモノ化はだめっていうのは分かるけど、現実的にはモノ化は不可避だと思うんですよね」という指摘があった。

「同じモノ化でも、(女性が監督やプロデューサーや大物芸人などの立場の高い男性が)有用だから付き合うというのは許されても、(そうした立場の高い男性が女性を)モノとして献上される上納システムは批判される。

ここの道徳的な部分を話すのに、モノ化自体がだめというのは解像度が低いと感じてしまいました。」


確かにモノ化にも確かに程度がありそうである。

上下関係があって立場の低い相手に何かを命ずる時などは、相手をある意味ではモノとして、道具として、手段として、扱っている。

しかし、そうだとしても、モノのように乱暴に扱うのでは非難される。


命令するか、頼むか。

そのときに、役職で呼ぶか、名前で呼ぶか、「おい、雑魚」って呼ぶのか。

相手のミスを否定するのか、人格を否定するのか。

一部モノとして扱っているところがあるのだとしても、相手の人格を雑に扱うのか、あるいはある程度でも相手を尊重しながら扱うのか、という違いだろうか。


これをカントで考えてみる

2024年1月28日日曜日

誤読を恐れない勇気

 難解な本は「誤読を恐れない勇気」が必要かも。一旦、この《読み》で片付けてしまおう、と。


しかし、常に「私は誤読している」ということを意識する必要がある。読みが違ったなら修正を繰り返す必要があるからだ。

2024年1月27日土曜日

哲学を学びたい人へ




 アカデミックな教養として学ぶのならば、倫理の教科書など教科書的なものを読むのが良いでしょう。

また、倫理の教科書も順に読み進めるのもいいですが、読み飛ばしたり、パラパラめくってみて気になるところだけつまむ読み方というのもありかなと思います。

それで、読んでみて、気になったテーマや哲学者がいたら、その入門書を読む。

注:哲学の本は教科書とか入門とか書いてあっても、教科書でも入門でもない場合があります。


逆に、哲学史を概観するのではなく、実際に哲学的にいろいろなことを考えてみたいという感じであれば、


「翔太と猫のインサイトの夏休み: 哲学的諸問題へのいざない」永井均

「哲学の謎」野矢茂樹

「哲学の道場」中島義道

「哲学の教科書」中島義道

この辺りが私の個人的なおすすめです。

しかし、私に偏った勧めとは関係なく、書店でなんでも手に取って、パラパラめくり、肌に合うようなら、買って損はないかと思います。

興味はあっても、読んでみて、肌に合わないものは買わないでください。

哲学的な肌荒れしますw

(というかたぶん、読まれません)



そして、哲学書の原典を読みながら、哲学的な問題に取り組んでみたいと思われるならば、

初心者向けとしてはデカルトとプラトンをおすすめします。


「方法序説」「省察」デカルト

「ソクラテスの弁明」「饗宴」プラトン


デカルトはカウチに座ってひとりでじっくり考え込むタイプの哲学。

プラトンは、誰かとあって激論を交わしながら、考えていくタイプの哲学。


関連ブログ

哲学に向いている人の条件は何か?

https://iranaiblog.blogspot.com/2023/12/blog-post_21.html

2024年1月26日金曜日

道徳的であるとはいかなることか?(スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ、江川隆男)

 



  • はじめに

明日には現代思想ビッグクエスチョンにおけるひとつの記事「道徳的であるとはいかなることか」江川隆男の読書会がある。


いまのところ、全体は全く読んでいないが、ブルーノさんがあげてくれた2ページだけから読み解いてみる。

そのため、大いに誤読する可能性はあるだろうが、すべてを読んだとしても、全く読めてない人もあるということ、ポストモダン以降、すべてをつぶさに読んで壮大なお話、つまり、体系立てることの無意味さが露呈した今、こういう読み方もアリだろうと思うので、そうする。(2023/1/26/0:00ごろ)

と思ったが、書いている途中で、今回はどうしても気になって読んでしまった(笑) (2024/1/26/19:00ごろ修正と追記)


そして、たった今読書会が終わったので、論考を修正したい。(2024/1/27/23:30ごろこれから修正と追記予定)

2024年1月25日木曜日

安部火韻の哲学との出会いと読書術

哲学という知的活動は「飲む/打つ/買う」の代わりに「読む/書く/議論する」の3本によって成立しているらしい。

しかし、なかなかその3つの時間を取ることが難しいとも聞く。

私、安部火韻はどのように哲学と向き合っているのかを書こうと思う。



2024年1月15日月曜日

生産性がない無駄なものとは何か?

 「哲学などやっていても、生産性がない」

哲学の祖タレスは空を見上げて歩いていて、溝に落ち、街の人に笑われたとか。


哲学は、その最初から考えてばかりで生産性がないと見られていたのである。


しかしながら、タレスは溝に落ちたのではなく、天体観測のためにあえて、溝を掘って自分で入ったのではないかという説もあるようだ。


そうして、タレスは天体観測を通して、オリーブの収穫時期を予測し、オリーブ絞り機を買い占め、一儲けしたとか。


タレスは、今で言うデリバティブの祖でもあるのだ。





さて、今日のテーマは、生産性とは何か?


2024年1月1日月曜日

初日の出を見ながら、年明けについて考える。


 明けましておめでとうございます!

7:01すぎに日の出を見ました。


元旦を0:00に祝うっておかしいのではないか?


「明けまして」とは日の出を意味しているのではないだろうか?

もともとは、日没に年が終わり、日の出と共に新年が始まるというものなのではないだろうか?