2020年4月28日火曜日

神殺しの系譜 アダム、フランケンシュタイン、ロボット、ゲーテ、そしてニーチェ

インド映画「ロボット」では、次のような会話がなされる。
質問者「神は存在しますか?」
ロボット「神とは何ですか?」
質問者「創造者だ。」
ロボット「博士は私を創った。つまり、神は存在する。」

ロボットにとって創造者である博士は神なのである。

この映画の設定ならではの気の利いたジョークであるが、確かに、創ったという意味では創造者、すなわち神かもしれない。

≪神≫は<アダムとイヴ>を創った。
≪ビクター・フランケンシュタイン≫は<怪物>を創った。
≪人≫は<アンドロイド>を今創っている。


2020年4月22日水曜日

哲学の赤い靴





真実はないのだろうか?
真実はないのだろうか?
真実なんてないのだとしたら、
真実がないという真実ができてしまう。
真実がないという真実は、どうなるのだろうか?
これは真実という言葉の策略。
真実という言葉の罠に引っかかる。
言葉に踊らされて、思考させられているんだ。
言葉に踊らされて、思考させられといるという言葉にまた踊らされて、思考させられて、
哲学の赤い靴は永遠に脱げない。
誰かが足を切ってくれなければ、、
現実という誰かが、、




2020年4月18日土曜日

「人生は遊ぶ小児」と言うヘラクレイトス

「人生は遊ぶ小児、将棋遊びだ。王権は小児のもの。」ヘラクレイトス断片52
廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』p. 238

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスのこの言葉について考えたい。

まず、将棋って古代ギリシャにあるのかな。



ヴァティカン美術館に紀元前530年ごろエクセキアスによって制作されたというギリシャの壷アンフォラに描かれた「将棋をさすアキレウスとアイアス」という作品がある。おそらく、将棋のようなものはあったらしい。

https://shibuhon.at.webry.info/201606/article_1.html

2020年4月13日月曜日

で、それが何の役に立つの?

思想哲学文学芸術なぞ知って

で、それが何の役に立つの?
うんざりする質問。

で、それが何の役に立つの?
その質問はなんの役に立つのか?

で、それが何の役に立つの?
質問ではなく反語。

で、それが何の役に立つの?
すべては役に立つし、しかも、役に立つものなど何もないのに。

で、それが何の役に立つの?
何を言っても意味が通じないもどかしさ。

で、それが何の役に立つの?
じゃあ、役に立つとはどういうことなのか?一緒に考えてみよう。

いいです。もう応えなくて。
いいですよ。そもそも最初から、何も聞かなくて。

……??
……

2020年4月11日土曜日

ミュンヒハウゼントリレンマ

「物事を突き詰めた結果として自分の中で納得し、それだからこそ他人にこれが真理なのですよと主張したくなってしまうほどの理論」が"真理"だと私は思います。

いや、+α「物事を突き詰めた結果として自分の中で納得し、それだからこそ他人にこれが真理なのですよと主張したくなってしまうほどの理論」が"真理"だと私は思います。

ミュンヒハウゼントリレンマ、以前調べたことある言葉だが、忘れてしまったな。どういう話でしたか?
嘘つきの三つ巴みたいなやつだよね。

ウィキによるミュンヒハウゼントリレンマの説明

1、どんなものでも正しいといえるためには根拠が必要である。あるものAが正しいといえるにはその根拠Bが必要である。また根拠Bが正しいといえるにはその根拠Cが必要である。また根拠Cが正しいといえるにはその根拠Dが必要であると根拠を要求すれば無限に続くことになる(無限背進)のではないか

2、どこかで「原理」や「証明はなくても正しいとみなす」といったそれ以上根拠を問えないような理由(ナマの事実)を立てて1の連鎖を止める場合、その理由自体は正否が保障されないので確実ではない

3、もしA→B→C→D→…の連鎖がどこかでAに戻ってくるならば循環論法になり無効になる

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないということ?

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理はどうなんだろうか?この真理もまた無限背進・ナマの事実・循環論法に陥るのだろうか?

無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理を真理aとしよう。
さて、この真理aの正当性は無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できない。

故に、真理aは真理として確定できない。

ところで、真理aとは無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないという真理だった。

故に、無限背進・ナマの事実・循環論法のいずれかを認めなければ、それを真理として確定できないなどということもない。

しかし、そうすると、真理aの真理の確定方法は、、永遠に続く。

結論: この真理aについての証明そのものが無限背進による循環論法に陥っていることが示せた。

ミュンヒハウゼントリレンマを発見したハンスアルバートが「ミュンヒハウゼントリレンマ、これこそが真理だ!」と言ったとき、彼は何を基準にミュンヒハウゼントリレンマが真理だと思ったのかそれが気になる。

明示はできないが、ミュンヒハウゼントリレンマ自体が、循環論法に陥っていながらも、ミュンヒハウゼントリレンマが正しいと言うその地平にこそ、理性という得体のしれない判断力があるのだと思う。

カントも、ウィトゲンシュタインも、ゲーデルも似たような地平に立って、真理そのものについてこの訳のわからぬものをぐるぐる考え続けていた。感じがする。
こういうのは超越論哲学 "transzendentale Philosophie "と言われる。(ゲーデルはまたちょっと違うけど)


2020年4月9日木曜日

人とのコミュニケーションがうまくいかないとき、そして、ヘーゲル

私、他人、主観と客観
(カント、レヴィナス、ヘーゲル)

カントが考える客観性とは、時空間上における数値化されたものであり、かつ因果律によって説明のつくもののことであります。

つまり、理性を有している者であれば誰もが共有することのできるもの。

2020年4月3日金曜日

因果律についてカントさんに教えてもらいました。

どうも、カントです。
本日は私による因果関係について、アリストテレスさんとヒュームさん、そして、そこから導かれる自説を話します。
私が散歩に行く時間を忘れたのは、ルソーの「エミール」という本を読んだときでしたが、人生でルソーほどの衝撃だった本がもう一つありました。



2020年4月2日木曜日

カントさんが畏敬を抱く2つのものについて、本人にインタビューしてみた!

今回、安部火韻は哲学者で有名なカントさんにインタビューしてみました。ではどうぞ

どうもカントです。今日は、ルソーを読んでいて時間や通りに散歩に行けませんでした。私の散歩で時計を合わせていた方、ご迷惑をおかけします。


本日はですね。次の文章について解説しようかと思います。



こちらは、実践理性批判の結語にあたる部分で、よく引用されます。詩的だということで印象に残るようですね。

まあ、私もロマンチストな部分もあるのですよ。

書いたときは心地よくぶっ飛んでいました。