哲学という知的活動は「飲む/打つ/買う」の代わりに「読む/書く/議論する」の3本によって成立しているらしい。
しかし、なかなかその3つの時間を取ることが難しいとも聞く。
私、安部火韻はどのように哲学と向き合っているのかを書こうと思う。
哲学と出会う前
哲学を知る前、私は勉強が嫌いで、かなり苦手だった。特に数学と英語が苦手だった。
しかし、家庭において説教などのとき、うちの母は何事も明確に合理的な理由づけをしてくれるため、私は母との会話を通じて、思考が鍛えられたように思う。
だが、そうは言ってもいつも議論するわけでもないので、やはり勉強は苦手だった。
文を書くより絵を描くことが好きだったので、親に勧められて高校は美術科を選択した。
美術科のある県立高校に入るものの、美術以外の授業ももちろんある。
特記すべきは、
国語の現代文において、国語の村K先生は生徒にたくさんの文字を書かせ、考えさせる厳しい女性の教師だったということ。
配られたプリントいっぱいに自由にたくさん感想を書いたのを覚えている。
これによって、いろいろ考えたことを書くという知的活動を大いに愉しんだ覚えがある。
哲学との出会い
高校2年のときに高校倫理の授業を通して哲学と出会った。
高校倫理の加ト文先生は生徒に対して単に楽しく知識を教えるだけでなく、「どう思うか」意見を聞いたり、毎度、感想を書かせたりすることで生徒に自分で考えるきっかけを用意してくれる優しい男性の教師だった。
私は哲学を通じて、自然科学や数学、社会科学が繋がっていることを感じ、こうした知識を喜んでいる自分に気がついた。
こうして私は大学では哲学を学びたいと思い始めたのである。
高校時代から大学入学までに、永井均や中島義道を読み漁って、こんなことを考える人がいたのかと感動していた。
永井均を読んでいたことで、大学入学後に同じく永井均を読む人、哲学の話ができる親友を得た。
大学ではカント哲学を中心的に学び、ニーチェを暗唱したりなど楽しみ、他にはカントやハイデガー、ラカン、ヴィトゲンシュタインの読書会を他大学の院生や教授や助教授の方とも開いた。
そうして今に至る。
今、私は大学に行っているわけではないが、独学で学び、何年か前には古書店で哲学会と称して毎月講義をしていた。今もまた再度やってみようかと目論んではいる。
安部火韻 読書術
さて、そんな中で哲学に関する本を読むときはどのように読むのか一端を紹介しようと思う。
- 順番に読まない。
といっても順番に読んでしまうが。
とばしても、パラパラと目を通しても、ともかく、この本の自分にとって気になるところ、目的地を探す。
- 読破しない。
これを読了したという喜びよりも、何かしらヒントを得たという喜びを重視している。読了していないと、読んだ本も、まだ完全には読んでない本だが、読破すると完全に読んだと思い込む。そして、読破したことに満足して内容を忘れる。
- 本は地図
書棚は知の地図だと思う。記憶を手繰って、いつもあそこに置いてあるあの本のあの箇所を探し確かめる。
- 反復と反芻
できるなら、本は何度も何度も読み、書き写し、さらには暗唱し、反芻する。そうして完全に自分自身の血肉にする。
- 多読と精読
多読は精読ではないが、精読は多読を伴わなければならない。
読んでいる部分だけを読まない。理解のためなら、論文だの、関連本だのを参照しつつ、精読していく。
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