2023年10月9日月曜日

そもそも「この世界が仮想世界である。」とは、どういうことを意味しているのだろうか。

 そもそも「この世界が仮想世界である。」とは、どういうことを意味しているのだろうか。

仮想現実とは、「現実のように感じる仮想」、「現実性、現実感、realityを持った仮想」のことを指していると思われる。

仮想とは、実際には存在しない事物・現象を想定(想像)して、仮にあるものとして考えること。つまり、仮想とはsimulation を意味する。(ラテン語でsimulacrum は蜃気楼、像、偶像、幻影、幽霊、空想、模倣などの意味がある。)

他には例えば、仮想敵国は英語で、 hypothetical enemy であるが、 hypotheticalとは hypothere (仮説)

であり、古代ギリシャ語ὑπόθεσιςが語源である。また、仮説という意味の他、前提という意味もある。

仮にその言明を前提にして話を進めるのが仮説である。似ているという意味合いが強いsimulation よりも、 hypothesia の方が仮想の意味により合致しているかもしれない。

しかし、通例では、仮想現実とはバーチャルリアリティ( Virtual readity )の訳語である。 virtual とは元々は仮想という意味ではない。

その語源や意味を調べてみよう。

こちらは<ラテン語由来>である。

vir (一人前の男)

→virtus (男らしい強さ、力) 

⇒ virtue (男らしい徳、価値)

→virtualis (ある効果を生み出す能力がある) 15世紀ごろの意味

→virtual (実際上の事実上の)

ほんとうは違うけれども、本物とほとんど効力が

変わらないので、実際の目的には支障がない

→ virtual (仮想上の)

ほんとうは存在しないけれども、本物とほとんど

変わらない。

virtual reality とは、reality(現実性)において本物の現実とほとんど変わらないことを意味している。


リアリティreality(現実性)についても見ておこう

real→res (物体)+alis (的な)

「物的な」「物の性質がある」→架空でない。実在の


要するに

仮想現実とは、本物の現実とほとんど(少なくともある程度は)変わらないということを意味している。

つまり、本物の現実について知っている上で、判断できるのでなければ、その両者の差異がどのくらいなのか、何において似ているのかを判断することができず、virtual なのかどうかは分からないはずだ。


さて、仮想の意味をあれこれ確認したところで本題に立ち返る。

仮想現実が、本物の現実と似ていてほとんど変わらないことを意味しているのであれば、

「この世界が仮想世界であるかもしれない」と思う人もまた、何かを”真の現実”と呼んで、それとの比較において現実性が似ている、ということでなければ、仮想の意味そのものが失われてしまうだろう。

この世界が仮想世界であるならば、この世界の外に真の現実の世界がなくてはならない。しかも、その真の現実の世界に似せてこの世界が形作られているのでなければならない。

それはどういうことだろうか?

通常、私は五感を通じて、この世界をリアルなものとして生きている。

そして、テレビゲームや動画を通じて、五感のうちのいくつかが欠けた状態というものも経験している。現実に似ているけれど、現実ではないバーチャルなものとしてゲームや動画に親しんで、それらをバーチャル空間などと呼んだりする。

そしてまた、リアルなものとして生きているこの世界をリアルではないものと感じることもあるかもしれない。そういうときに「なんかリアルじゃないなぁ、もしかしたら、映画マトリックスのようにこの世界は仮想空間なのではないか」などと思うかもしれない。

それは、この世界を感じているこの私の感覚の何かがバグってしまい、テレビゲームや動画のように、五感のうちの何かが欠けた状態のように感じたということだろう。

しかし、「この世界そのものが仮想世界である」ということになると実は話は変わってくる。私は、あるいは私たちはこの世界に生まれて、この私の五感を通じて「これがリアルな感じだ」という判断を形成してきた。

この世界そのものが仮想世界であるならば、今まで体験してきたこの五感を通じた現実性の感覚「これがリアルな感じだ」という感覚や判断能力は信用できないかもしれないのだ。

この世界が仮想世界だったとして、この世界から目覚めて初めて生きる現実の世界というものが、自分が思っていた「これがリアルな感じ」というものと全く違っていたらどうだろうか? 例えば、五感では感じれなかった感覚第6感や第7感があるかもしれない。

そして、第6感とは、四次元そのものを感じれる感覚かもしれないし、第7感は五次元の知覚かもしれない。

あるいは逆に全く五感がない世界かもしれない。三角形そのもの、馬そのもの、善そのものを直接知覚できるプラトンのイデア界かもしれないのだ。

もしそうならば、我々が”真の現実”の世界へと到達した際には、逆に「リアルじゃないなぁ」と感じるはずである。なぜなら、「これがリアルだ」という感覚判断そのものを自身が育ってきた元の世界で培ってきたからだ。


そこまでぶっとんで想像せずとも、この世界が仮想だと気がついて、真の世界で目覚めたとき、自分の顔がめちゃくちゃブサイクだったり、タコみたいな醜い生物だったら、それまで「これが自分だ」と思い込んできたアイデンティティが崩れ、精神が崩壊するだろう。


この世界が仮想だとして、なぜ現実が良いという判断がなされるのか?


仮想なのだから、現実はいかようでもありうる。この仮想世界から目覚めたら、現実の世界は今の自分と全然違うぶよぶよしたタコみたいな醜い顔の生物で、糞みたいな臭いのものを喰らって生きる生物だとしたら?

また、あるいはこの仮想よりもよい世界かもしれないし、マトリックスのように少しだけ違う世界、あるいは、全くなんの違いもない世界かもしれない。

それらは今我々がこの世界から超越していない以上、判断可能な領域を超えてしまっているのである。


マトリックスではそういうところまで描かれないが、ちょっと想像したらわかるはずだ。そう考えると多くのSF映画は想像力が貧困かもしれない。(そうでない作品もあるかもしれないが)


しかしこうも思う。

「この世界が仮想世界であるかもしれない」という想定そのものがまさに私が映画などを見たりして"仮想”した世界なのだと。

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