2022年1月21日金曜日

本当の三角形はどこにあるのか? ~フッサールの現象学は数学の不思議から始まる??~

 三角形とは何でしょうか?

みんな慣れ親しんだ図形ですが、言葉だけで説明しようとすると詰まる人もいるかもしれません。


数学では、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

と説明されたりします。


このとき、実は、この数学における三角形とは、目の前の黒板に描かれたこの三角形のことではありません。


目の前の黒板に描かれたこのひとつの三角形は、確かに

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

のひとつではありますが、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉"そのもの"

ではないということです。


地球上に存在しているすべての三角形の寄せ集めでもありません。


それは、どういうことでしょう?


例えば、三角形の内角の和は180度だと証明されていますが、

このとき、この世界にある三角形に見えたものの内角の和を実際に測って

そのすべてが180度ではなかったとしても、

そんなこととは関係なく、三角形そのものの内角の和は180度なのです。

むしろ、すべての三角形が180度ではなかったとしたら、

この世界にある三角形に見えたものはすべて歪んだ三角形だったか、

測ったときに何か間違えたか、何かしら実物のほうが誤っていたことがわかるのです。


三角形ではわかりにくいなら、2億38角形ならどうでしょうか?

私も、見たことはありませんし、そうした図形のものが何か存在しているのかどうか。おそらく存在していないでしょう。しかし、それがどんなものかを考えることはできます。

2億38個の角に囲まれた図形で、これはおそらくほとんど円に近いような形をしているけれど、よくよくみると、たくさんの角がみえるような図形かと。

2億38角形がこの世界に存在しなかったとしても、その内角の和は計算により原理的に割り出せることになります。

つまり、その図形が実際になんらかの物として存在していなくても、その図形の性質の正しさについて私たちは判断することができるのです。

不思議じゃないですか??


あるいは「無限」「永遠」とは何でしょうか?

直線とは、〈長さはあるが幅も厚みもなく無限にまっすぐ伸びる線であり、その上のどの二点に対しても、それらの間の最短路となっているようなもの〉

なのですが、誰もそんなものは見たことがありません。

しかしながら、我々は一度も経験したことのない、そして、今後も経験することのない無限な線とか永遠の時間ということを(それが真の理解かどうかはおいておいて)理解している。


どうしてだろうか??あなたは不思議に思いませんか??


そうしたことを不思議に思っていた古代ギリシャの哲学者プラトンは、次のような感じで答えました。

実は、我々は生前に直線そのものや三角形そのもの、無限な時間そのものを経験していたんだ、そして、今の現実世界でそれを理解したと思ったときには生前のことを思い出しているのだ、と。

それら直線そのものや三角形そのもののような「〇〇そのもの」のことをイデアとプラトンは名付けました。観念とか、アイデアとか、理念はこのイデアideaから来ています。

おもしろい考え方ですね。


さて、時は19世紀後半のドイツ。

同じようなことを不思議がった哲学者がいました。


それが現象学を提唱したフッサールです。

彼が生きた当時、心理学や大脳生理学から数学上の難問が解決できるのではないか?ということが言われていたときがあったらしいです。

それは、数学というのは現実に物質的にあるわけではない。

ならば、心の方に、脳の側にあるに違いない、というわけです。

しかし、脳を解剖したら、心理学を駆使すれば、数学のすべてが本当に解明されるのか?

とフッサールは疑問を投げかけます。


一方では、ヒルベルトが数学の形式主義、公理主義を提唱しました。これは、すべての理論は、基礎となる公理群を出発点とし、厳密な推論によって打ち立てられなければならないという主張です。

ここでは、難しいので、誤解を招くかもしれないけど、簡単にイメージしてもらいます。(私も間違っているかもしれませんが。勉強中〜)

完全無欠の論理の体系というひとつの世界があり、それを数学における基礎になる公理をもとにすべて解明していく

というイメージです。

これはプラトンのイデアの世界のようなものに近く感じられるかもしれません。

フッサールはそのような見たことも経験したこともない世界のようなものを現実の世界の背後に想定すること自体が間違っているのではないだろうかと疑問を投げかけます。


そこでフッサールが考えたのが現象学というわけです。

現象学とは、単に目の前にある具体的なひとつの三角形の絵について探求したものではありません。

確かに目の前にはひとつの具体的な三角形の絵がある。しかし、例えば数学者はこの図形に三角形そのものの定義をなんとなくかけ合わせて見てしまったりする。

そのとき、目の前にある具体的な図形を見ながら、同時に「三角形」という概念によってこの具体的な図形を捉えてしまっている。

それが意味しているのは、我々はなんとなく三角形の本質について知ってしまっている。つまり、三角形の本質を直観しているということです。

それを見ようというわけです。

そうして(あれこれ考えているうちに?)定義を知らなかった者も〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉というこの三角形の定義にまで至ることができる。


しかし、一体いつどうやってその三角形の定義に至ったのか?


目の前にあるのは、レアルなもの(物的なもの)です。しかし、それを捉えるときに作用しているのがなにかイデアルなもの(観念的なもの)です。

その時々で異なっているレアルなものとすべてを同じものにしてしまう抽象的で普遍的なイデアルなものとはあまりにも違いすぎている。

その2つのものの間には飛躍があるのではないか?

レアルなものとイデアルなものとの架け橋がどのようにかかっているのか?


フッサールが始めた現象学とは、少なくとも初期においては、三角形の本質が何なのかを探求したものではなく、我々は具体的な三角形を見ながら、そこに三角形の本質をすでに直観してしまっている、それはいかにしてかを知りたいということなのです。


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