2011年10月25日火曜日

父像2


Date

ある日親父が詩を書いた。

僕の親父は親父と呼ばれるのを好まない。

僕の親父はおしゃれ好き。でもおしゃれすぎておかしくなった。

僕の親父はお酒を飲む。飲むと酔っておかしくなる。

僕の親父はタバコを吸う。でも母や妹に怒られるから、ベランダとたまにトイレで。

僕の親父はギター弾いて歌う。やっぱり何かがおかしいと思う。

俺の親父は髪の毛が少ない。隠そうとしてすごいことになった。

僕の親父は寝てるときのいびきもすごい。たまに寝言で叫んでいる。

僕の親父は母さんと仲良くしたい。でも、母さんの嫌がることをする。

僕の親父は変わった。

ドキュメンタリーや映画よりもバラエティを見るようになった。

僕の親父は変わった。いつもソファーで寝ていることが多くなった。

夢を見なくなった。寝てるときしか。

僕の親父は変わった。

僕の親父は僕の書いたこの詩を見て泣いた。

いつかは僕も息子ができたらこんな詩を書かれるんだろうな。

ある日親父が詩を書いて持ってきた。

何も言えなかった。


 

2011年9月18日日曜日

de Moral

Keine Moral entsteht ohne Menschen.
die Moral ist eine beschränkte Sphäre. Das ist abgeteilt,

Kommunikation

Im Gegenteil der Kommunikation ist "Einsamkeit".

2011年8月22日月曜日

Ich bin du und du bist ich.

"Ich bin du", "Ja, du bist du"
"Ich kenne dich", "Ja, du kennst dich"
"Ich weiß nicht, was du bist","Ja, du weiß nicht, was du bist"
"Ich möchte dich tief wissen","Dann wisse dich selbst"
"Ich liebe dich","Ja, du bist Narzisst"
"Ich hasse dich","Ja, du hast selbsthaßlich"
"Ich töte dich","Selbst mor......."
"Kekekekekekekekekeke......Du bist schon tot"
Aber es ist kein Antwort mehr.
Vor dem Spiegel steht jetzt nur ein Gespenster.

2011年7月20日水曜日

雨矢

急に空が暗くなった
「おやっ」とみあげたが
それが最期
次の瞬間から全身に
容赦なく降り注ぐ矢の雨
刺さる
刺さる
身に刺さる
身を守るものもないのだ
英雄はそうして今日も行く
 
そして
 
今日も雨
強く地に刺さりつづける雨
刺さる
刺さる
身に刺さる
今日も傘を持っていないのだ
おれもそろそろ行こうかな
 
やがていつかは矢を放つ
狂っていたようなその空も
勝利に酔って高らかに
自慢の弓を見せるだろう
自信にほほえみ膨らませ
高く掲げる7色の弓
 
そのときこそが逆襲のとき
ひるんではならない
 
見よ、その空に
その空の王、光り輝く
偉大なる天体が笑う
今こそこちらが矢を放つとき
放てば、天体にも穴があく
そうして次第に天体は空の頂点からつべり落ち
いやはやとうとう夜が来る
 
われわれの祝祭のとき、来たるべし
太陽を盛大に弔ってやろう

2011年5月10日火曜日

不在

何かを心から強烈に求めている。
何だかわからないこの孤独感。
以前は時々だったが最近夕方から夜にかけて酷いようだ。
何もないのに何かを求めている。
それは人だ。何かをしゃべる相手がほしいようだ。
本は人ではない。本は私に語りかけても、私は本に語りかけられない。
そしておそらく母親のようなものを求めているのであろう。
現にいる私の母親ではない。すべてを受け入れてくれる甘えられる存在を求めているようだ。
無は想定であり、考えられたものであり、私を脅かさない。私を脅かすのは何かの不在である。
無は私を誘惑するが、不在は私を脅迫する。
孤独は悪である、と思う。孤独が人に悪を導くのだ。悪は悪を導くと思う。
これは悪を行なうことがさらに別の悪を行なうことにつながるということではなく、
私の感じる悪い(schlecht)と言う感情が私を悪い(böse)行為へと導くのである。
 

2011年4月28日木曜日

みんな違う?

「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがあるよね」という言葉に違和感を覚える。
みんなって誰なんだ。「みんな変」という時の変はみんなに共通なのか、と。
みんなではなく、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・としか言えないのではないか。
もちろん変であると言う言葉をみんなを主語としてつけても差し支えないし、、「この人は〜が変だ」とか「あの人は〜が変だ」・・・→「みんな変だ」としても論理的、文法的にはよいだろうが。
注意:ここでは「この人」の多様なあり方については考えない。
注意:「みんな変である」という命題はもちろん経験的な憶測に過ぎない。
「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う言葉は事実であるかどうかということを問題にしたいのではない。
私は「みんな違ってみんなよい」とか「みんなどこか変なところがある」と言う人はそれを言った後にさまざまな人々のさまざまな変さや異なる性質を度外視して「変」という言葉で一義にしてしまうのである。
自分と他人がどれだけ違っているのか、それをよく見極めることこそが私は重要だと考える。
そして「私」と「君」との関係性こそが道徳を形成していくのではないかと考えている。
ここでは理念としての道徳や正義は度外視する。そんなものはあってもなくても実践においては無意味である。
それはともかく、「みんな〜」ではなく、「その人の固有性をよく見よ!」と言いたい。

2011年4月27日水曜日

選択

なぜこんなに苦しいのだろうか。
私がこの苦しさを選んだからだ。
 
私はもっと楽な生き方があることを知って、あえてこの生き方を選んだ。
私は善、均衡状態、平和を知って、あえて悪、不均衡、闘いを選んだ。
空気が違うことが分かっていてあえて空気を読まない。
悪化することが分かっていてあえてより悪化させる。
その上で権威には媚びいろうとするような卑劣さ。その卑劣さに対抗しよう。だが、それは未だ達成されてない。
私は自分で朝早く起き、授業でいわゆる内職をしながらも授業に積極的に参加し、うるさいやつを注意した。誰も話しかけず、周りには反感を買い、授業中は友人とも距離を置く。先生、学生たちとの闘いの場。
全て自分が選んだことだ。
弟に「それで楽しいのか」と訊かれて、応えることができなかった。
だが、私が自分でその生き方を選んでいること。その常に不満足な生き方に満足していることであろう。楽しいという生き方を選んでいたら満足な生き方に不満足だったに違いない。
そして、「退屈だ、つまらない」と嘆いている弟より、絶望的生を充実している。
 
常にさまざまなことを考え、実行していく。弱さからくる強さ。あの言葉が浮かぶ。
 
「芸術家はつねに孤独のど真中で無と対決している」岡本太郎

2011年4月17日日曜日

avater アバター

現代においてはインディアンの問題を考えることは難しくなっている。それをアバタ—は人々に受け入れやすい形で復活させた。
映像美、「300」や「パンズラビリンス(原題El labyrinto del fauno)」、あるいは「パフューム」に見られるような映像美は中身が無内容であっても見るに値すると思われる。この映画もそういった映像美がすばらしい。そして単にすばらしいだけではなく、自然の神秘を伝えるのにまったくもって言葉を必要としない伝え方が出来るのである。同じような映画に「もののけ姫」があるが、あの映画はそれだけではなく、神を動物として物体化しているという点が異なる。アバタ—ではそれが植物にやどる目に見えないものとして、表わされている。
また、アバタ—はまったくもって単なるエンターテイメント作品として見ることもできるのである。
映像としてはやはり、CGを使い、ゲームの様な世界観を醸している。一方で、「もののけ姫」は、やはり、二次元であるという感じは否めない。言葉で言うなら「アバターはすごいけど、現実味がない」のである。しかしそれには理由がある。
 
「アバター」とは何であろうか。
辞書には二つの意味が出ている。
�神の化身、具現
�チャットなどのコミュニケーションサービスが利用できるインターネット上の会員制コミュニティにおいて、自分の分身として設定するキャラクター
 
第一の意味においては主人公は「トル—ク・マハト」、神的力を持った者としてある種の救世主となる。
第二の意味においては現実には足の不自由な主人公は惑星上の住人の身体(つまり分身)で惑星の世界にコミットし体を自由にする。これは現実には力を振るわない人がネット上のコミュニティーでは中心になれるのと同じである。
そして、最後に主人公は本来の現実の身体を捨て、その惑星の住人の身体で一生を送ることにする。つまり、仮想を現実にしてしまうのだ。

アリス・イン・ワンダーランド  Alice in Wonderland by TimBurton

DVDでバートンのアリス・イン・ワンダーランドを観た。
率直な感想だが、やはり原典を越えることはできなかった。通俗的な話で、奇妙な美のみが見どころとなっている。勧善懲悪。悪の対立。圧政。女性英雄が運命を主体的に切り開く話だった。

不思議の国のアリスのテーマはそんなところにはない。徹底的な矛盾、運命による翻弄にあろう。主体的であることはその世界に秩序をもたらす。従って、アリスが主体的であるのは好奇心のみであって、何らかの決心は必要ない。
既存の不思議の国のアリスの世界が固定的になってしまっている。不思議の国はより流動的なものであると思う。 もはや不思議の国のアリスを映画として撮ることは固定的なイメージの繰り返しでしかないのか。

もっと独創性が必要だと思う。例えば、赤の女王の顔が大きいのは最初は面白く見えたが、しばらくすると面白く
もなんともない。だが、もしその顔が女王の感情によってふくらんだりしぼんだり変化するとしたらどうだろう。 あるいはもっと帽子屋はもっとトンチンカンなことを言ってもいいはずだが、映画ではまったくもって狂人のようにふるまう常識的な人間だった。
全体的に可笑しさが中途半端であると感じた。ビックフィッシュのほうが、よっぽど独創的で面白い。
同じ世界観でも原典に沿ったディズニーの不思議の国のアリスのほうがよく思える。 それはディズニー独特の音楽(歌)の力にあると言えし、アニメだから画像が加工しやすいということもあるし、お茶会はまったくもってイカレていてでおもしろすぎる!それに比べてこの映画には面白いところが少ない。

キャラクター呼称の日本語表記について差別用語だなんだといろいろあろうが「マッド・ハッター」ではあまりになじみがない。日本語の語感を発揮した「いかれ帽子屋」のほうがよっぽど親しみやすいと思う。
いかれるという表現に問題があるなら、そもそも英和辞書によれば"mad"も"mentally ill"よりは弱い表現であるが、"insane"より強く凶暴であり、問題はあるのではなかろうか。英語には強くないのでよくは分からないが。

2011年3月28日月曜日

父像

父親たるものは息子の尊敬の対象!
父親たるものは息子の畏敬の対象たらなければならない!
完全なる英雄たらなければならない!
息子を圧倒していなければならない!
そして息子の敵たらなければならない!
したがって父親は敵として尊敬されなければならない!
 
しかし、うちにいるのは府抜けた社会的弱者。あまりにも弱すぎて憐みをかけるしかないのだ!
今まではそれでよかった。
私は父親を父親として認識していなかったからだ!私は父親を人間の一人として加算していただけだ。
格別な何らかの認識を持っていなかった。
私の基本的な考え方は「相手の価値観の前提と同じ土壌に合わせること」「相互性の原理のみに立脚すること」である。さもなくばそもそも話が成り立たないからである。
父が父権を振りかざすようになってから、つまり、「息子としてどうあるべき」(正確には息子にどうあってほしい)などという主張を聞いてから、私は父は父としてどうあるべきか(つまり、どうあってほしいか)考えるようになった。
その結果、生物学的父を父権を持つものとしての父としては認められなくなった。
それ以来、父が父権をかざすときに限り、私も息子として父のあるべき姿を要求し続ける。その要求が受け入れられなければ、父の父権も認めないつもりだ。
 
しかしまた、今はこう考える。そもそも父たるものに対して何らかの要求をすること自体が、父を父たらしめなくしている。どうあがいたところで父は理想的な父たりえないのだし、私という息子も理想的息子たりえないのだ。
 

2011年3月11日金曜日

社会のバランス維持の倫理と<わたし>の倫理−仮想対話−

A:
> 普通の意味で「べきだ」「べきでない」と言われるのは社会のバランス維持の倫理だと私は捉えている。
> 溺れている人を助けることがバランスの崩れを食い止めることになり、人を殺さないことがバランスを維持するように。
> だから一回の悪は無数の善によっても消されない。
>
> 私の考えてる倫理はバランス維持の倫理ではない。むしろイエスが十字架で示したような倫理だ。
> それは別に命を懸けるようなことじゃなくても子供に飴玉をあげるようなことでもそんな倫理になりうると思っている。
B:
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
というのはバランスの倫理とは違うものだと思う。
社会バランスの倫理は社会によってそれぞれ違ったものでありうる。(そもそもの社会を成り立たせている個人の倫理が違うのだから)従って、「一回の悪は無数の善によっても消されない。」ということとは関係無いと思うのだが。
個人がたまたま、心のうちに自分のしてしまった罪責感に囚われているときのみ
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
ということがあり得るんじゃないかな。これは個人の心のバランスである。

>いや、心のバランスつまり罪責感うんぬんなどではない。悪を行った過去は消えないということだ。

では、過去に悪があったということが一つの事実であったとして、それは確かに消えないであろう。しかし、それは君の示した倫理においても、例えば、君の示した倫理に反する行為つまりその倫理にとっての悪が一度行われたとしたらそれはもう二度と消えないのではないだろうか。
消えるとしたら、過去の記憶が消えてしまったか、君自身が死んでしまったか、あるいはやはり心の罪責感がなくなったとしかいいえないのではなかろうか。
しかし、社会のバランスの倫理を考えたとき、何か悪いことをして、それを償わなくてはならないということはあっても、何か良いことをしたからと言っ
てそれと同等の悪いことをしてもいいということにはならないのはなぜだろう。

>何か良いことと言うのは結局は悪いことの打ち消しでしかない。
>たとえば、人を助けるということを考えたとき、助けられる人は何かに困っていなければならない。そして、助けることによってその困っている悪い状態を打ち消すのだ。

本当に積極的な善はあり得ないのだろうか。人を助けることによって、賞賛されるとか・・。

>ないことはない。それは、価値評価と芸術活動だ。
>それこそ私の考えている倫理に近くなるのだが・・。

なぜそういいいきれるのだ。言い切れるほどの理由があるのか。

>確かにそう簡単に単語を二つ並べて語れることじゃない。今のは嘘だ。むしろ語れることじゃないかもしれない。このことは・・。

では一番最初の例に返ろう。キリストが十字架にかかることと子供に飴玉を差し出すという行為はいかにして倫理と呼びうるのか?

>それらは私にとっては他人の倫理なので、考えることはできない。

しかし、それではなぜその例を挙げられたのだ?例が挙げられるのだからそのことに関して何かあげられるだろう。

>さらに言うならば、私の倫理というのもこれまた未だ分からずにいる。
>バランスの倫理については考えやすいのだが。

少し考えてみよう。例えば、私は車や人々がいないところでは赤信号を渡ってもいいと考えている。なぜなら、信号というのは人々が交通に際して、事故を起こさないためにある便宜的なものであるので、車や人々がいないところで守るなどはナンセンスだから。
しかし、同時に私は車や人々がいないところでも赤信号を渡るべきでないと思っている、いや、感じているらしい。だれもいない交差点で信号無視をしたのに私のうちの何かが「それをしてはいけなかった」を語りかけるのだ。

それはただ理由なき不可解な行為に理由を無理やりつけているだけではないのか?

>いや、そうではない。そのように評価する君は初めからそれを「ただの行為」と前提して話している。そのこと自体は正しいのか。ただの行為。ただの物理的反応。ただの人間。ただの友達。その言葉によってどれだけの何かが失われているか。そこに何らかの何かがあるのだ。歴史的に唯物論や科学の発達や神の死によって「存在」という言葉が失ってきた何か。それを君も失っているのだ。

そんなことは言っても、その行為を見ても単にその行為として成立しているのではないのか?君は行為をみて、その行為以上の何かが見えるのか?

>ただし、「そこに何らかの何かがあるのだ」とは言っても、君が何らかの時空間に物理的に存在しうる何かを考えているとしたらそれは間違っている。

それは分かっている。

>いや、今聞いたから「そういえばそうだった」と今気付いたのだ。

しかしながら、ある行為が善か悪かを決定するのにある基準が存在しなければそもそも決定できないのではないか。
Sent: Friday, October 22, 2010 5:39 PM〜Saturday, February 24, 2011

2011年3月4日金曜日

感性的芸術、認識論的芸術

前回、クラシック的美しさとカオス的美しさについて話したが、クラシック的美しさというのをコスモス的美しさという名前に改めたい。カオスの対義語はコスモスだからである。
では話を続ける。
前回はコスモス的美しさとカオス的美しさについて話し、世間で受けているベストセラーや売れている作品については取り上げなかった。
コスモス的美しさは世間受けするような何度も使いまわされるようなエンターテイメントとは異なったものを指す。また芸術でも、小説や演劇などは内容のほうに重点が置かれていると考えるので言及しない(ただし、音楽や絵画でも何かを主張するものも多いのであるが)。→ということは、逆に小説や演劇は何かあるカオス的美しさを未だあまり発掘されていないということであろう。ところで思ったのであるが内容(つまりストーリー性)はとても強い。ある芸術が何かを主張しているあるいは何らかのストーリーをもっているだけで、それは美しさのうんぬんを超えて大きな力をもつと私には感じられる。逆に音楽としては(あるいは絵画としては)いいのだが内容がないと言われた芸術はそれだけで価値が芸術としては大したことがないが内容のある作品と比べて劣っていると評価してしまいやすいのだ。
 
>いや、そのように感じるのは音楽や絵画の魅力が足りないからである。本当に素晴らしい音楽や絵画は内容(ストーリー性や主張)を必要としないものだ!君は現に先ほど、音楽、絵画を小説、演劇と分けて考えていたではないか。
 
音や色そのものを重視した芸術を感性的芸術、内容、メッセージ、主張、ストーリーを重視した芸術を悟性的芸術と名づけてみるか。
 
>君はすぐにそう分類したがる。分類など重要なことではないのだ。
 
しかしながら、分類によって、新しい観点が開ける可能性が出てくるのも事実であろう。
(などと自分一人でもう一人の自分と対話していて思いついたのだが、ヴィトゲンシュタインの「哲学探究」の対話に対話する人間とヴィトゲンシュタイン自身の区別が明示されていないのも、彼が一人で考えているからなのであろうと思った。)
話を戻すと、感性的芸術にしろ悟性的芸術にしろ、その両方をもつものにしろどちらも極めれば大きな力となるのだろう。
 
>しかし、私にはむしろ悟性的芸術には限界があると感じる。
 
いや、私には感性的芸術にこそ限界があると感じる。人間の認識できる色や音は限られているからだ。しかしながら、主張、メッセージ性やストーリー性には無限の可能性がある。思考は実在している物よりも無限なので「色や音では決して表現できないものを表現した。」という表現ができるからだ。
 
>しかし、主張やストーリー性は抽象化されて簡素になりうるが、色や音は決して抽象化されえない。色や音や文字は相互に変換しえない。変換したらそれは全く別のものになってしまうであろう。
 
しかしながらも、言葉の上に色や音の意味を映して(例えば、「私の心にベートーベンの『運命』が鳴り響き、私はしばらく我を忘れていた」と)表現することによって、個人の心にそれぞれのベートーベンの運命を鳴り響かせることができるのである。それを考えると、言葉は無限の可能性を秘めているのだ。
 
>それは文字だけでなく絵画や音楽にも同じことができるぞ。
 
だが、できたとしたら、それは音楽そのものつまり音そのものの美しさではなく、あるストーリー的な理解の美しさであろう。
 
>話はそれてしまうが、君は名称の付け方を間違っている。君が言っている悟性的芸術は悟性だけではなく何らかの感性も含みうるような芸術だ。
 
それでは認識に重点を置いた認識論的芸術とでもいうか。

2011年2月26日土曜日

クラシック的美しさとカオス的美しさ

音楽の美しさというのは何だろう。
音楽の先生は言う
「絶対音感のある自分が正しいんだとG(音階のある音)の音で歌うよりは、互いの音に合わせて相対的な音感で歌ったほうが観客にとってはいいんだよ。
 
いつか友達との会話を思い出す。
「美って何だと思います?
「・・うーん。何らかの心地よさを与えるもの?」
「バランスですよバランス。比率が良いものが美なのですよ。」
彼はピアノを弾くのだった。
 
べつの友達もやはりピアノを独学で弾くのだが、かれは原音ではなくすべてハ長調に直して弾くのだった。
 
やはり音楽はバランスのたまものである。
 
それと違うのは絵画である。絵画は特に現代美術は現在も常に模索している。あるいはロックやポップやヒップホップのミキシングなどの軽音のなかでもインディーズの音楽の中にも実験的な音楽と言えるのかそれとも何かの音の羅列のようなわざと音を外したりする音楽を作ろうとするものがある。
岡本太郎は言う
「だれが何と言おうと、だれがどんな顔をしようと、色にならない色、音にならない音を出すんだ!」
「ゴッホは美しい。しかしけっしてきれいではない。ピカソは美しい。しかしけっしてきれいではない。」
彼の言う美は、友達の言う美とはまったく違っている。
 
二種類の目的の違う音楽である。(ただし新たなクラシック的美しさを見つけ出すための実験というのはあるが)前者をクラシック的美しさ。後者をカオス的美しさとでも名づけて話を進める。
 
しかし、カオス的美しさはすぐにクラシック的美しさに還元されてしまう。特にその芸術がどのようなリズム、旋律になっているのかの一定の規則、法則のようなものを示すことによって・・。
(いわゆる感性の学としての)美学や芸術評論の類はこうしたカオス的美しさをクラシック的美しさに変える。
また、人もその音楽のカオス的なリズムを記憶とまでは行かなくても慣れてしまうことによって、クラシック的な美しさに移行してしまうのだ。
だから、カオス的美しさは持続することはできない。すぐに色あせるか、移行してしまう。反対にクラシック的美しさは例えそれが存在したのが一瞬であっても永続することができるのだ。
 
"Be always searching for new sensations. Beafraid of nothing."     -Oscar Wilde(The Picture of Dorian Gray)
 
注:ここでは世間受けするようなものについては言及しないでおく。
注:もしも、クラシック的美しさ、カオス的美しさよりもいい名称が思い浮かんだら教えていただきたい。

2011年2月23日水曜日

時浪

同じことに関して全く正反対の教訓を得ることがある。一人で勉強していた時は一人で勉強するよりもやはり、グループで読書会をしたほうが分からないところを解き明かしながら進めるのでいいと思い、グループで勉強していると、人と時間を合わせたりこんなにも時間を浪費する仕方をするくらいなら、一人で勉強したほうがいい。
しかし、結局は自分の地道な忍耐力が足りないだけなのだ。うんざりしてしまう。
今うんざりしているのは努力できない自分にか。それとも人々の会話に入れないからか。それとも人々の会話が参加するに値しないほどのくだらない話で聞くに堪えないからか。それとも単にお腹が減っているだけか。

経験と記憶と忘却

ある日、何らかの失敗経験をして「AはBである」ということに気付いたとしよう。その言葉としての「AはBである」は次第にそれに付属していたその時の経験のあるイメージを失っていく。そして「AはBである」という言葉だけがひとりで残っている。その経験と教訓とが強烈だった場合、私はその言葉と衝撃をよく覚えていながら、その意味だけを忘れていく。「AはBである」という言葉に含まれていない多大な情報が欠落していくのである。あるいはさらに時がたつとその言葉すら忘れて衝撃を受けた感覚のみ、あるいはその逆に衝撃感覚を忘れただの言葉だけ残ることもある。経験というものは次に同じことをする前にそれをあらかじめ予期して吟味するための材料となりえるものなのだが、経験内容を失った言葉、や忘れてしまった言葉、言葉なしのその経験のある感覚だけが残っていてもほとんど役に立たない。そしてまた同じ失敗経験を繰り返す。そして、こう思うのだ「ああ、前にも同じ失敗をして同じ教訓≪AはBである≫を得たのだったな」。忘れていた言葉、その意味と経験感覚をもう一度再現する・・。
同じ失敗をした自分に嫌悪する。しかし、時がたてばまた繰り返す。

2011年2月3日木曜日

ある恋愛の話。

今、スタバでカフェモカを飲んでいる。
 外は雲一つない快晴。
 外で中学生達がおしゃべりしながら歩いているのが見える。 
だが、気分は正直すこし暗い。
 偶然の神様はほほえんでくれなかった。
そりゃあ、ほほえむことのほうが少ない。 
ぼくはツイてない。 
今日、彼女に告ろうと思ったが、失敗した。 
たまたま、僕が遅かっただけだ。 
残念だった。 
彼女は僕の好意に感づいているのか、すでに気まずい状態だった。 
それに彼女は今日神奈川に帰ってしまうのだった。 
僕の筋書ではこうだった。
 彼女が駅から帰る直前に僕が呼びかける。 
僕は彼女に言う。
 「お別れの握手をしよう」と。 
彼女が手を差し出すと、僕はその手を引いて肩を抱き、耳元でこう言う。 
「君が好きだ。でももう諦める」 僕は彼女から少し離れ、向きなおってから笑顔でこう言う。
 「最後のお願いなんだけど、一緒に写真を撮りたい」と。 
僕は彼女に「ありがとう。僕らは友達だよ。」と言い、僕は立ち去る。
 後ろは振り返らない。 
 実際には間に合わなかった彼女を乗せたバスは一足先に駅に到着し、僕は彼女の顔を拝むこともできなかった・・。 
「俺って本当に馬鹿だよなぁ~」俺は駅で待っていてくれた友達にぼやく。
 「いいえ、ooさんは誠実ですよ」と友達がフォローしてくれた。 
 僕はなんとかして、気まずい感じをなくしたかっただけだ。
僕は彼女と仲直りして普通の友達になりたかっただけだが、叶わなかった。
いままでのことをすべてを悪い思い出にしたくなかっただけなのに。 

 『神様等しく俺にも命をくれたが、それだけで何もしてはくれない・・』

Blue Herbの歌詞が聞こえてくる。 
 何とも言えない悲しみのこの気持ち。
心は灰色の雲に覆われている。
ぼやけて見える。 
カフェモカの甘さが癒してくれる。 
よけいに涙が出る。


今更、見返してみると、これはやらなくてよかったなと思う。相手に恐怖を与える可能性が高く、おおかた迷惑になるだろう。我ながらキモい2021/10/01


2011年2月1日火曜日

オキテ

依存関係。
友達は作っても、自分の意志と時間を大切にすること。
親友はよく選ぶこと。いなければ、恐れずに一人でいること。
恋人にする人をよく選ぶこと。いなければ、恐れずに一人でいること。
できても依存しすぎないこと。
恐れないこと。考えることを考えること。したいことを考えること。実行すること。
不確かな情報や自分の勝手な憶測やその場の空気に惑わされないこと。
常に敏感でありながら、時には鈍感な・振・り・をすること。
私の人生を常に眺めてみてその建設の具合を傍観し、じっくり設計すること。

2011年1月22日土曜日

ヒトはどこまで神様か

見えるものと見えないもの。
目に見えるものしか信じない新聞記者と目の見えない教祖。
目に見えるものしか信じないはずの新聞記者は自分が目に見えないものも信じていたことに気づく。
目の見えない教祖は目に見えないものの力(他人の心を動かすこと)を知っている。

個人の持っている信念、価値観、生活感など宗教のようなものだ。

「宗教の始まりは人の感情と結び付く。」

「女は最初に寝た男は殺すべきなの」

2011年1月11日火曜日

>その場やその時にドキドキってあっても、ずっと思い続ける事が無いと思う(;-_-)=3悲しい事に……。
僕もそう思っていた。
高校2年までは好きな子がコロコロと変わってしまう自分が信じられなくて、一人の人を好きになっても、その人をずっと好きになる自信が無くて告白どころじゃなかった。
高校2年以降に僕は考え方が変わって、「それでもいいじゃないか。今はその子が好きなんだから。今好きであるのだから、今その子にできる限りのことをすればそれでいい」と思うようになった。
大学に入って思うのは、小さな「好き」という感情を大切にしようということ。