同じことは同じだが、違うところは違う。という同語反復(トートロジー)(最近では小泉構文というらしいが)
世界中にマクドナルドがあるから、世界の多様性がないと言われたりする。
しかし、マクドナルドという点では同じだが、そのマクドナルドには地域性が完全にないほど同じかというとそうでもない。
アメリカのほうが日本よりパティが大きかったりして、そういう違いが出てくる。
それも、マクドナルドによって浮き彫りになる地域性のひとつだろう。
かと言って、その程度の差異に着目して多様性が保たれていると言うこともできない。
やはりそれらはどこにあろうと地域性があろうと同一のマクドナルドである。認知として同一のものとされる傾向が強い。
世界中をマクドナルドだけでなく、バーガーキングとモスバーガーとロッテリアの四つが席巻したとしても、こう言われうるだろう。
「世界がファストハンバーガー屋ばかりで多様性がない。」と
多様性ってなんなのか、複数あるから多様ではないのか?
しかし、ここに吉野家とすき家とまつやとを追加しても同じだ。
「世界がファストフード店ばかりで多様性がない。」
逆に静岡県に限定して考えよう。
さわやかハンバーグばかりで静岡県内での多様性がないといえるかもしれない。
しかし、この統一感によって静岡県のブランド力となる。静岡県の特色と。
それが全国的に展開されると、日本といえばさわやかハンバーグになるかもしれない。日本の特色と。
ある人が私に同意すると、その人と私の意見が同一ということになるが、そこにまったくの差異がないかというとそうでもない。掘り下げていけば差異は明らかになる。
マクドナルドがもはやアメリカのものというより、世界中のものという認識になれば、それはもう国民性ではなく、人類性?
選択の多様性において
傘には非常にさまざまな種類の柄がある。それは確かに多様である。
しかしながら、例えば、すげ笠や蓑という選択肢は残されていない。ほとんどは西洋の傘しかない。
まあ、レインコートもたまにあるけれど、ほとんどは傘の一択☂️
それがマクドナルド。マクドナルドにも地域性があるからといって、マクドナルドだけで良いというわけでもない。
そしてまた、マクドナルドという選択肢がいつもあるのは、その選択肢があるから選択され、選択されるからその選択肢がある。ということだろう。
そして、問題は人が金を使う配分である。
金がないわけではない貧乏人において、
食事に金を使いたいという人はマクドナルドは、チェーン店はあまり選ばない。その代わり、服はユニクロやGUかもしれない。車は軽かもしれない。
服に金を使いたいという人は、ユニクロやGUは選ばない。その代わりに、食事はマクドナルドや吉野家、車は軽かもしれない。
車は軽は嫌だという人は…
このような形で、金持ちではない人は金の配分をこういう形にすることが多い。自分としてはそこまでこだわりはないけれど、必要なものは、便利で安くて手軽なものに限る。
すると、便利で安くて手軽なものを作る企業が増えるのだろう。コンビニとは便利という意味だから。
国家は、常に国家化し続け、同時に脱国家化し続ける。
マクドナルドは、常にマクドナルド化し続け、同時に脱マクドナルド化し続ける。
同じものは同一化し続け、同時に差異化し続ける。
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