クリスマスは厳かに過ごすべき??
クリスマスとは、キリストのミサ(礼拝)を意味している。
イエス・キリストの誕生を祝う日だと。(ただし、よく誤解されるがキリストの誕生日ではない。)
そして、それゆえにクリスマスが世俗的・商業的すぎる、特に日本ではキリスト教徒でもない人がなぜクリスマスを?などと批判されたりする。
そういう人は、最近のクリスマスとは違って、本来のクリスマスはキリスト教徒が厳かに神を讃える宗教的な典礼の日なのだと思っているようだ。
だが、それは本当だろうか??
今日は次の本を読んでおもしろかったところを紹介してみようと思う。
「クリスマスの歴史 祝祭誕生の謎を解く」ジュディス・フランダーズ/伊藤はるみ 訳
キリスト教徒に敬遠されるクリスマス!?
実は驚くべきクリスマスの真実があった。
313年にキリスト教がローマ帝国でコンスタンティヌス大帝によって公認され、その後、ユリウス二世(337~332)がキリスト降誕を12月25日に祝うようにと布告が出る。
これがクリスマスの始まりとされている。
そして、記録では389年に死去したコンスタンティノポリス大司教、ナジアンゾスのグレゴリオスが生前、聖なる祝日にダンスをしたり、過度に飲食したりすることを戒めている。
これは何を意味しているのだろうか?
わざわざ戒めるということは、戒めを受けるほど、人々がダンスしたり過度に飲食して騒いでいたからなのである。
つまり、クリスマスはそれがローマ帝国で制定されてから少なくとも30年以内には、すでに暴飲暴食やダンスにふける世俗的なイベントとして楽しまれていたのである!
その後も、何度も教会はクリスマスの過度な祝宴を戒めようとするが、そのたびに人々が戒めを受けるほどクリスマスに騒いで羽目を外していたというのがわかる。
とりわけ厳しく禁止されたのは、時代は飛んで、16世紀のイギリス、ちょうど清教徒革命の前後のことだった。イングランドやスコットランドの厳格なキリスト教徒、プロテスタントの清教徒(ピューリタン)たちはクリスマスを祝うことを禁止しようとしたのである。
彼らがクリスマスを非難する理由は、
ひとつは人々のクリスマスの祝い方が度が過ぎるし、
もう一つはやはりイエス誕生がクリスマスであることについて聖書にはどこにも記述がないからだ。
それから、クリスマスはカトリックのでっちあげた迷信の行事、元は異教ユールの日だという見方をしていたからとか、
クリスマスは聖人を記念する祝日だが、プロテスタントは聖人を人と神との仲立ちをする役割として認めていないといった理由もある。
16世紀のスコットランドでは、「クリスマスソングを歌うこと、サッカーをすること、仮面劇や無言劇をすること、歌ったり踊ったりすることはすべて不敬だとして禁止された。とはいえ、それらを禁ずる布告がたびたび出されているということは禁を破る者が多かったということだろう。」47頁
実際、1561年、スコットランドの清教徒、長老派教会はクリスマスのすべての行事を禁止し、多くの人がクリスマスを祝った罪で有罪となり、破門されたりしているケースまで存在する。
隣のイングランドの清教徒たちは少数派だったのでクリスマスを非難はするが禁止することまではできなかったが、その多くがアメリカに移住するので、そこで初期のころはクリスマスを禁止しようとしていた。
初期から清教徒が多く入植していたアメリカのマサチューセッツでは、1654年、マサチューセッツ湾植民地裁判所が、クリスマスに仕事を休んでお祭り騒ぎをした者、あるいはどんな方法であれその日を祝った者には5シリングの罰金を科すと定めた。(ただし、実際に罰金を払った例はなかったらしいので、体裁だけだったらしい。)
「清教徒の牧師インクリーズ・マザーは「いわゆるクリスマスというものは、飲酒と賭け事と狂気じみた馬鹿騒ぎのことだ」と教会に集った人々に語り、「飲酒」という言葉を念入りに繰り返した。」74頁
このようにクリスマスに眉を顰めるキリスト教徒も多くいたのである。
続いて、実際にクリスマスにはどのようなパリピたちがいたのかを見ていこうと思う。
賭博・飲酒・贅沢な食事のどんちゃん騒ぎ
1)贅沢な食事
例えば、ローマ帝国崩壊後の中世において、クリスマス前のアドベントと呼ばれる時期から、クリスマスイブにかけて身を慎み飲食控えめに精進するよう教会が定めて、クリスマスイブも肉とチーズと卵を食べてはならないとされていた。
にもかかわらず、実際には貴族も庶民もかなり贅沢に飲食を楽しんだという。
「現存するレシピを見ると、クリスマスの時期にぜいたくをしたのは宮廷の人々に限られていたわけではなく、裕福な町人も食の快楽にふけっていたことがわかる。一三九四年のレシピによれば、あるクリスマスパイは、キジ、野ウサギ、雄鶏、ヤマウズラ、ハト、ウサギ、レバー、心 臓 、腎臓とミートボールを、すべてソースで調味しマッシュルームのピクルスとともに調理してか ら「鳥のからだに似せて念入りに作られた」 パイ皮をかぶせて焼き上げ、鳥の羽で作った大きな尾を飾りにつけたものだった。」16頁
そうして、中世にかけて、肉料理はクリスマスのご馳走の中心となっていった。
中でも、豚の頭の丸焼きが13世紀から上流階級の派手なクリスマスの祝宴に並んでいたらしい。
2)飲酒
そして、もちろん、お酒も浴びるほど飲んでいた。
ロンドンの裁判所では、ある男が、妻が殺害されたとき自分がどこにいたか思い出せない、なぜなら「クリスマスに起こったことはひとつも覚えていない。 酔っぱらっていたから」と語った。
一八三一年、泥酔したうえ乱暴行為をはたらいた罪で起訴されたある男の例は、めずらしいものではなかった。彼は自分を弁護して「その日はクリスマスでした。判事さん、どうか許してください」と言った。しかし判事は認めなかった。
「この三日間、判事の前に引き出された者は全員がほとんど同じ弁解をした。彼らはクリスマスにはどんな乱行をしても罪に問われないものと、決めてかかっているようだった」(評決は起訴状通り有罪)。
ふだんは絶対酒を飲まない人でさえ、クリスマスの飲酒はやむを得ないと認めていた。
古いクリスマスキャロルにも酒を飲もうという主題のものがあったほどだ。
それは次のような歌詞である。
↓
🎶クリスマスを祝う諸君、そしてこの館のご主人よ
私に乾杯の音頭をとらせてくれ
さあ、飲もう
ワインのグラスをからにしよう
まずは私がいただこう
さあ私の忠告を聞いて
皆で乾杯だ
乾杯しない者は呪われるぞ
さあ、乾杯だ🎶
今で言う飲み会の音頭である。🍺
乾杯しない者は呪われるのであるww
3)賭博
中世においてはなんとクリスマスシーズンに賭け事が許される地域がたくさん存在したのだ。
それどころかクリスマスだからこそ特別許された。
それが賭博だった。
「サイコロやカードを使う賭け事ができるのは、クリスマスシーズンだけという地域も多かった。
一年中賭け事が許されている地域でも、まっとうな人が賭け事に興じるのはクリスマスシーズンに限られていた。フランスのある地域では、賭け事に関する裁判沙汰の三分の二以上が十月から二月のあいだに起こされていた。
スペインのカスティーリャ王国の場合、普段は王立の賭博場以外ではできなかった賭け事が十二月二十五日、二十六日だけは一般にも許されたので、その日ばかりは誰でも賭け事に興じることができた。
イングランドでは、クリスマスシーズンの賭け事は法律で認められていた。一四六一年に制定された法律は、貴族がクリスマスシーズンの十二日間以外に自宅でサイコロやカードの賭博をすることを禁じるものだった。その五十年後には「職人・農夫、見習い奉公人、人夫、召使い、見習いを終えた職人、職人の下働き・・・・・・その他すべての労働者」は「盤上のゲーム、テニス、サイコロ遊び、カードゲーム、ボウリング (九柱戯)、クラッシュ、コイティング、ロゲイティングその他すべての違法なゲーム」をクリスマスシーズン以外にすることを禁じられた。」19頁
そうして、賭け事は長い間、クリスマスの娯楽のひとつであり、ヘンリー八世の時代から18世紀になるまでは、イングランドの宮廷では大農園が買えるほどの金額がかけられることもあったという。(その後、浪費を反省したのか節度あるものとなっていくがww)
これらのクリスマスは、しゃんしゃんロマンチックな鈴の音が鳴るのではない!
普段はできない賭け事を公然として、ざわざわざわざわしているのであるw
4) 上司へのお歳暮贈る日もクリスマス!?
中性ヨーロッパのクリスマスは日本で言うお歳暮を贈るような習慣もあった。
宮廷の騎士たちは主君に、主君である諸侯は王に、小作人は地主に、それぞれ贈り物をしていたようだ。
「一五七五年、兵士であり詩人でもあったジョージ・ガスコインは、 小作人は年に何度か決められた時期に地主に贈り物をする義務があり、クリスマスには去勢した雄鶏を贈るのが習わしだったと書いている。」20頁
この風習は封建制度の衰退とともになくなって19世紀には消滅するが、今度は18世紀ごろから上位者から下位者への贈り物が増えていくのだ。
商店主から売り子へ、主人から召使へ、奴隷所有者から奴隷へチップを渡すのが義務になっていく。
これについて長い間、不満の声も多く上がり、不払いを宣言する人もいたようだww
「誓って言うが、クリスマスのチップのせいで……私は破産する」ジョナサン・スィフト(1710年12月26日)
そして、さらに贈り物の文化はサンタクロース的なものの存在からの贈り物の風習へと変わっていくのだ。
{サンタクロース的なものとしたのは、クリスマス男(ヴァイナハツマン)やクリストキント(少年のイエスキリスト)など、聖ニコラスが原型のサンタクロース以外にも似たような存在があるからだ}
5) クリスマスはやっぱり異性と!?❤️❤️❤️
日本のクリスマスは恋人と過ごす日になってしまっているとして非難されることがあるが、17世紀のアメリカ植民地でも似たようなことは起きている。
「パーティーで飲酒と賭け事のあげく乱闘になるのはよくあることだった。
そのようなパーティーでは若者が自制心をなくしやすかったと思われる。
果たして、若者がクリスマスシーズンに自制心をなくしたのは明らかだった。
九月、十月は私生児の出産率が妙に高かったのだ。
前年のクリスマスに何が起こったか、想像がつくというものである。」74頁
6) とんでもない無言劇の伝統!?
クリスマスシーズンのイベントとして無言劇や仮面劇、幕間狂言が興じられたという記録もある。
それは食事会の席や夜間の路上でも行われていた。
そうした劇を取り締まる布告の記録が残っている。
しかし、そのほとんどは清教徒の改革によってアメリカやイギリスで消滅していたが、カナダのニューファンドランドに入植した人たちの中で少なくとも1962年にはまだ古い姿のままで残っていたらしい。
そして、通常の舞台のようなものやキリスト教にちなんだ受難劇や生誕劇もあるが、次に紹介する3つのものはなかなかぶっとんだお騒がせな無言劇!?である。
①クリスマスにハロウィン!? 〜カナダのニューファンドランドの無言劇〜
「ニューファンドランドの一部の地域では無言劇は「ジャニーイング」と呼ばれ、大人はビッグジャニー、子供はリトルジャニーに扮し、衣服や布を何枚も重ね、袋や布や仮面で顔を隠し、つくり声を出しながら町を歩いた。
六世紀にある神父が憤懣やるかたないようすで書き残したのとちょうど同じように、男性が女性の、女性が男性の服装をするのも決まり事だった。棒の先に馬の頭がついたホビーホースとロに牙のある仮面をつけた跳ね馬と呼ばれる仲間たちが、ジャニーと一緒に歩くこともあった。
ジャニーたちは「無言の歩み」という一定の型にしたがって踊るようなあるいは身ぶるいするような身振り手振りをしながら小走りで進み、鍋をガンガンたたいたり楽器を鳴らしたりしながら家々をまわった。
ジャニーがやってくると、その家の者はジャニーが誰か当てようとし、ジャニーは正体がばれないようごまかすのだった。
食べ物と飲み物をふるまわれ、歌ったり踊ったりが終わるとジャニーは次の家に向かう。
余興として多少のいざこざもあった。
ジャニーは正体を探ろうとする住人を近づけないために杖をふるうことがあり、住人は偶然をよそおってジャニーをつまずかせ、仮面を落とさせようとすることもあった。」29頁
これはもはや舞台などではなく、家々を回ってご馳走をもらいトリックをしかけるお化けたちなのである。
ところで、ジャニーって何者なのだろうか?何の説明もなかったが、おそらく正体不明なものということだろうか。
② あまりに酷いクリスマス・ピンポン・ダッシュ!?
クリスマスシーズンの無言劇の伝統にはもっとすごいものがある。それは拳銃を発砲するというものだ。
発砲ということそのものは騒ぎのときにクラッカーや花火の感覚で使われていたようだ。
「1773年アメリカの神学生「フィシアンは、クリスマスイブとクリスマスの朝、近隣のいたるところで銃が発砲されたことに驚いている。
あちこちで発砲してまわることは、多くの文化の伝統行事だった。
ニューフランスでは、発砲が教会の礼拝と一体化していた。
ケベックでは深夜のミサのさい、大砲が発射された。
もっともほとんどの場合、発砲は儀式の正式な一部ではなく、若者たちの憂さばらしにすぎなかった。
スイスでは、聖ニコラスの日のサミクラウスの行列は、角笛とベルとピストルの音に満ちている。
スイスのある州では毎年十二月五日にベルとピストルを手にした少年たち聖人を追いかけて村中を走りまわった。
スウェーデンでは発砲でクリスマスを「招き入れて」いたー
男たちが近所の家に忍びよって拳銃を発砲し、誰のしわざなのかわからないうちに走り去るのだ。」77頁
初めは礼砲という意味だったのかもしれないが、クリスマスシーズンにピンポンダッシュならぬ、発砲ダッシュとは何とも迷惑な話ではないだろうか?
③ サンタなみの住宅侵入?!
彼らの言う無言劇とはいったい何なのか?
「人気を博していたこれらの伝統に共通するもっとも重要な点は、誰もがそのルールを知っていたことだ。
ルールが理解されていれば、それは無言劇であり、ワセイリングだった。
ルールが理解されておらず、一方の側が目の前で行われていることの意味を勘違いすれば、それは破壊や不当な侵入や脅迫による強盗のように見える可能性があった。
さまざまな背景をもつ移民が住む植民地では、誤解が生ずることはめずらしくない。
一六七九年、オレゴン州セーレムで四人の若者が、歌を歌い、酒をよこせと言いながら一軒の家に侵入した。
おそらくこの四人は、梨酒の製造と無言劇の伝統があるイングランド西部の出身だったのだろう。
そしてその家のあるじは別の土地の出身だったのだろう。
彼は「今日はクリスマスだから・・・・・・陽気に騒いで梨酒を飲むために来ただけだ」という抗議を無視して、四人を追い返した。
せっかくのクリスマスのお祭り気分を台無しにされた腹いせに、四人は大声で叫び「石やら骨やらを」投げてその家のしっくい壁に傷をつけ、フェンスを倒し、屋外の貯蔵庫に乱入して「五、六箱のリンゴ」を盗んだということだ。」
ハロウィンにも似たような馬鹿げた事件が起きていたと聞いたことがあるが、クリスマスも、とはね!
このほかにもクリスマスの風習についてはたくさんあるが、今回はここまでにしておこうと思う。
(またツリーやキャロルやキャンドルやサンタクロースについても機会があれば書きたい)
まとめ ~ヘブライズムよりもヘレニズム寄り~
さて、最初に説明したように、ローマ帝国のユリウス2世が12/25に降誕を祝えとの布告を出したのが最初だとされる。
しかし、もともと12/25はローマ帝国で流行っていた別の宗教ミトラ教の神ミトラスがこの地に降臨した日として祝う習慣があった。
現在、ミトラ教についての資料が悉く残っておらず謎に包まれているところを見ると、ローマ帝国のミトラ教からキリスト教へと置き換えていく政治的な意図があったのではないかという疑念もある。
しかしながら、そもそも人々はクリスマスが設定されてその最初から厳かではなく、酒を飲み暴食して踊ったり淫らなことに耽ったりする祭日となってしまっていたことが今回わかった。
実は、クリスマスが祝われるようになる前にすでに年末年始は祭りづくしだったらしい。
12/17〜12/24までは農神サトゥルヌスに供物をして祈るサトゥルナリア(農神祭)。
12/24の日没から12/25の日没まではミトラ教の冬至祭。これは太陽神ミトラが聖なる牛を屠ることにちなんだ聖牛供犠の儀式が行われていたらしい。
1/1〜1/3これは日本における三が日だが、ローマでも新年の祝日カレンズとして新年を祝っていた。
「その間人々は建物を緑の枝や葉で飾り、ご馳走を食べ、酒を飲み、レースや行列を見て楽しんだ。
そして花輪や花冠や「幸福な新年を」という文字をきざんだランプを贈りあった。」8頁
こうして、もともと祭りの多かったこの時期にクリスマスを後から付け加えても、実質内容はあまり変わらなかったのではないだろうか。
次のことは憶測だが、
その当時、12/25は冬至で、人々は収穫も終わり、十分に蓄えがあって仕事もなく、憂さ晴らしをするのにこの時期はちょうどよかったのではないかと考えられる。
冬至は最も太陽が出ている時間が短く、人々は暗い日々に冬季うつ病になることも多い。
(太陽に当たる時間が短く、また寒くて外に出ることが億劫になり、引きこもりがちになるので冬季うつ病を発症しがちなのだとか。)
こうしたイベントは憂さを晴らすため必要なんじゃないかと思う。
だが、このお祭りは度を越すことが多かった。
そこで、それをキリスト教的な祭日にすることで、ちょっとは節制しろと戒めようとしてできたのではないだろうか。
こうしたことを踏まえると、それほどキリスト教徒のいない日本でクリスマスがこれほど受容されたのも、そもそもクリスマスが宗教的で厳かでつつましやかなイベントというよりは、憂さを晴らして、楽しもうとするローマ発祥の楽観の精神に共鳴したからではないだろうか?
それは全然、恋人同士で過ごす文化でもサンタからプレゼントをもらって喜ぶ文化でも構わないと思う。
そもそもキリスト教的なものとしての厳格さはないのだし。
しかし、それが度を越してしまうと、禁止されたり、渋谷や韓国のハロウィンのようなことが起きてしまう。
そういう意味でクリスマスも(あとハロウィンも元旦も)節度を持って楽しもう。
0 件のコメント:
コメントを投稿