2022年7月24日日曜日

水に潜りたゆたう

水を見るとき何を見ますか


水に潜る時、懐かしい記憶が蘇る

というわけでもないのに、なぜか身体が懐かしがっていた。



あまりにも日常的なもの、水。

水って、何だろうか。


火は燃え上がり、地は積もり固くなる。

これは上下の運動。


だが、風は吹き、水は流れる。

この二つは上下だけでなく、右や左に自在に力が作用しやすいかな。

風は天に、水は地に引き付けられながらも自在な感じがあるのかもしれない。


水を見てみよう。


水は流れなければ、じっくりと澱(よど)んでいく。


「流水は腐らず。淀(よど)む水には芥溜まる。」と言う。


だが、水は静寂の中でじっくりと澄んでいく。


澱みつつ澄んでいく。


水面(みなも)は、静寂の時という砥石(といし)できれいに磨かれていく。


そうして鏡は誰かを映しだす。


明鏡止水(めいきょうしすい)


静寂の水面に映る誰かの影。


そこにいるのは誰なのか?


僕が動くとそれも動く


ああ、つまり、これが僕だったのか!


そうして「僕」が生まれた。


初めて鏡を見た時、そう思ったのかもしれない。


そうして、私は触れて、私の影を求めるが、それも束の間、霧散してしまう。


私などどこにもない。

私など世界という鏡に映ったり影にすぎない。


ならば、そのまま世界に入ってしまおう。

アンダーザワールド


そうして、僕はときどき水の中に揺蕩(たゆた)う。


自分の肉体、その境界が水に触れることではっきりする。

しかし、いつの間にか水の中に溶け込んで曖昧になっている。


もう何もわからない。だから、揺蕩っている


それが水。


揺蕩っていると、いつのまにか遠い古い記憶に辿り着く。


生まれる前か、生命の源か。


母なる海が孕む。ただただ揺蕩う。


哲学の祖タレスは万物の根源は水であると説いた。

万物の根源、生命の源。


別の若い哲学者は、考えることは水の中に潜るようなものだと言った。


今日も私は潜る。長く深く潜りたい。そうして存分に揺蕩っていたい。



2022年7月23日土曜日

ダリもゴッホも大好きだった「晩鐘」

 



ダリもゴッホもフランス国民もアメリカのプロテスタントの人々もそして日本人もみんな大好きミレーの「晩鐘」






1枚目はゴッホによる模写。2枚目と3枚目はダリによるオマージュ。


ダリ曰く、この後、この婦人カマキリに、夫は食べられてしまうが、食べられたくないから自分のボッキを帽子で隠しているのだ。


このミレーの「晩鐘」は、後にナポレオン3世が評価した。ナポレオン3世はこれこそが敬虔な市民の姿だと述べて、市民の票を、つまり人気を獲得しようとしたらしい。そのため値が跳ね上がった。


そして、その後に、アメリカのプロテスタントたちがこの絵を自分たちのところで飾りたいと買い付けた。


プロテスタントたちは偶像崇拝禁止のためにキリスト教的なシンボルが作りにくく、この絵がちょうどいいと考えたらしい。

そうして、フランスとアメリカとでせりがあって、どんどん絵の値段は跳ね上がった。

アメリカが買い取ったが、後にフランスの富豪が買い戻したとか。


描いた当の本人には関係がなく、本人としては政治的な利用はしてほしくなかったのだが。


絵は食えぬ、カネが鳴るなり、権力画