2023年9月14日木曜日

不可知論について考える前に「知る」の意味を考えるべし

不可知論とは何か?


不可知とは「知りえない」「知ることが不可能」ということである。


不可知論を語る前にまず「我々は何を知りうるのか?」「「知る」とはどういうことなのか?」を考えなくてはならない。


最初から不可知について考え始めてしまうと、知りえないことはそもそも知りえないのだから、それは私にとって存在しないのと同じことだ、でよくよく考えもせず終わってしまうこともあるからだ。


不知は知らないことで、不可知は知りえないことで、未知とは未だ知らないことだが、無知とは「知る」ということがよくわかっていないのにああだこうだ述べることである。


さて、「知る」とはどういうことなのか?


私は、人間はいつか死ぬものであることを知っているというとき、


少なくとも、私は、「人間はいつか死ぬものであること」が真であることを確信している。


それも、単に確信しているだけではない。


「人間はいつか死ぬものである」ということが実際に真であり、


また、なぜ人間がいつか死ぬのかという命題の理由、それも妥当であって説得的な理由とともに知っていなければならないだろう。


「知る」とは「知る」単体では使えない。文構造上、必ず、命題を必要とする。「知る」という言葉単体で考えるからおかしくなる。


知とは、何かについての知なのである。

そして、たとえば「林檎を知っている」というのはあまり正確では無い。

私は林檎がその多くが赤いことを知っている。

私は林檎が木に成ることを知っている。

私は林檎は通常、人間に食べられうるということを知っている。

このように具体化されてこそ「知っている」ことの内実が命題として示されており正確である。

我々は、林檎のあらゆるすべてを知っているわけではなく、いくつかの性質について知っているのだから。

そうすると、知らない事柄についても、たとえば「私は神を知らない」ではまだ曖昧で不正確だろう。

「私は神がいかなる性質を持っているのかを知らない」

「私は神という言葉を持ってどういう存在者を指しているのかを知らない」

「私は神が実在しているかどうかを知らない」

やはり正確にはこのようにはっきりと内実を示すべきだろう。(不可知について考えるときもまた同じである。神の実在についての不可知なのか、神の性質についての不可知なのかなど、具体的に考えるべき)


そういうわけで、

命題は「〈AはBであること〉を知っている」というような形である。(他にもあるだろうか?)


AはBであるということを”知っている”とは


AはBであるということを私が確信しており、


実際にAはBであり、


なぜAはBであるのかの妥当な理由を私は説明できるということを含意している。


AはBであることを私が確信しているのでなければ、私は知っているとは言い難い。確信が揺らいでいるなら、「知っている」という表現ではなく、「そう推察する」とか、「そう思う」程度の表現が妥当である。


そしてまた、実際にAがBであるということを含意しているでなければ、「知っている」のではなく、単に「誤った思い込み(信念)」である。


最後に、なぜAはBであるのかの妥当な理由を私は説明できるということを含意しているのでなければならない。

そうでなければ、知っているわけではなく、たまたま真であった思い込みであるから。


こうして「知っている」とは、「正当化された真なる信念」であると言える。


するとこのうちどれかひとつが不可能であれば、それは「不可知」であるということになる。

そして、大抵の不可知は、「正当化された」というところ、妥当な理由が述べられえないときである。



ところで、究極の不可知について考えることがある。

究極の不可知なものは一部が知りえないとかではなく、すべてが不可知ということらしい。

とすると、それはもはやなんら理解することができないはずなので完全な「無」であるとも言える。

しかし、それはもはや考えることすらできないものなので、もうその究極の不可知とやらは不可知ですらなく、不可思惟。

そもそもそういうことに関しては「それは知りうるかどうか」ということの問いの意味をなさないのだから。

問題は、その究極の不可知についてなぜ主張したがるのか?だ。


完全なる嘘つきににている。

嘘つきってほとんどは真実を言っていて、一部が嘘だから意味があるのであって、すべてが完全なる嘘ならば、そもそも意味そのものが成り立たない。


「私はパイロットである」という言明はたかだかひとつの嘘が含まれているにすぎない。


完全な嘘はあらゆるすべての言明を嘘で並べ立てなければならない。ひとつも真実をふくまずして。


私は女で、人間ではなくて、生きていなくて、空気を吸っていなくて、生命体ですらなくて、言葉をしゃべれなくて、嘘をついたことがなくて、真実を述べたことがなくて、火星にいて、1900年に生まれて、一度もこの世界に生まれたことがなくて、死んでいて、動詞で、しかも、りんごで、物質ではなくて、…マジで意味不明。


まあ、そういう言明が可能だとしても、それがなんなのだろう。

究極の不可知もそんな感じ。


嘘つきが一部しか嘘ついてないからと言って、嘘が成立していないとは言えないだろう。

そもそも正直ベースの上に一部成り立つのが嘘。

同様に、知のベースの上に限界点として不可知があるだけ。


どちらかというと、単なる不可知から、その究極の不可知にまで到達してしまう思考過程が大事かな。


不可知ではなく、思惟の限界としての不可思惟ならまだその先の地点に行けそうと思う。


カントは不可知までだが、ヴィトゲンシュタインは不可思惟までやってる感じはある。

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