2019年5月9日木曜日

川端康成の「眠れる美女」から  サルトルによる「死」へ


映画のワンシーン

 たまたま「スリーピングビューティー ~禁断の悦び~」という映画を見たが、Yさんの指摘でそれが日本の文豪、川端康成の「眠れる美女」の映画化したものだったのだと気がついた。以下は、その際のYさんとの会話である。

「スリーピングビューティー」は微妙だったかな。まさかあれが川端康成原作小説だったとはww



微妙でしたか笑
でも女優さんきれいでしたよねー😊
川端康成の小説にはあまり共感はできないですけれども。



川端康成って、
なんというか、高校の時の受験勉強で川端康成の「鈴虫とバッタ」の一部が出てきていて、それが最初の川端康成との出会いだったんだけど、
文体に特徴があって、読んだら、あゝ川端康成だなってわかるw

題材としては
「スリーピングビューティー」(眠れる美女)もだけど、芸妓や娼婦などそういうのが川端さん好きよね〜。

文体としては
川端康成って、ガラスや灯籠、障子などに、映り込んだ影を使って、相手や自分の心情などを描写していくのが好き。

ていうことは感じていたけども‥。
確かにあんまり共感はないな〜。



そうそう、川端康成は、変態っていうイメージがあります(爆)
そこの表現方法に着目するなんて!読んだときはそこまで見てなかったなぁ
お芝居をしている方は違いますね😉



変態ww言っちゃった~



言っちゃいました(笑)



Yさんは「眠れる美女」のほうはどう思った?雪国よりもよかったんでしょ??





雪国よりは、好きでしたよ!
映画もまあまあ、特に終わり方が良かったと思いました!

感想文を書いたのがあったので、送ろうと思ったんですけど、ネタバレになっちゃうけども、これがその感想です。

眠れる美女 川端康成
「悪はない」宿屋の女のこの言葉には、ある意味で、嘘がないだろう。「眠れる美女」にあるものは、事実、そして哀しみである。江口老人は、「眠れる美女」に、何を見たのだろうか。
 江口老人が訪れる秘密の家は、眠り続ける美女の隣で夜を過ごす場所である。老人は、決して目を覚ますことのない美女をただ眺めて眠る哀しみの中に、江口自身と、そして老人一般の老いに対する寂寞を感じる。しかし、江口は他の客と違ってまだ男を失っておらず、この異様な家での経験は特別な心境を江口にもたらすことになる。そして江口老人の心境は、一夜二夜と足繁く通う中である種の変化を辿っていく。
 三夜目までの江口は、単純に秘密の家の目的を、「過ぎ去った生のあとを追う、はかないなぐさめ」であると感じていた。その証拠に、江口が思い出すのは、彼の「過ぎ去った生」の象徴である女たちの思い出だった。
 では、生死とはいったい、どのような調子で江口に迫っていったのか。眠りと死を江口は関連付けて考える。それはなぜなのだろうか。江口は度々、宿の女に、娘たちに使ったものと同じ眠り薬をせがむ。いっそ隣で死ねたら本望だと考える。それは江口の死に対する軽い憧れであった。神戸の女が江口の心に喜びを残した「死んだように眠ってしまったわ。」という言葉が、隣に眠る娘と相まって彼を駆り立てていたのかもしれない。
 しかし、五夜目、「黒い娘」の実際の死を目の前にした江口は、臆病と恐怖に支配される。ここがこの物語のクライマックスだ。「黒い娘」は、黒光りした少女で、その野蛮さが江口に「いのちそのもの」の印象を与えていた。その娘が、老人である江口より先に、それも江口の目の前で死んでしまった。生死は循環するものであり、「自分が死んだあとにも温かい血をかよわせて生きていくもの」と感じていた江口の了見を一瞬のうちに根底から打ち崩してしまったのだ。ただでさえ気折れする江口に、宿の女は言い放つ、「もう一人おりますでしょう。」、と。そこで結局、秘密の家での老人と眠る娘との交流で感じた各種の哀しみが、単なる茶番であったことを思い知らされたのだ。「もう一人」の方の、生の象徴である輝く「白い娘」を見て彼が感じたのは、そこにただ生きている、という事実だ。そして、何より、自分が生きてそれを見ているという事実なのだ。
 本当は死と眠りは関係ない。つまり、「眠れる美女」に象徴される眠りと、老人に潜む死の予感を真につないでいるのは、むしろ生だったといえる。江口がそこに関連を見出していた真の理由は、彼自身が生きているからなのである。生の圧倒的勝利を、最後に私は江口老人とともに思い知らされた。



なるほど〜、深いですねぇ
映画では、色白の少女の視点で描かれていました。
フランスの監督には、そこまで読み込めてなかった感じがありますね。
読んでいて、サルトルを思い出しますね。彼の「生は醜い」という洞察。

サルトルは存在よりも無を。生よりも死を。有機的なものよりも、無機的なものを見て安心するという感覚を描き出すので。
フランスの実存哲学者サルトル

だから、「嘔吐」なんて書くんですね。嘔吐っていうのは存在者の存在そのものに吐き気を感じるという話なので。(註:「嘔吐」:サルトルの著作、実存主義的な小説)

川端康成がサルトルを読んでいたかわからないけども、こうした一連のサルトル哲学に、「眠れる美女」は、生の圧倒的勝利というサルトルに対する結論を提示しているようなそんな感じがするかも。



なるほど!たしか「嘔吐」も終わりがクライマックスですよね?読んではないのですけど💦笑
存在への不安っていうのも結局生には勝らないですもんね?😁サルトルは「死」についてはどう考えてたんでしょう?



サルトルについては、Yさんはどのくらい知ってたっけ??



サルトルは実存主義で人間は自由という名の刑に処されていると、それくらいしか><



そうそう、「人間は自由という刑に処せられている」っていうのあるね。

あとは「即自、対自、即自かつ対自」
という3つの概念なんだけれども、これはもともとはヘーゲルが体系化した概念で、

ドイツ語では
即自 an sich、アンジッヒ
対自 für sich、フュールジッヒ
即自かつ対自、アンウントフュールジッヒ

フランス語では
即自、en soi、エンソワ
対自、pour soi、ポワソワ
即自かつ対自、en et pour soi

すべてのものは、即自(正)(まず自分がある)→対自(反)(自分を否定するものが現れる。たとえば他者とか)→即自かつ対自(合)(両者が統合され再構築。)という過程を経て、徐々に完全なもの(絶対精神)へと近づいて行くとした。
これをヘーゲルの「弁証法」といって、多くの哲学者たちが影響を受けてきた。



説明ありがとうございます
興味が湧いてきました✨
ヘーゲルの体系化した思想を、サルトルも引き継いでいたんですね?



そうそう!
サルトルはヘーゲルの概念にあやかって存在を2種類にわける。
即自存在
対自存在

即自存在とは、道具などの物のことで、予め、目的や用途が定まっている存在者。

対自存在とは、予め目的が定まっていない存在で、人間のこと。

このあたりから、人間は自由であるけれど、予め目的があるわけではないので、生きる目的について悩んでしまうという。
これが「人間は自由という名の刑に処されている」ということらしい。



実存主義!!
そういう分け方なんですね

実存は本質に先立つ、から自由の刑に繋がるんですよね



その通り

人間について理解するのに重要な概念が2つあって、この辺りはハイデガーからの流用なんだけども

被投性(ひとうせい): 人間は自分の意思で生まれるのではなく、突然気がついたら世界に放り出されていること。

投企(とうき): 自らをまだ挑戦したことのない未知へと意思を持って投げうつこと。

被投である人間が、投企することで自らの存在を確立して行くこと。
つまり、そういうのが実存で。
実存は本質に先立つということ。

ちなみに、即自存在には動物やおそらくは女も入っている。子を産むという目的が予めあるということでww

その「対自存在」に女も入れよと言って本まで書いたのが、サルトルのカノジョさん。
⬆︎(なんかリアルwww)



分かりやすい説明ですね。ありがとうございます。
投企することで、存在を確立するというところは、ハイデガーを思わせますね!
女性は対自存在に入ってないなんて😱
彼女が言ったのですね笑
子を産む目的は男性も同じだと私は思いますけど😅



そのカノジョの名前はヴォーヴォワール!
聞いたことない??
ジェンダー論やフェミニズムの大家

シモーヌ・ド・ボーボワール

ヴォーヴォワール!フェミニストの!
サルトルの奥さん?になった人でしたね
すごいカップルですね!



そう、その人!!

ただハイデガーと似てはいるものの違う部分がある。ここでようやく死について語れる。

前期ハイデガー(存在と時間の頃)は、人は死を覚悟することで(先駆的に決意することで)本来性に回帰できるとした。

しかし、サルトルは、人は自らのしたいこと、すべきことへと投企することで、自らの存在を確立するとした。サルトルにとって、人生における死とは、偶発的事故なものに過ぎなかったんだ。



少し分かってきました^^



ハイデガーは現存在は死で完結する。有限だから遡って実存を確立する。生きる意味を見出す。



サルトルは死と生は切り離していたんですね。ただ死は偶発的事故として引き受けているだけだと。可能性が生に含まれているだけともいえるでしょうか。
有限とは死のことではなく、自由に行為を選ぶことで、それ以外の可能性を捨てることだと。なるほど〜。
ハイデガーより積極的な存在の確立の仕方ですね。



Yさんのいう通り、選択によって、他の可能性を切り捨てるという意味での有限というのは1つの死であると言える。ただ、可能性という次元でサルトルが考えていたかどうかはわからない。

ウィトゲンシュタインとかイギリスの論理学言語学系の哲学者のほうが、可能性という語について意識的に考えていたかもしれない。

サルトルはむしろカント的な自由意志への問題意識という意味で、可能性について思い巡らしていたようだ。
自由な主体を重視しているので。



可能性とまではサルトルも考えてはなかったんですね…
あくまで偶発的な事故だと

そうですね!カント的な自由意志を感じていました。サルトルも人間が自由な選択ができる存在だと言いたかったのでしょうね
サルトルも好きな哲学みたい、もっとやっておけばよかった(笑)



一旦まとめると、

●前期ハイデガー
「普段、人間は世界に投げ込まれてしまっていて、さらに日常的な生活や必要なことに埋没してしまっている(ダスマンという)が、自分はいつかは死ぬんだと覚悟(先駆的決意)したとき、本当に自分がしなければならないことを自覚することができ(本来性)、何かに向かって投企する。ただし、存在はあっても主体なんてない。存在が先に既にまず【ある】ということを考えろ。」

●サルトル
「特に物事を知っている知識人によって、芸術や活動によって政治に参加していくこと(アンガージュマン)で自由な人間(対自存在としての人間)の力を発揮できる。それは個人の人生の終わりによって完成されるのではなく、後々の歴史によって現れてくる。自由な主体を重視。」

サルトルの思想のこうした歴史主義的な部分はもう1人の人物の影響による。それは、社会主義共産主義で有名なマルクス

彼は次のように述べていた。
「人間は、本人自身はなんでもなく、むしろ彼が作った作品(work)によって、歴史的な継起によって自らが誰であったのかが分かる。そう言う意味では、精神より物(生産する技術力など)が先(唯物論)。資本主義は、分業によって作品自体から人間を離す(疎外する)ようにしてしまった。それを取り戻すため、今こそ、労働者が団結するときだ!」

即自存在と対自存在について

即自存在(もの)はそれ自身で目的を持ち、それだけで完成されており、自存している。
しかし、対自存在(ひと)はそうではない。それは対自存在には自己自身の否定、すなわち虚無が入り込まれているからだ。これが自由と自由に対する不安であり、ハイデガー流に言えば、生と死への不安である。

しかし、実はあらゆる存在が対自存在として存在しうるのだと思う。その可能性を示唆しているのが、存在そのものの虚無に吐き気を感じる「嘔吐」の表現なのだと思う。
だから、もちろん、その虚無とは、現実的な死のことではない。

より分かりやすく考えるため、カント的に即自存在と対自存在を考えるとどうだろうか。
自然界の物質は、すべて因果律によって支配されている(と認識されるしかない)。カント的に即自存在を考えるなら、因果律によって支配されたあらゆるすべての物質を自由でないがゆえに即自存在と呼ぶのだろう。
一方、人間はその身体(感性的な主体)は、自然界の因果律に支配されているとはいえ、主体それ自体、(あるいは物自体)に関しては支配されているかどうかは認識できない(純理参照)。
しかし、カント的にいえば、人間は自由を観念できるがゆえに、自由である(実践理性批判参照)。

サルトルは物自体を認識できるとは言っていないが、しかし、物を自然界の因果律やその名前などの意味から切り離して見えるとき、吐き気を感じるという仕方で物自体に迫っているのだと言える。
ただし、物自体は即自存在ではないにしろ、対自存在とも異なる「存在以前」の意味合いを持っているだろう。

この辺までくると、ようやく川端康成との関連が‥見えてこない??



川端とサルトルの関係でしたね。なんだか到達したい所に行き着いていないような、もどかしい気分でいました。紙に書いたりして考えていました。笑

対自存在としての(生きている=実存している)人間が自由な力を発揮することで、個々の本質は決まってくる。そこに死は偶発的な事故で関係ないのだ。というところで、川端が注目した(個人的な見立てですが)生の圧倒的勝利というところに、通じていると考えられますか?
物自体については、サルトルはそのように迫ったというの、賛成です!それが吐き気を催した原因なのでしょう。。

哲学のお話するとやっぱり楽しいですね☺️



江口の抱いた眠りとしての死への憧れ→未来の死→幻想であり、概念としての「死」
(あるいは「死んだように眠ってしまった」という言葉から、眠りを死と錯覚した。眠りを死と紐付けた。)

江口の抱いた美女への執着→過去の生→死んだ記憶であり、概念としての「生」

江口自身→私は彼女たちよりも早く死ぬ→彼女たちよりも死に近い

眼前で死んだ野性的な女→死への恐怖、臆病→ 今までの生とは断絶して不意にやってくる絶対疎外としての死そのもの(物自体的)

眼前で眠る美女→過去の生ではなく、現に今、目の前で生きているという事実

江口自身
 →「死」や「生」についてさまざまに考えること自体は茶番のようなものであり、そうした茶番を演じることが可能なのは私自身が現に今生きているからだと初めて認識する。つまり、眠りや美女や生や死といった即自存在に対して対自存在(私)がさまざまに考えるという投企をしてある一定の理解をして(即自かつ対自)いたものの、その投企している自分自身に立ち返ると再び私自身の物自体(対自存在はそのものでは虚無である)へと回帰する。
→私は死からはあくまで断絶されており、彼女たちより死が近いかどうかなどそもそも考えること自体が幻想である。
→ただし、存在そのものへと回帰することによって自由という不安を感じ、ひどい場合には吐き気すら感じるのがサルトルだが、江口はどうなのだろう?

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