「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
2020年11月24日火曜日
芸術や日本に関する雑多なことをとりとめなく
オルテガ・イ・ガセットの「芸術の非人間化」
純粋芸術について
芸術から、人間的なもの(ドラマ、物語、感情的なもの)を廃し、抽象され、稚児の遊戯のような、私に言わせれば抽象化はまだ人間的である、何かの抽象だから。しかし、抽象的かつそれが具象への還元が不可能なほどまで到達しなければならない。純粋芸術。芸術のみによる芸術。
ちなみに人間的な芸術とは何か?それはもちろん物語に音楽に視覚効果に言葉を駆使する総合芸術である。ヴェルディやワーグナーだろう。
非人間的な方向に進むことはできるが、完全に非人間化することは可能か?
結論:不可能。芸術が人間的であるとは、人がそこに何らかの感じというものを受け取ることであり、それが完全に廃されれば、それはもはや誰も気づかず通り過ぎなければならないのではないだろうか?
モンドリアン<ピカソ
ピカソはモンドリアンに比べ、ちょっと人間臭さを感じさせる芸術になっている。
・深いこと言おうとすると難解すぎる。簡単にしようとすると、浅はかでダサくなる。
マニアックなマジックのわからなさと物語性
マジックと哲学の融合
ポーの「盗まれた手紙」デュパン
ブランドとセンス、だささ
・私の芸術分析論
絢矢のファッションと音楽の理論→芸術とはプロポーション、関係性、配置である。
ニーチェの「悲劇の誕生」→アポロンとディオニュソスの対立から芸術が生まれる。理性vs感情
ゲーテの「ゴシック建築に関する美術論」→ゴシック建築の力強さを強調。(ロマンチシズムの萌芽)
プロポーションとダイナミクス
プロポーションは作品内在的に成立する。要するに、私との関係から切り離されたものとして構成可能なものである。例えば、富士山の絵の構成。
ダイナミクスとは力強さのことである。それはある種の私と作品とのある共鳴である。例えば、富士山の絵の富士山そのものの雄大さ。ただ富士山そのものの雄大さは、意味的な側面や、絵の構成によっても形成される。意味についてはダイナミクスの方に入るかどうかは検討中であるが、絵の構成についてが問題だ。プロポーションとダイナミクスの関係はなかなか切り離せず、この富士の絵の例も不適切かもしれない。そこで私なりにダイナミクスだけで取り出せしやすいものを考えてみた。例えば、光そのものはどうだろう?光は確かに闇との対比によって強調されるものだが、光そのものは無条件に他の何かとの関係を考慮することなく、力を感じさせるものであると言えるのではないだろうか?
ところでプロポーションについては数値化可能である。客観化可能であり、関係性が作るものである。一方でダイナミクスは主観的であり、したがって説明し難いものである。
ところが、プロポーションにおける美は実はその構成の内にみせる小さなダイナミクスに魅せられているのだと気づくだろう。つまり、最終的にはすべてはダイナミクスに移行するのである。
・現象学斎藤慶典「知ること、黙すること、遣り過ごすこと」全ては現象である。=何らかの形を持って現れる。反復と過剰→あらゆるものはすべて芸術である。
美術館よりも散歩のほうが感性を磨くことができる。
なぜなら、美術館では、「これが芸術だ」と提示されたものを見せさせられているけれども、散歩では私が積極的に見出さなければすべてを芸術として見ることも芸術でないと見ることもできるからだ。
そこで私は「私の出会うあらゆるものは芸術である」という意識で散歩を始めた。そうすると本当にあらゆるものが芸術として現れるようになったのだ。
恋愛についてだが、私はどんな女性でもその女性に美しさを見出すことができると思っていた。私の受け入れの幅が大きいだけなのだが。
同様に感性を研ぎ澄ませれば(理論上は)なにものにも美を見出すことができるはずである。
ところで、どこか忘れてしまったがアリストテレスは次のように言っていたようだ。本当に芸術に深く親しむようになると、芸術は奏でるよりも深く聞きほれるようになると。
私は、むしろ芸術を奏でる、芸術を創作することは最も芸術から離れた所作であると考えていた。芸術が好きなのであれば、必ずそれを感覚し享受することが第一に来るはずだ。自己満足で終わるべきものではないのか?自分自身で楽しんで終わりにせずに他人にそれを提示すること、それは自己顕示欲の表れなのではないか?それは他者に対する自己の提示、自己主張なのであって、芸術とは無関係のものだ。というのも、芸術はあまりにそこらじゅうにあふれているので、それに気が付けば、他者への自己の欲望の達成以外には何も創る必要性に駆られないはずなのだ。
こうして、時代とともに現象学は受容理論とも相性よく、作者から読者や作品それ自体へと重心は必然的に移行していくのだ。
マルセル・デュシャンのレディメイドの作品「泉」を私はこう解釈する。我々は美術館や画廊という場所にある特別性を見出してきた。つまりは美術館・画廊とは芸術と出会う特別な場所であると。ところが、そうした場所に我々が常日頃見慣れているトイレの便器なるものが置かれている。我々はこれを美術品として見ることを余儀なくされる。デュシャンは美術館に置かれるということ自体が作品として置かれているものに芸術というレッテルを貼られるということを見抜いていた。
私にしてみれば、普段から接しているものから美術館に展示されているものまですべては芸術である。美術館や画廊という空間が、いやむしろ「これは芸術品だ」というくくりが美術館や画廊に行ってはじめて芸術と出会えるもの、芸術作品としてつくられた作品だけが芸術であるという狭い考えへと人々の視野を狭めるのだ。
花木の個展meetingにおいて作品から自分の日常とmeetingする。なおかつ出会った日常はすでに作品において再構成されている。そのことによって、画廊から出た後の日常が今までとは異なった見え方をするようになる。その意味において私は創作を見直した。
永井均の<わたし>というものの歴史的特異性
この<わたし>は(この唯一の<わたし>の)世界を何らかの形として捉える(あるいは構成する)何かであって、カントの用語でいえば、超越論的統覚だろう。<わたし>にこの捉える、あるいは構成するということが随伴しなければ、<わたし>が死ねば世界がなくなるということが成り立たない。
一方で永井均は通俗的道徳に関して、私はなぜ道徳的でなければならないのかと問い、道徳的でなければならないことの道徳的理由は提示できず(むしろ提示してもその理由を求めることとなり)、没道徳的理由(私の利益になるから道徳に従う振りをする)に還元することしかできないとした。
ところが永井均は通俗的道徳についてそれを糾弾したが、それに代わる何かを提示するようなことはしない。
ヴィトゲンシュタインは、語りえぬことについては沈黙しなければならないとしたが、彼は神や宗教について切り捨てたのではなく、むしろ信仰に熱いからこそそれについての真理を語る言葉が存在しないことに葛藤していただろう。
ニーチェはキリスト教的道徳に代わる貴族道徳や力への意志といったものを提示した。ニーチェなら道徳を改変する方向へと行動するだろう。
私が考えるに彼らと永井均との違いは、西洋的伝統である「強い意志」の系譜だろう。
もちろん古代ギリシャまでさかのぼることはできるが、認識論の論争をカントが調停したその後、つまり、ヘーゲルとショーペンハウアーがその代表にできるのではないか。(ただカントも善意志を提示しているが、意志に関して論の作りこみが弱いように思われる。
ヘーゲルからマルクスに至っては、実際に世界を変えてしまおうとするこの強い意志から、「行動」「革命」「団結」といった共産主義へと繋がる。
一方ではショーペンハウアー、ニーチェ、バタイユ、フロイトが自己を欲求あるいは意志とし、自身の行為や認識、それどころか世界までをも支え、生成させるものとした。
分かりやすい対立で説明すると、自己を何として考えるかというところに現れる。
永井均の<わたし>というのは、「自己とは視点(統覚)である」ヘーゲルからすれば「自己とは意志(欲求)である」ということなのである。
ほとんどの哲学者はこの意志について関心をもっているのに、永井均だけはそれが抜けているように思われるのである。
続いて、この「自己とは視点(統覚)であるという考え方は日本固有のものなのではないのかという私の仮説があり、大切なことなのでそれを説明する。
景観論について。
ドイツでは伝統的景観に関して法律があり、守られている。日本はそうではない、日照権ぐらいはあるがこれはまったく伝統的景観とは関係がない。
日本では、例えば少子高齢化によって祖父母が亡くなり、家だけが残った場合、ただでさえ固定資産税がかかるのに相続税がかかり、家をつぶして更地にしたほうがお金がかからないのである。そうして更地は売られ、儲かるマンションが建てられ、景観は壊れる。一方でドイツではそうした住む人のいなくなった家を再生させるために補助金が出たりするそうである。
ここで大事なことは日本の法制度が伝統を守るとか守らないとかいうことではなく、そもそも伝統について何も考えないということである。しかし単純に非難できないのは、それが日本の日本人らしい考え方かもしれないからである。つまり、日本人は家屋は建築するものであるという認識があるのだが、歴史や景観や道は建築するものではなく、自然にできるものであるという考えがあり、法制度や行政システムから建築されるものであるという認識が比較的低いのである。
西垣通の日本論
西垣通は第五世代コンピュータの開発が失敗に終わった原因を、日本の技術力ではなく考え方であると見抜いている。日本は輸入されたものを受け入れそのまま処理速度、解像度、効率性において精度を上げ、あとは日本に受け入れられやすいように開発を行っていく。日本独自の開発がないわけではないが、特にコンピュータの開発においては日本と西洋の違いが如実に表れた。
西洋では最初の電子計算機の構想つまり、チューリングがエニグマを自動的に解読する機械を開発するときから、人間の頭脳や言語の構造について考え、人間の構造についての理解と発想がコンピュータの開発に関わる。ところが、日本ではいかにしたら論理回路を直列ではなく並列につなげることができるかどうかに焦点が向けられていた。日本の焦点は明らかに間違っている。直列から並列につなげられるようにしたところで根本的な考え型が変わるわけではない。むしろ、根本的な思考というものの本質から考えるべきなのにそれをしなかった。そのことによって、第五世代コンピュータは並列につなげることには成功したものの、大した成果は得られなかった。
村上隆の日本論
村上隆は日本の絵画業界を大方次のように批判する。客観的に評価しようとするニューヨークの批評に比べて日本の批評雑誌は主観的で曖昧な評価をつけるものが多い。それはこの日本の絵画業界では、アーティストを批評することで世界に通用するアーティストを育てるということを目指すものではなく、むしろ、美術の先生や講師になることを奨励しているからである。実際、ほとんどのアーティストは教師や講師になりながら活動することがほとんどであり、展示しても身内ばかりやってくる狭い世界にいるのです。
そのために、自己完結的、自己満足に終始してしまうことが多く、ニューヨークの第一線で何が通用しているのかもわからずにいるのです。
ニューヨークではアートにおいてその歴史的変遷における立ち位置や新規性といったものを含めて考慮がなされるのですが、日本ではそういった部分に焦点があまりあてられず、むしろ、日本のアートにおいて重要なのは、そのアーティストの一生という物語に重心を置くのである。
私の勝手な想像であるが、私が高校で美術科に属した経験から鑑みると、これは芸術における公教育が実態が放任教育となっていること。画塾や芸大でも結局のところ技術力を中心に進められるということが大きな要因かもしれない。
日本芸術論において、庭というものが比べられたことがある。西洋の庭における水とは、その水に創造させ自己主張させることである。そのため、水が吹き上げられる噴水というものが考案される。
一方で、日本の庭における水とは流れるものであり、つまりは自然にある川であり、その川とその他のものとの関係性である。関係性を重視するからこそ水そのものは重要ではなく、水ですらなくてもいい。だから白い石が敷き詰められて川に見立てられるということが起こってくる。
2020年11月8日日曜日
実存主義とは何か?実存主義的な文学とは?
実存 Existentia とは本質 Essentia と対立する言葉で、
本質とは「〜はーである」というようなその事物の本質を述語づける定義のようなものです。
一方、実存とは「〜は現にそこにある」というような事柄です。
「ユニコーンは角がひとつだけある馬である」によってユニコーンの本質は示されますが、現にユニコーンは存在していないので本質はあっても、実存していないと言えます。
「〜は現にそこにある」というのはそれの本質がわからなくても、とにかく「ある」と示せるがために、実存は本質に還元され得ない、還元しようとしても溢れてしまうと言います。
2020年11月7日土曜日
再び、孤独が私を訪れる
この感覚は久しぶりだ。私は再び孤独を感じるようになった。
それは課題、やらなければならないこと、こえなければならない壁、責任のようなもののせいだろう。
「孤独であって充実している。そういうのが人間だ。」
これは岡本太郎の言葉である。
人はひとりでは生きられない
責任がなければ、すぐに堕落してしまうのか。
尊大な羞恥心と臆病な自尊心、そして、怠惰を誘発する「めんどくさい」という感情のためか。
人をまきこんで責任・約束・契約にしてしまう。
しかしまた、それにひとりで向かい合わなくてはならない。
「犀の角のようにただひとり歩め」と仏陀は言った。
甘え、甘えたい。甘えられないから甘いもの。
スィートよりスィープを!清潔に!
疲れたが、めんどくさいが、やらなくては。
だが、話したい。誰かと話したい。
話したいという欲求。誰かに聞いてほしいという欲求。だれでも良くはない。理解してくれる誰か。理解してくれるフリではなく、理解してくれる誰か。それをとにかく求めている。しかし、何を話すのか?それはわからない。
人が孤独に悩まされいる時、分かろうとはしないものだが、自分が悩まされている時、やはり辛いものだなぁ。
というようなことを感じることって、みなさんはあるだろうか?
2020年11月6日金曜日
哲学的ゾンビの話 ~ピクミンは生きているか?~
哲学的ゾンビという思考実験があります。
哲学的ゾンビとは、見た目も行動も会話もすべて自然で違和感ないのに、実は、その人には心がない。
自分以外のすべての人が哲学的ゾンビならば、自分以外のすべての人は私が今感じているような「こんな感じの心」は存在していない。
例えば、針が刺さった人が痛みを感じて「痛い痛い」叫びながら、のたうち回っているが、実はそのように見えて、本当のところはまったく痛みなど感じておらず、機械的にそのような行動を取っているだけ。
そんな想像をしてみよう。
そんな想定をしても、なんら矛盾はない。
でも、ちょっと怖くないですか?他人が心のないゾンビだなんて。
しかしちょっと考えてみましょう。
ピクミンというゲームがあります。それはピクミンという生物を何十匹も育てて、何かしらのミッションをクリアするというゲームなのですが、その過程でたびたび外敵に襲われ、ピクミンはすぐに死んでしまいます。
そのゲームをする際にある女性は「ピクミンがすぐ死んでしまい、可哀そう、でも外敵を倒さないとミッションをクリアできないから、戦うしかないけれど、こんなにも死んでしまって申し訳ない気持ちになる」と言っていました。
彼女から逆に「あなたはどうか」と聞かれて
私はこう答えました。
「うーん、そのゲームをしたことはないけど、死ぬとは言っても単なるゲームのプログラムだと思っているから、かわいそうとは思わないんじゃないのかな」と私は答えましたが、相手は納得できないようでした。
つまり、そこに心が実際にあるのかどうかはあまり関係がなくて、心があるようにみえるかどうかが重要であるという人もいるのだなと思いました。
ゲームのうちではそこにピクミンの生命が存在しているのです。
その意味では哲学的ゾンビというのは逆説的に他人に心があるのかどうかは関係がなく、「哲学的ゾンビだろうと、彼は彼として、その人はその人として私に現れている」それで十分な気がします。
しかしながら、この問題は、「身内が認知症になる」、植物人間や脳死「ロボットが人間と見分けがつかなくなる」といった具体的な問題が現れた時に顕在化します。
「それでも彼は彼だ」と思うのか、「彼を今までの彼と同じ心を持っているとは思わないほうがいい」「ロボットはやはりただの機械だ」「ロボットも人格と心を持つようにふるまっている家族だ」とするのかどうか。
これは今後も当たっていくだろう問題のように思われます。
【告知】
9月26日(日)15:00〜哲学会 「”スターウォーズ”を超える怒りの哲学」 講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付
2020年10月25日日曜日
映画「世にも怪奇な物語」を改めて拝見
「世にも怪奇な物語」という映画を見た。 「世にも奇妙な物語」ではありませんw しかし、「世にも怪奇な物語」は「世にも奇妙な物語」と同じで、異なる映画監督が異なる作品を異なる仕方で撮った短編集なのです。
この三つの作品です。
「黒馬の哭く館」(くろうまのなくやかた)
「影を殺した男」
「悪魔の首飾り」
これは次の三つのポーの作品に基づいている。
「メッツィンガーシュタイン」
「ウィリアムウィルソン」
「悪魔に首を賭けるな」
では、次の作品へ 邦題「影を殺した男」原題「ウィリアム・ウィルソン」映画言語:フランス語 これはドッペルゲンガーものだが、ジキルとハイドの逆で、悪心ではなく、良心が分身となって自分の自由な悪事を邪魔するというもの。 その意味では「インソムニア」という別の映画を思い出す。その映画では、昔の罪に心を痛めさせる良心によって眠れないインソムニア(不眠症)を描いていたが。 話を戻すと、 アランドロン演じる主人公はいつも舎弟に慕われ、悪いこと、残虐なことなどを楽しむサディスト集団の長として近所を支配していた。その様子は三島由紀夫の「午後の曳航」の少年たちを思い起こさせた。 言うまでもなく「影を殺した男」という映画の見どころは美女との緊迫した賭け事のシーンがとても魅せられた。美女のほうも、彼に対抗して、かなりふっかける度量の持ち主なのだ。強い女性。なんとベベが演じていた。 そういえば、この映画で主人公の少年時代には、分身が同じ顔であることを示すために覆面させることなく顔も異なる俳優を起用していたが、青年になってからは、覆面させて同じ顔であることを隠していた。 これは少年時代に出会った分身は、実際に現れた他人であり、大人になってからは幻覚であるということを示唆しているのかもしれない。 実際に少年時代に出会った他人とのトラウマの思い出を心が作り出す幻覚へと構成してしまったとも解釈できるのだ。 邦題「悪魔の首飾り」原題「トビーダミット」原作「悪魔に首をかけるな」映画言語:イタリア語と英語 フェリーニ監督の傑作。とにかく悪魔少女といい、トビーダミットといい、さまざまなシーンがいい味を出している。ほかの作品とは違って、原題が原作と異なっているように作品もオリジナリティが高い。
2020年9月6日日曜日
アリストテレスで考える万年筆の有用性?
万年筆を愛でることに意味はあるのか?
いまやワープロの延長線上にあるものとしてのパソコンやスマホなどが広く普及し、
万年筆といった文化は廃れつつある。
万年筆は便利なものとは言えない。インクが固まらないように洗浄したり、ペン先が潰れないように気を遣ったりと、ボールペンに比べると管理が大変だからだ。
だが、特定の人々はなぜそれをあえて使うのだろうか?
✒︎利便性の追求は人間の目的ではない。
アリストテレスは「形而上学」において
「すべての人間は生まれつき知ることを欲する。(中略)そして、その或るものは実生活の必要のためのものであり、ほかの或るものは楽しい暇つぶしに関するものであるが、
これらの場合にひとは、この娯楽的な発明者のほうを、前者のそれよりも、その認識が何らの実際的効用をねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵あるものだと考えた。」
このように言っている。
生活に必要な知よりも、娯楽の知のほうが一層多いとは、どういうことなのだろうか??
私がいろいろ読んだところ、アリストテレスは、生活のために知があるのではなく、知るために生活があると考えていたところがありそうだ。
生活のための知の中でも、お金につながる知、仕事のための知というものに注目してみよう。
我々はそうした知において、効率を良くしたり、もっと効果的に稼げることなどを追及するためのノウハウを思い浮かべるかもしれない。
いまや、大学でさえ、何か生産的な結果を求められる時代になっているのだ。
そして、利便性や効率化を図るとそれだけ時間を節約でき、他の仕事に充てることができるし、ひょっとしたら、休憩時間や休日を増やせるだろう。
しかし、効率性や利便性を求めること、節約すること、省略すること、それは人が何もせずに食って寝て生活するためのものではない。
むしろ、そのことで節約できた時間や空間、お金を使って、より豊かな活動を行うためのものなのである。
そして、「より豊か」とは、効率性や利便性、節約、省略とは真逆のものなのである。
要するに効率性や利便性、節約、省略というのは手段であって、目的ではない。
なんの手段かというと、それはより豊かな生活のための手段なのである。
そうしたものの一環に有用性から離れているものとして芸術がある。
芸術には、演劇や建築、絵画などさまざまなものがあるが、美術品や工芸品というものもある。
美術品や工芸品という類のものは服、筆記用具、自転車、時計など、通常はさまざまな生活に必要とされているものだが、
それが(美的にあるいはほかの何らかの特性が)卓越した技能によって高められていることで美術品たるのである。
だが、特に美的に卓越した技術だからと言って、実生活の中でそれが効率的で便利でなければ、それはあえて使う必要などはないと多くの人は考えるだろう。
それをあえて使おうとするのは、単なる効率性や便利さ以外の何かを求めているのである。
道具というものはその語義から言って、手段である。
手段であれば、それは効率性や便利さを求めるに越したことはないのだ。
だが、そうでないとするなら、それは、その道具自体が目的となるときなのである。
故に例えば不便な古民家にあえて住もうとするのは、生活のうちで手段と看做されるものに豊かさを見出し、それ自体を目的として扱うことなのである。
✒️万年筆🖋という文化
そうした古き良き工芸品のひとつに万年筆も加えられる。
1809年9月23日、イギリスのフレデリック・B・フォルシュが、万年筆の原形となる、軸にインキを貯められるペンの特許を取得したとされている。
つまり、陶磁器や鉛筆などと比べるとそう古いものではない。
これはもともと字を書くことへの効率性や利便性を求めて開発されたものだ。
一方では、現在のスマホをさかのぼるタイピングによる文字入力の機器の歴史はどうか。
1865年、デンマークのラスムス・マリング=ハンセン(en) がハンセン・ライティングボール(en)と呼ばれるものを発明した。
これが1870年に製品として商業生産され、タイプライターとして初めて販売された。
実は万年筆よりも60年ほどしか歴史に違いがない。。それに、タイプライターもワープロも万年筆よりは少ないがそれでも一定数愛用している人々がいるらしい。
さて、
✒︎万年筆の魅力:一般によく言われているのは、万年筆は使い込みによってペン先が削れて変化し、その人の使い方の癖などがペンや字に現れてくるし、なじむことで愛着がわく。
これがおそらく万年筆に特有の魅力ではないだろうか。
これは余談かもしれないが、
また、ブランドという特質もある。それは万年筆で言えば、万年筆そのものを目的としたものではなく、万年筆を手段としてその付加価値によって人間の社会的な地位を高く見せようとするものではある。
万年筆の中でもっともよく知られたブランドはモンブランだが、モンブランの万年筆を持つことによって、持つ人の社会的地位や人々の羨望を集めることができるというものがある。
「私はみながすばらしいと思う物を所持している」と。
または、あえて、あまり知られていないブランドを持ちたがる人々もいるが、これもまた人々の羨望の裏返しの欲望に過ぎない。
それは「私は人々がその価値をよく知らないものを所持している」「君たちにはわからないが、私だけが知っている」というものだ。
(それらは皆普通に持っている欲望で特に否定されるようなものでもない。)
まあ、物の価値、ブランド力は、結局マーケティングや宣伝によるものである場合も多いが。
ちなみにドイツのシンプロ・フィラー・ペン社が万年筆「モンブラン」を発売したのは1910年のことだ。
✒︎万年筆を作ること、万年筆で書くこと、万年筆を眺めること。
ところで、芸術理論や文学理論においては「作品」や「作者」に焦点があてられることのほうが多いが、20世紀ごろから「読者」「鑑賞者」のほうにも焦点があてられるようになった。
理論という概念は英語ではセオリー“theory”、これは古代ギリシャ哲学のアリストテレスの概念「テオーリア(観想)」から来ている。
アリストテレスは「物事を見つつ考える」≒「哲学する」という意味で使っていた。
ここでは物事とは自然・人間などを中心としたさまざまな対象であるが、見つつ考えるということは、自然・人間などを読み解くという意味で読者に焦点を当てているとも言える。
実際、このテオーリア(観想)であるが、アリストテレスが彼特有の意味で使う前は、観戦とか観賞とか「(観客が試合や催し、舞台などを)見る」といった意味合いで古代ギリシャの日常で使われる言葉だったそうだ。
したがって、アリストテレスがそういう意味を込みでこの「観想」について考えていたということは想像に難くない。
そして、アリストテレスは人間が目指す最上の目的、最高の幸福は観想的生活だとしていた。
つまり、観想以外の他のもの、政治や軍事、経済はその観想的生活という目的のためのものなのである。
注: ちなみにアリストテレスの師匠であるプラトンにおいても、
[経済=生産者=欲望、軍事=軍人=気概、政治=哲人=理性]ということが「ポリティアー(国家)」において提示されている。
この中で第3のものが最上のものとして設定されており、アリストテレスはこれらの概念をさらに踏襲しつつ改変・精緻化していったにすぎない。
ここにおいて、万年筆が美術品として目指すところのものとは、それを製作することではなく、それを使用することでもなく、それを有用性とは別の意味で感受して楽しむところにある。
もちろん、万年筆の魅力としては書いてこそわかるものではあるが、それも、書かれる内容のために書くのではなく、万年筆の卓越性を感受するために書くのである。
オリンピックも同じである。
何かを得るために走るのではなく、走るということの卓越性を露わにし人々が評価し感受するために走るのである。
よろしければあなたも今一度、こうした視点を持って物事を見てみよう。
2020年8月1日土曜日
アリストテレスの思想がナチスと親和性?
アレテーとは徳とか卓越性とかいう意味を持つ古代ギリシャの言葉である。
卓越性について考える。
アリストテレスによれば、例えば最高のバイオリンは誰に与えられるべきか?それはお金を持っている人でも、貧しい人でも、チェロが弾ける人でも、将棋が強い人でも、ない。
最高のバイオリンが与えられるべきは最高のバイオリニストである。
こうしてその人のデュナミスが卓越性として発揮(エネルゲイア)されるのである。
{デュナミスとは力という意味で、アリストテレスは能力とか可能的であるという意味で使い、可能態と訳される。エネルゲイアとは、働き(エルゴン)のうちにあるという意味で、現実に作用していること、現実態と訳される。}
錬金術師の夢と、シミュラークルな贋金造り、そしてコロナによる芸術への攻撃
シミュラークルと本質?
贋金造り
金や銀などの貴金属によって硬貨が作られていた時代、贋金作りたちは、様々な手法を用いて、金に似せたものを作ろうとした。
しかし、贋金は似せれば似せるほど本物たりえない。それは贋金を構成している物質が違うからである。
彼らは金や銀に混ぜ物をしたり、別の安価な金属を使って純金や純銀にできる限り似たものを作り出そうとしてきた。
なぜなら、純金や純銀によっては贋金を作ることはできない。純金や純銀そのものがあるなら、贋金を作る必要がないからである。
だから、その末裔は本物の金や銀を作ろうと試みた錬金術師たちである。錬金術師たちはあくまでも「本物の」金や銀に拘っていた。その試みは失敗に終わったのだが。
一方、高利貸しなど金貸業者は、本物のお金を作り出すことに成功した。それも金や銀に全く似せることなく。彼らは人々から金や銀を預かったとき、預かったことを証明する証文を渡した。紙切れ一枚である。
しかし、人々は、この証文を金の代わりに何かを買うときの支払いに使った。なぜなら、その証文をホンモノの金や銀と交換することができるのだから。これがお札の起源である。
2020年7月22日水曜日
復讐の技法
悪口ってなかなか思いつけるものでもない。ばーかなどと幼稚なことをいえばこちらが笑われる。そういう意味で、言語と気迫において相手の上手に回らなければならない。
大体の場合、悪口は怒りあるいはルサンチマンに動機付けられて初めて起動する。
ちなみに、悪口も批判も冗談(ツッコミ)も自分のことは棚に上げ、プライドを保たなければならない。またあらゆる行為も同じである。すべての行為は自己を忘却する。
2020年7月21日火曜日
ラファエロの「アテネの学堂」による誤解!?
2020年7月10日金曜日
2020年7月8日水曜日
2020年7月6日月曜日
記憶と行為(無意識の行動の恐ろしさ)
2020年7月5日日曜日
2020年6月30日火曜日
2020年6月27日土曜日
2020年6月22日月曜日
アリストテレスのポリス的動物の意味とは?
Ο άνθρωπος είναι φύσει ζύον πογιτικόν.
O anthropos inä fisi soon polotikon.
Der Mensch ist von Natur aus Tier politisch.(ドイツ語)
2020年6月14日日曜日
2020年6月4日木曜日
ニーチェはルサンチマンを抱くなとは言っていない?!
一般的な意味では、強者だろうと弱者だろうと、復讐したいという感情に対して使えますが、
ニーチェはその語を大々的に取り上げて語りました。
力で歯向かい、相手を打ち負かし、強者になろうとするのが通常のルサンチマンからの反抗であり、復讐が成功すればルサンチマンは解消されます。
まあ、それがまた(復讐された人の復讐返し、という意味で)別のルサンチマンを生み、新たな戦争を生みますが。(復讐の連鎖)
2020年5月26日火曜日
カントから生命の尊厳??
カントは人間を手段として扱うなとは言いますが、同じ生命を有しても、理性がないとされている動物は手段として扱っても良いわけです。
(聖書にモーセの十戒があり、東洋では、生きとし生けるものの不殺生を説く仏教哲学がありますね)
しかし、西洋哲学としては、カント以後の、比較的新しいものに思います。そして、西洋では未だにあまり受け入れられない感じがあるのです。