2020年6月4日木曜日

ニーチェはルサンチマンを抱くなとは言っていない?!


ルサンチマンとは、復讐感情のことであり、
一般的な意味では、強者だろうと弱者だろうと、復讐したいという感情に対して使えますが
ニーチェはその語を大々的に取り上げて語りました。

一般的には、敗者が勝者に対して、あるいは損した人が得した人に対して、不公平を訴えてか、単に負けたことの悔しさにか、
力で歯向かい、相手を打ち負かし、強者になろうとするのが通常のルサンチマンからの反抗であり、復讐が成功すればルサンチマンは解消されます。

まあ、それがまた(復讐された人の復讐返し、という意味で)別のルサンチマンを生み、新たな戦争を生みますが。(復讐の連鎖)


しかし、それとは異なるもうひとつのルサンチマンがあります。
それは、キリスト教的な価値観において、弱者が強者とあえて戦おうとせず、弱者のままでいいと居直ることで、
「私は弱いがゆえに正しい」と言い張り、
「あなたは強いがゆえに悪いやつだ」と、
(精神的に)強者を引き摺り下ろすことを言います。

「あなたはズルをして得して生きようとも、私は誠実に生き、その結果、不幸であっても損しても良い」

「確かに私はあなたに虐げられた。しかし、今あなたが困っているなら、私はあなたに施そう。」

「不幸な者は幸いである。貧しい者は幸いである」聖書より

「右の頬を打たれたなら左の頬をさし出しなさい」聖書より

一般的には、それは利他的な態度であり、復讐感情ルサンチマンの無い聖人としての生き方と言われるのですが、ニーチェはむしろそこにこそ不健康なルサンチマンがあるのだと指摘しました。

ニーチェは、こうした不健康な精神はユダヤ人の気質であるとしていました。
そして、ユダヤ人は自分自身が弱者であるがゆえに実は偉いのだということを神によって裏付けようとしたのだとしています。
先ほどの「不幸な者、貧しい者は幸いである」などの文章に「なぜなら、私は死後に神に救われるから」と付け加えて完成というわけです。

これが不健康だとニーチェが言い放ったのは、このルサンチマンは、復讐そのものが死後にまで先延ばしにされるために、生涯決して解消され得ず、一生ルサンチマンを抱き続けるからです。
さらには、弱者は弱者のままでよいと居直ることで、人間の可能性は創造性のない、停滞した、悪い方へと向かってしまうと考えました。

ニーチェは、単なる復讐したいという自己中心的なふるまいではなく、むしろ、他人に親切にしようという利他的ふるまいに対して、根深いルサンチマンを見出したのです。これを奴隷道徳と呼びました。

そして、ユダヤ人の精神はキリスト教によってより一般化され広く世界に拡がりました。

そうしておいて、魂の不死、神の実在などを明証性と合理性によって証明しようとしてきました。

明証性とは、定義など、わざわざ言わずとも明らかなこと。
合理性とは、無矛盾であり、論理的に一貫していることを指します。

ニーチェは、なぜ真理を、すなわち、なぜ明証性と合理性とを必要としたのか?と問います。


それは自分が弱いから、明証性と合理性によって建立された不変の真理が弱い自分に安全安心に思わせてくれる力を与えてくれ、弱い自分を正当化できるからなのだと結論しました。


この明証性と合理性によって、自然科学の基礎ができ、
ユダヤ的精神の人々は科学という強大な力を手に入れていきますが、
皮肉にも神は存在しないことに気がつかざるを得なくなってきてしまったのだとニーチェは指摘します。

さらには、そうした奴隷道徳に基づいた社会が発展することで、神はいないことに気がついた人々は、今度は畜群になってしまったとニーチェは言います。

利他的なふるまいを集団全体で肯定することで、自分が弱者であるときには、俺に対して利他的にふるまうよう強者の他人に要求できる、それに気がついた畜群。

俺は弱く稼げないから、俺に施せという乞食のできあがりです。

そして、それがゆえにその根底には公平性を是とする価値観があり、それに基づいた損得感情や、「人の上に人を作らず」と言った価値観が根付きます。

畜群は、平等を重んじ、「人と私とは同じでなければならない」を、全員に強制することで、弱者が弱者のままであっても、強者と同じ恩恵にあずかれる世界を目指します。

神のもとに平等、神亡き後には、法のもとに平等と言われるわけです。

これが人権思想です。
自由平等博愛、そして、真理という価値観は元々を辿ればすべてはこうした不健康な奴隷道徳に基づいているとしました。

その意味で、(自由平等博愛真理という価値を含めて)神は死んだのに誰も気がついていないのだと言います。

その上でニーチェはこうした人達のような不健康なルサンチマンを抱くなと警告するのです。単なる健康的なルサンチマンは抱いてもいいのです。それは実際の行為による復讐で解消されるのですから。


「人は愛することができぬときにはそこを通り過ぎるべきなのだ」


ニーチェは、ルサンチマンを抱きたくないなら、無理をせずにそいつのもとは通り過ぎろと言います。

哲学者中島義道曰く「嫌い合うこと自体よくないかと言って、嫌いな感情を押し込めて、互いに仲よくやろうなんてせずに、むしろ、嫌いな奴は嫌いだと認めて、さらっと嫌いあって生きよう」です。


ルサンチマンを抱いても、すぐに復讐して解消してしまえばよいというのと似ています。

この辺りに関しては、フロイトが似たようなことを示唆しています。

例えば、私が相手にルサンチマンを抱いているとする。
しかし、まさかルサンチマンを抱くなど認めたくない。
すると、自我はこの感情としての事実を無意識の中へと抑圧してしまう。
自分は、ルサンチマンなどは抱かない一貫した合理的な「私」というものを保ち続けようとするのである。

しかし、その認めたくないことは奇妙な仕方で激しい現象、すなわち症状として出現してしまう。

ゆえに、その認めたくないことを自認すれば、解消するのだと。トラウマを自認

フロイト的に社会学を進めると、正義の名の下に残虐な行為が正当化され、激化していくことも、この症状の一例として加えることもできるかもしれません。


また、ニーチェは、誰にルサンチマンを抱くかを重要視します。


「怪物と戦う者は自らが怪物とならぬよう用心せよ」


この金言が示唆していることは、ルサンチマンを抱く相手を推し量っているものこそは自分と同程度のもの、自分そのものなので、批判している相手と同じレベルに下がってしまうことを怖れろということ。

ルサンチマンを抱くなら、自分の能力をはるかに凌駕する凄い理想の人物に対して抱けというのです。

そして、自分がその理想の人物を越えよと。
するとそれはもはやそれはルサンチマンではなくなり、憧れとして、尊敬する敵として扱うようになります。


そうしてさらにニーチェは友人にとっての「憧れの矢となれ」と言います。


自分の認める友から羨ましがられるような存在にお前自身がなれと。

そんな人物になると、周りからはルサンチマンだらけでしょうが、あなたがあまりにも周りに理解できないレベルで超人となれば、もはや畜群の水準では測れずルサンチマンを抱かれることもないし、超越しているあなたはそもそも蚊のように愛することができぬ者の横を通り過ぎてしまうことができるでしょう。




ちなみに、哲学者永井均はニーチェのこうした弱者がルサンチマン故に奴隷道徳を作り出したという道徳の系譜の洞察は、外れているのではないかと指摘しています。

「彼は、この種の問題を考えるとき、あたかも最初から現在のわれわれのような人間がいて、それが次に社会や言語や真理を作り出したかのように考えてしまう。その結果、せっかくの哲学的発想を凡俗な説教にしてしまうことになる。話は逆だ。現在のわれわれにはもう理解できないようなある「高貴な」者たちが何らかの必要から社会や言語や真理を作り出し、その結果、現在のわれわれのような「卑俗な」者たちが誕生した、と考えるべきなのだ。」
さらに続けて、こうした言説については語りえないと言う。

(永井均の著書「これがニーチェだ」では、ニーチェの言説をニーチェの言説自身に当てはめて考えるということもやっているかなりおもしろい本である。)

そもそも、ニーチェ自身の言説こそがルサンチマンたっぷりな弱者の原理なのですから。

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