2020年7月22日水曜日

復讐の技法

「バーカ」 

悪口ってなかなか思いつけるものでもない。ばーかなどと幼稚なことをいえばこちらが笑われる。そういう意味で、言語と気迫において相手の上手に回らなければならない。
ここに闘争が生ずる。  
大体の場合、悪口は怒りあるいはルサンチマンに動機付けられて初めて起動する。  
それに論理的思考を伴って、強力な非難となる。

(つまり根拠のある悪口もありうる。そもそもいかなる根拠なしに相手に効果的な悪口を言うことができるだろうか。不十分であっても効果的ならば大体、根拠はある。それは批判も同じである。)

さらには、類比(あるいは異化効果)を使うとこれは冗談めいたもの、つまり皮肉となる。

皮肉は人間の発明したかなり高度な怒りのテクニックである。皮肉の最もたる形が嘲笑であろう。こうした笑いは相手の怒りとルサンチマンとを刺激する。

こうして、悪口は心理学的技法によって強化される。相手がどんなことを言われればもっとも傷つくか・・。それをよく考えて実行し、相手が精神的に傷つけばそれは成功となる。

最初に、怒りあるいはルサンチマンに動機付けられているといった、また、笑いが相手のルサンチマンを刺激するといったが、悪口が成功すれば、相手に怒りとルサンチマンとをもたらす。

相手にもたらしたものが悲しみだったならば、被害者は道徳的に上位に立っている。復讐の連鎖も断ち切られるからである。あるいは、攻撃した相手を侮辱しているとニーチェなら言うかもしれない。もはや攻撃もせず、ただ悲しむのみならば、怒りを挑発したこちらが相手にとってはのような小者だったということだ。

しかしたいていの場合、結局は復讐の怒りを燃やす。

こうした心にあるルサンチマンへの刺激が悪口の到達点であることから、批判も往々にしてルサンチマンに到達することがある。このようにして批判をも、攻撃とみなされ、怒りに帰結してしまうことがある。同じことは冗談などにもある。よくお笑いの中では人が侮辱される。

つまり、悪口も批判も冗談(ツッコミ)も被害者から見ればすべて同じことなのである。では違いはどこにあるのか。もちろん、行為者の態度にある。

悪口には悪意が、批判には真理への意志が、冗談には楽しさへの追求の意志である。
しかしながら、これらはすべて見抜くことは不可能だし、自分でもどれだったのわからない。おそらく互いに混交しているのだろう。純粋批判は現実的にありえないのではないか。

結局、客観的指標は、悪意がなければ成立しないはずであるという結果としての行為から判断される。たとえば、根拠に乏しい批判や激しく戦闘的なジェスチャーなどはただの悪口であると判断されるなど。 

ちなみに、悪口も批判も冗談(ツッコミ)も自分のことは棚に上げ、プライドを保たなければならない。またあらゆる行為も同じである。すべての行為は自己を忘却する。

ただ悲しむのと同じく、自己反省的なものはなにもせずただ沈黙あるのみ。これこそが道徳的であるということではなかろうか。

ただ俺はそんな厳格に道徳的でありたいとは思わないが。

蛇のように賢く、鷹のように誇り高くありたい。2012/12/20

0 件のコメント:

コメントを投稿