「人間は社会的動物である」
よく引用されるアリストテレスの言葉としてこのような言葉があるが、ギリシャ語では
ο ανθρωπος ειναι φυση ζωον πολιτικον.
Ο άνθρωπος είναι φύσει ζύον πογιτικόν.
O anthropos inä fisi soon polotikon.
Ο άνθρωπος είναι φύσει ζύον πογιτικόν.
O anthropos inä fisi soon polotikon.
オ、アントロポス、イネ、フィジー、ゾーオン、ポリティコーン
Der Mensch ist von Natur aus Tier politisch.(ドイツ語)
Der Mensch ist von Natur aus Tier politisch.(ドイツ語)
ポリティコーン、つまり社会的動物であるというよりかは、ポリス的動物なのであり、みんながこの社会的という言葉から連想しているものとアリストテレスの意味とはおそらく異なっているのである。
では、アリストテレスのゾーオンポリティコーン、つまり、ポリス的動物とはなんなのか。それは翻訳すると社会的とも言えるが、政治的とも言える。そもそもこの言葉はアリストテレスの政治学(ポリティケー)や二コマコス倫理学の中で出て来た言葉なのである。しかし、日本語では、「政治的な」と訳してしまうと、「社会的な」という意味が消されてしまう。訳せないから「ポリス的」とカタカナでそのままにしたものが多いのである。
国家社会あるいは都市国家をポリスというため、「国家的な」「国家社会的な」と訳しているものもある。
アリストテレスの政治観はどんなものか。
二コマコス倫理学において、アリストテレスは、政治の究極目的は善であると断言している。さらには、善とは幸福のことである。それも、ひとりにとって充分なということではなく、国民全体をも考慮に入れた上で充分な幸福という意味だそうなのだ。
全ての人は良いものを目指している。たとえ、他の人からすると、悪いものを目指しているように思われても、当人にとっては良いものなのである。しかし、たとえば、盗みをすることで、当人は盗んだことで欲しいという欲求の解消という良さを目指して盗みをするが、盗みをすることにより、多くの人から反感を買うなどして、憂き目にあい、盗みはよくないということに気がつく。実際に盗みをしなくとも、物事を観察し考えればわかることなのである。
だから、アリストテレスの思想に則れば、人間がポリス的動物であるとは、政治的に都市国家の国民全体において善を目指して社会的な連関の中で生きる存在とでも言えるだろう。
例えば、政治学において所有権の話をするときには、(あと、アリストテレスの言う政治学は、内容的には法学を含むのだが)
善を目指す上で、そもそも生存していなければ、善など目指すことはできない。そして、自分の所有権によって、生活を可能ならしめるのだから、所有権は必要である。
また、奴隷について、人間が善を目指して生きるためには、生活のために働かなくてはならないが、労働によって、善について探究する時間がかなり奪われてしまう。だから、奴隷の所有は必要である。奴隷に善を探究する時間がないが、代わりに我々が社会全体の善を探究する。それは、奴隷は奴隷であるのに適した身体をしているし、自由人はそれに適した精神を持っているから。などなど(政治学の初っ端から奴隷制の正当化に勤しみ、言い訳が長いww)
こんな調子なのだ。アリストテレスにとっては、都市国家という狭い社会の中での人間的な生活の理想を掲げたという形だろう。
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