カントは、道徳において、手段として扱ってはならず目的として扱えと言っているところで生命を重視していると思えるような箇所もありますが、
実は正確にはカントは命が一番大事とは言っていません。カントがより重視したのは、ドイツの憲法にも掲げられている「人間の尊厳」です。
カントは人間を手段として扱うなとは言いますが、同じ生命を有しても、理性がないとされている動物は手段として扱っても良いわけです。
カントは人間を手段として扱うなとは言いますが、同じ生命を有しても、理性がないとされている動物は手段として扱っても良いわけです。
「命が大事」という思想は、古くは宗教における「殺すなかれ」に発端があるようですが、
(聖書にモーセの十戒があり、東洋では、生きとし生けるものの不殺生を説く仏教哲学がありますね)
しかし、西洋哲学としては、カント以後の、比較的新しいものに思います。そして、西洋では未だにあまり受け入れられない感じがあるのです。
(聖書にモーセの十戒があり、東洋では、生きとし生けるものの不殺生を説く仏教哲学がありますね)
しかし、西洋哲学としては、カント以後の、比較的新しいものに思います。そして、西洋では未だにあまり受け入れられない感じがあるのです。
それは、ピーター・シンガーに始まる「動物の権利」や、シュバイツァーの「生命への畏敬」といった周辺概念によって次第に固められていった印象です。
しかし、功利主義的な立場のシンガーはシュバイツァーを批判していて、動物は痛みを感じるが、植物や昆虫は苦痛がないので道徳的配慮はしなくてよいと言っています。
しかし、功利主義的な立場のシンガーはシュバイツァーを批判していて、動物は痛みを感じるが、植物や昆虫は苦痛がないので道徳的配慮はしなくてよいと言っています。
そのため、西洋では、苦痛からの回避への配慮はまだしも、「生命」そのものの尊重の思想は植物や昆虫も含めての生命への畏敬を主張するシュバイツァーくらいしかいないのかもしれません。
あとは、脳死などの問題に直面する医療現場において、バイオエシックスとして最近では研究があるようです。
カントにおける理性と人間の尊厳
カントの人間観として、人間は理性的な存在者でもあり、感性的な存在者でもあるということがあります。
理性的存在者とは、ゆるく言えば、言葉や論理を駆使する存在者という感じです。人間以外にも、天使や神も含みます。
感性的な存在者とは、ゆるく言えば、肉体を持つが故に、物理などの自然界の法則に支配される存在者ということです。こちらは、人間以外に、動物や植物などの有機体も含まれます。
さて、まず、何の留保なしに善と言えるものは、善意志以外にはない。とカントは言っています。
カントの言う「意志」とは、単に「〜するぞ」と心に言葉を浮かべることではなく、実際に身体的な行為に移行する原因となるもののみを指しているようです。
その上で、私は何を意志するのかと問う。善に向かって行為しようと意志するとはどういうことなのか。
3つの検討すべき点があります。
・善に向かいたいという意志(道徳的な動機)。
・善を実践し行為の結果へと結実させること(道徳行為の結果)。
・向かっているところのものが、本当に善かどうかの判断(道徳判断の内容)。
そして、この3つのものが理性から成り立っているかどうかを考えていきましょう。
ところで、「格律」という用語があります。これは自分で自分に課したルールのことです。信条のようなものと理解すると良いと思います。
例えば、「困った人があれば助けよ」という格律があるとは、その人物は、いついかなるときも「困った人があれば、助けよ」という基本ルールを自分に課している人のことです。もちろん、人間は感性的な存在者でもあるため、結果としては必ず守られているとは限りませんが。
人間ひとりひとりが自分で自分自身にこのような格律を設定することによってその人はひとりの人間(パーソン)として、人格(パーソナリティ)を保てます。
その上で、カントは自由について考えます。自由とは、「自己に由る」、つまり、自分自身を原因としているということです。感性的な存在者としての人間は、常に動物的な欲求などの自然界の因果律に拘束されているという意味では自由ではありません。
しかし、その人物が動物的な欲求に打ち勝って自然とは思えない行為をすることも、想定され得ます。それは、感性から離れた、人間の特性、理性が自己自身にルールを課して命じている場合です。自分自身を律するという意味では、これを自律と言います。
カントは、純粋理性批判の中では、自由であることの客観的真理は得られず、あるともないとも決着はつけられないと言い、彼の宗教論の中で人間が真に自由であることはかなり困難でほとんどありえないと言っています。
例えば、誰かを助ける場合であっても、理性のみでなく、自分自身の幸せ、助けることで満足を得たいという欲求が関わることがほとんどだからです。
例えば、誰かを助ける場合であっても、理性のみでなく、自分自身の幸せ、助けることで満足を得たいという欲求が関わることがほとんどだからです。
にも関わらず、人間には理性があるがゆえに、自由を想定可能であり、それゆえ、人間には自由である責任も伴うと言っています。「実践理性批判」
カントは、善意志そのものを理性と結びつけているのです。そうして、その善意志そのものからの行為のみを善意志による行為としました。
しかし、格律に関してはともかく、結果としての行為は、どうやっても現象界(自然界の法則が働く、一般に現実と言われるところ)と関わらざるをえません。その意味では、その場その場の状況に合わせざるをえないのです。
もちろん、結果には動機としての理性も関わりますが、実際に起きた結果が純粋に理性だけということはありえません。それは自然界の法則にも従っているのだから。
だから、カントは結果よりも動機を重視しているのです。
もちろん、結果には動機としての理性も関わりますが、実際に起きた結果が純粋に理性だけということはありえません。それは自然界の法則にも従っているのだから。
だから、カントは結果よりも動機を重視しているのです。
続いて、道徳判断の基準ですが、ここはある程度は理性が介入できます。自分自身に格律を立法するときに、それが普遍的なものかどうかを問うのです。理性とは普遍性を付与することで、カントはこれによって言明の客観性を担保できると考えました。例えば、「嘘をつくこと」を単に自分の格律とすることはできます。しかし、いつ、いかなるときも、そして、理性的存在者の誰もが嘘をつくということは意志できるでしょうか?
それは土台無理な話です。そうすると、それは普遍的には意志できないとなります。
(実はこれを深く考えてひとつひとつの事例を考えていくといろいろと矛盾や世の中の常識とは違うことが倫理的な命題となってしまうため、また、様々な命法が純粋に理性だけによって導き出されたとも言い難いため、今ではあまり人気がありません。)
続いて、付随的にもうひとつの道徳判断が出てきます。それは、最初に善意志はまったき善であると言いましたが、カントは善意志を理性とも言い換えてもいます。それ故に、それは理性的であり、理性が関係する格律によって、人格を、つまりは、(私自身の)人間性を保つものであると。
それがゆえに、理性的存在者たる人間は、人間それ自体を目的とせよとされるのです。
ここに人間の尊厳という考えがあります。
自殺について
「人倫の形而上学」では、人間それ自体を目的とせよという当為から、他殺と自殺は同じものだとして、自殺の禁止を主張しています。
ストア派は自殺もひとつの権利であり、道徳的だと主張していたのに対し、カントは、なんらかの道徳的な実践において善を全うする可能性を最低限保持するためには、まず前提として、生きていなくてはならない(実存していなければならない)ゆえに、生命の維持が、つまり身体が不可欠であり、自殺は禁止すべきだと考えていたようである。
平等について
そしてまた、理性を有するという点において、平等という概念がそこから導かれなくもないという感じですが、批判や基礎づけにおいては、平等についてまで表立っては言明していません。
0 件のコメント:
コメントを投稿