2020年7月5日日曜日

VRとは何か?

仮想現実

バーチャルリアリティの訳語だと言われるがむしろ、バーチャルとリアルとは語源を辿ると相対しているものではない。

しかし、日本語での仮想という言葉は、仮に想定されることであって、現実ではないことを意味している。

仮想現実とは、あくまでも(現実に近い)仮想を指す言葉として使われているのであって、仮想に近い現実を指すのではない。
次元において、二次元(2D)は、仮想の仮想たるものとして認識されうる。アニメやマンガなどがそれだろうが。
西洋画が遠近法に始まり三次元的なリアルを極めようとしてきたのに対し、日本画は二次元的なものを極めようとしてきた、というような論述はいくつか見受けられる。そうして印象派のころに、日本の二次元的なものを極める態度を浮世絵版画の輸入から西洋によって再発見されたという。
そしてまた、アニメや漫画の文化の日本独自の発展が再び西洋に輸入されるとか。
そういえば、人形や絵に魂(ギリシャ語でアニマ)を吹き込むことをアニメーションと言うようですね。

では、三次元(3D)とは?
三次元空間性が3Dの所以である。実際の三次元空間と三次元空間性とは少し違う。三次元空間性とは、三次元空間っぽさが現れていれば良いのである。
この三次元空間性こそが現実性(リアリティ)であろう。
しかし、単なるアニメに対する実写だけでは3Dと言われず、3D眼鏡をつけて、さらに三次元空間性を強調したものを3D映像と呼んでいるようだ。

ヴァーチャルリアリティ(VR)の中でも、最近、VRと呼ばれるものは、それにプラスして私の意志で私の視点で動くと言うことが追加される。

ただ三次元空間性のみでは現実性(リアリティ)そのものとは言われえない。聴覚はもちろん触覚や嗅覚、味覚などの感覚を総合して現実性(リアルな感じ)を作っている。そうすると、現実とほとんど変わらなくなってくる。(それを4Dとか5Dなどと呼んでいるところがあった。遊園地のアトラクションだったが。数学における「次元」とは意味が違ってしまってはいる。)

しかしながら、ここにはひとつの危険性が潜んでいる。
仮想現実が仮想であるがゆえに、現実性を過度に付加し過ぎてしまうようになる点である。それは反動的なのである。3D眼鏡にしても、現実においては、いつも3D眼鏡で見ているようには見えていない。3D眼鏡はリアル(現実)よりもリアルなのである。

そうして人は、仮想現実で現実よりもリアルなものを体験することで、現実よりもリアルな仮想現実を求めるようになる。

そうして、それがリアルだと思い始めるのである。

カントは「芸術は自然を模倣する」と言ったが、高松次郎は「現実は芸術を模倣する」と言った。

AVが過度に激しいセックスを提示したことで、これがリアルなセックスだと男に思わせてしまい、男はAVを真似するようになるように。

VRは人にここまで過度にリアルな体験こそがリアルなのだと提示することで、人は現実にも、それほどのリアルな体験を求めるようになるだろう。

それを補うためなのか、AR(拡張現実)というものもある。ポケモンGOに代表される。リアルにヴァーチャルリアリティのリアルさを付加するという意味での拡張だ。

それだけではない。3Dに2D的要素、つまりアニメや漫画の要素が付加されうるのだ。そして、むしろ、それこそが、VRのおもしろいところだろう。


そうして日常の現実は色褪せる。いや、すでにスマホから手がなかなか離せなくなった我々の日常はすでに色褪せているのではないだろうか?

その発端は一次元にある。二次元、三次元の説明はしたが、一次元とは?

きっと、文字だろう。

文字の羅列により成立する書籍というのが、最初に現実よりもリアルなものを提示し、本の虫を量産したのかもしれない。




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