「不思議の国アリス」はそもそも言葉と論理のナンセンスがたくさん散りばめられている。
それをシュヴァンクマイエルは、言葉を極力減らして映像化した。それはなぜなのか?
アリスは、シュヴァンクマイエルの作品群の中でも、粘土より家具や人形のほうが出てくる。
アリスの周りで命を持って蠢いているのは、アリスが日常で接してきた物である。
つまり、物にアニマ(ギリシャ語で魂)が吹き込まれたアニメなのである。
原作では、特にそのように書かれていない。
むしろ、論理や言葉による遊びが目立つ作品となっている。
例えば笑うチェシャ猫に関していえば、「チェシャ猫が笑うよ」という慣用句だけが原型でない。
チェシャ猫の体が消え去り、ニタニタ笑った口だけになると、アリスはこう呟く。
「私、笑わない猫なら見たことあるけど、猫なしのニタニタだなんて!」
こういう論理的なナンセンスなので、言語抜きには表現できないものなのである。
英語特有の言い回しやジョークもあり、多国語への翻訳も難しいと言われる。
ところが、シュヴァンクマイエルは言語を極力減らしてしまった。
アリスを本当の少女ならと仮定して想像を膨らませたのだ。
本当の少女ならば、まだ言語の扱いに慣れていないに違いない。
ならば、論理と言葉がそんなに豊富なわけがない。
むしろ、田舎の少女のごっこ遊びを思い出そう。
そこでは、すべての登場人物が日常品を使って繰り広げられる。
靴下が芋虫になる世界なのだ。
そして、そいつらが語るそこまで論理的文学的ナンセンスの少ない言葉は、アリスの声によって語られる。
アリスが登場人物に語らせるのである。
また、アリスは小さくなることもできる。
それは人形に「私は小さくなってしまった」という台詞を与えるだけで良い。
つまり、少女の妄想というものを忠実に再現しようとしたのがこのアリスなのである。
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