2020年8月1日土曜日

錬金術師の夢と、シミュラークルな贋金造り、そしてコロナによる芸術への攻撃

シミュラークルと本質?

贋金造り

金や銀などの貴金属によって硬貨が作られていた時代、贋金作りたちは、様々な手法を用いて、金に似せたものを作ろうとした。

しかし、贋金は似せれば似せるほど本物たりえない。それは贋金を構成している物質が違うからである。

彼らは金や銀に混ぜ物をしたり、別の安価な金属を使って純金や純銀にできる限り似たものを作り出そうとしてきた。

なぜなら、純金や純銀によっては贋金を作ることはできない。純金や純銀そのものがあるなら、贋金を作る必要がないからである。

だから、その末裔は本物の金や銀を作ろうと試みた錬金術師たちである。錬金術師たちはあくまでも「本物の」金や銀に拘っていた。その試みは失敗に終わったのだが。


一方、高利貸しなど金貸業者は、本物のお金を作り出すことに成功した。それも金や銀に全く似せることなく。彼らは人々から金や銀を預かったとき、預かったことを証明する証文を渡した。紙切れ一枚である。

しかし、人々は、この証文を金の代わりに何かを買うときの支払いに使った。なぜなら、その証文をホンモノの金や銀と交換することができるのだから。これがお札の起源である。

これは彼ら高利貸しがお金というものの見掛けではなく、お金の本質を捉えていたからである。

私は、お金の本質とは「信用」であるように思う。

我々が日常から使う日本銀行券は日本国への信用があるから、その日本銀行券はそれが示す価格と同等なものとして使えるのである。

それと同じように、昔の高利貸しも金や銀と同等なものとして交換できるという信用の伴った証文を発行したのである。


ベンヤミンとボードリヤール

芸術作品におけるオリジナル/コピー/シミュラークル

ところで、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」という論文を知っているだろうか?

太古における芸術というものは、鑑賞者を必要とせず、神への供儀として「今そこで」催されているということが重要であった。社の中で神のために舞踊が行われていても、一般の俗人は見ることができない。社の外から、拝むのみなのである。そして、そこに伴う芸術性のひとつとしてアウラ(aura/霊気)というものがあると、ベンヤミンはこれに注目した。アウラは「エロス的な欲情を喚起するような対象が発するものであり、幼年期に特有の至福の神的経験において現れる対象がもっているような性質」とされている。ベンヤミンはこのアウラが時代を経て複製技術によって失われ、逆に鑑賞者が必要になったのだと指摘した。 複製技術の最初で最も革新的なものは「文字」であるように思われる。 文字に複製して残すことで、もはや「今そこで」催されているかどうかということは関係がなくなるが、一方でその文字などの複製技術によって複製された芸術作品を鑑賞する者(鑑賞者)が必須のものとなるのである。これが読者の誕生である。 こうした複製品はそれが複製されたものであるがゆえにオリジナルとは程遠くなっていく。 その先にあるのがシミュラークルなものである。

シミュラークルとは、ボードリヤールが提唱した概念で、見掛け上の類似品という意味である。

最初のオリジナルから次第に芸術作品は何度も何度も複製を繰り返される。

そうすると、もはやオリジナルを必要としない。それが作られる最初から複製品なのである。

しかし、それはオリジナルに対する模造ですらないことによって逆に現実を構成する重要なものへと転化する。

シミュラークルこそが現実であると。


それを推し進めると、たった今説明した複製前の最初の「オリジナル」というものすら、それを想像することで今現在を「偽物として」設定してしまうための虚構の物語であり、それもまたシミュラークルであり、それに対応するオリジナルが実在しなかったということにもなるのである。


「動物化するポストモダン」東浩紀

東浩紀という日本の哲学者はこのさらなる先に「データベース」を見る。さまざまな作品は、萌え要素のデータベースから組み合わされたものであり、それはもはやシミュラークルとも異なるものである。

このデータベースによる要素はその作品の「わかりやすさ」というものとして現れると思う。

先が読めないものやよくわからないものではなく、むしろ積極的に先が読めてしまうわかりやすい物語が求められるのである。


例えば、ディズニーの様々な作品は深く読み解いていくと、そこには女性の自立や積極性というものが次第に露わになっていく「愛」と「夢」との哲学が明らかになるのだが、誰もそこまで読み解こうとはしない。そして、さらには物語そのものの感動というものも単なるありきたりな要素としてしか消費されない。むしろ、そこに出てくるキャラクターの表面的な「かわいさ」の要素というものにばかり固執するのである。彼女らにとってはディズニーランドこそが第一のものであり、作品はあくまで二次的なものなのである。


冠(ラテン語でコロナ)が芸術からアウラの喪失を加速させる

ライブハウス、小劇場、コンサート会場、ホール、、今では新型コロナウィルスによって、さまざまなライブとしての意味を保った「舞台」が失われつつある。

ライブ、つまり生(なま)。複製技術によって失われたアウラだが、実は観客の目の前で繰り広げられるライブ性ことによって、さまざまな仕方でアウラの回復が試みられてきた。

それがコロナの脅威によって余儀なく中止、延期、自粛がなされる。その結果、人々はみな直接対面せずともつながることのできる媒体インターネットへと走る。

こうして、演劇をZOOMで行ったり、音声配信したり、ライブを生中継したりといったことが行われるようになる。しかし、そこでは何かアウラのようなライブ性が失われているのではないだろうか?

しかし、まだアウラを取り戻す可能性はある。


むしろ、太古の芸術を復活させ、観客を必要としない演劇を行ってみるというのも今だからこそできる逆説的だがチャンスかもしれない。

演劇関係の知り合いから伺ったのだが、かつて寺山修司は書簡演劇なるものを行っていたらしい。これは毎日手紙が送り届けられそれを通じて演劇体験をするというとても奇妙なものである。


本質というものが徹底的に失われたポストトゥルースと呼ばれる今、

「それの本質は何なのか」それを今こそ考えなくてはならない。


追記

偽イデア

本物のイデアになろうとすればするほど、より本物が際立つため、決して本物にはなれない。イデアに似せるから、偽イデア。それこそがこの現実に目に見えているすべてのもの。

しかし、イデアに似せようとする代わりに、それ(?)をイデアの代わりに置いたら、どうなのだろうか。




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