2020年7月8日水曜日

神への信仰とは?

神を信じるとは、どういうことなのだろうか?
神の存在を信じるだけでは、神を信じることにはならない。
神の存在を信じた上で、あえて冒涜することを「神を信じる」とは言わないからだ。


そこには常に神の意に沿った善行ということが含まれている。
しかし、そこでは、常に神の意志はわからないということが含意されている。
実存主義の祖、キルケゴールは、それが不合理であっても神の意志に従うことを信仰の跳躍(leap of faith)と言った。

ドイツの哲学者カントは神を善行から切り離し、善行は神無しに理性によって可能だとした。それがひとつの近代の始まりである。

実存主義の主体の実存とは、ドイツの哲学者シェリングの神の実存から来ていると言われる。

聖書などの経典を読み解き考えることと、善行や修行などの鍛錬があり、認識へと至る。

最近、ニールウォルシュという人が書いた「神との対話」を読んだが、非常に興味深かった。そこに書かれていたことと、私の考えとを書こう。

神がいるとすれば、それは聖書や経典などの書物という形で語るとは限らない。むしろ、それ以外の方法で語ることの方が圧倒的に多いのである。

神はあなたの心に直接語りかけていると。

聖書などはそもそも神から聞いた言葉を書き留めたとされているもの。それはその神の言葉を預かった預言者に向かって語りかけたもので、時代を経た今のあなたに語りかけた言葉ではない。

しかし、声は様々な形をとって、私の中に入ってくる。それはあるとき開いた聖書の言葉かもしれないし、たまたま目に入った広告の言葉かもしれないし、親や近親者の声かもしれない。しかし、重要なのは自分が聞くべき声なのかどうかということ。自分が聞くべき声だけが神の言葉なのだ。
しかし、少なくとも、神の語りかけはあなたを強制はしない。それはとても静かに理性に対して訴えるからだ。

1人でいるときに聴くその声はどんな声なのか?

まさに幻聴という仕方で心に聞こえる声を聞くこともできる人もいる。しかし、幻聴は大抵、強迫的で悪いものであることが多いし、狂人でない大抵の人はそんな明白な声は聞こえない。

ドイツの哲学者ハイデガーに言わせるなら、それは声なき声、沈黙という形をとった声だろう。

それが沈黙の声であれば、こう言う。「あなたはその選択でいいの?」と。いや、正確には何も言わない。ただ不安になっただけかもしれない。いや、不安に惑わされずに静かに自分の心に住まうその神の言葉を聞いたら良いのだ。

それへのこちらからの応答はおそらくは「感謝」、そして、すべての芸術創作は神に捧げられるものであった。

神を親に喩える人もいるが、それゆえに神に誤った像を見てしまう者もいる。しかし、神は親ではない。
あなたを育てた親はあなたを愛してくれたかもしれないが、逆にあなたに様々なことを要求し、あなたを親にとっての都合の良い子供に仕立てようとしたことが少なからずあるかもしれません。

絶対的な無償の無条件の愛、それが神の本懐だが、そうしたものを現実に備えているはずの個人の親は様々なのだ。

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