議論にして頭で納得がいくが、実際の心が納得していないというのが、頭だけ出して、その心を口に出すことで矛盾を明らかにしたくないという固執。
フロイトはここに注目して、自我は自分自身が一貫した無矛盾な存在だと信じ、それが矛盾分裂していることなど認めたくないのだと指摘した。
しかし、そこにこだわりすぎることによって、必要以上に矛盾しうる心を強く否定してしまう。
例えば、それが他人の言葉であろうと、その矛盾しうる心に引っかかるならば、それも強く否定するだろう。
もし、その事項が個人的に精神的に重要で、その矛盾を口に出せないとか、そもそも、私は無意識では子供を欲しているのに反して「私は子供など欲しくない」と思っていると思い込んでいる場合に、「子供Kodomo」の代わりに音が似た「鼓動kodou」が早くなるとか、神経症などの症状として現れるとフロイトは考えていたようだ。
パラノとスキゾ
パラノイアparanoia(偏執病)
スキゾフレニアschizophrenia(精神分裂病、統合失調症)
パラノイアというのは、ひとつの誇大妄想だが、例えば、「私の物を誰かが盗んだ」というパラノイアがある場合、あらゆる情報は「私の物を誰かが盗んだ」ということに都合よく結びつけ、その反証となるものは無意識に隠してしまうか、否定してしまう。
「今あなた身をかがめて私の物を盗ったでしょ!そうに違いない。だってさっき見たときにはあったものが!あ、あのとき雑誌を読んでたわね。あの雑誌で隠したのよ。そうに違いないわ。あなたが否定したって私にはわかっているのよ。」
自我が一貫した無矛盾な自己を求めるがために、その自我を保つために不都合な情報を必要以上に否定しようとするということ。フロイトはそれに注目していた。
精神分析における「否認」という考えは、ここに由来している。
(「否認」とは、人は認めたくない事実ほど、必要以上に拘って否定しようとするということである。)
例えば、実験において、常に判断は誤られる。それはその因果に依るものか、単なる観測の誤差なのかが微妙だからだ。(確か、科学哲学のトマスクーンだったか、実験器具の技術的発達が精密なデータの観測を可能にするとき、パラダイムがシフトするための土台ができると言っていた気がする。もはや、惑星の惑う動きをプトレマイオス的な複雑な数学記述ではより精密なデータを説明できなくなると。)
例えば、構造主義の哲学者フーコーは、「狂気の歴史」において、理性や科学によって理解し難い者をすべて狂人として名付け、それは「何かが間違っており、異常であり、病気である」と判断し、病院に送り込んだのだと言っていた。それもまた、自我が一貫した自己を保つためのひとつのパラノイアなのではないだろうか?
そのことによって、哲学の歴史は、理性偏重(そして、主体偏重、体系的な学問偏重)のパラノイアの歴史なのだとされた。
ところで、哲学者ドゥルーズとガタリは、パラノイアへの反抗としてのスキゾフレニアを提唱する。あらゆるものをひとつの観念と結びつけていくパラノイアに対し、スキゾフレニアはすべてがそのときどきであり、分裂していて一貫性があまりない。(完全にないわけではない)それ故に、パラノイア的な偏りに陥らないのだとか。それだけでは彼らの言いたいことにはまだわからないことが多分にあるのだが。
しかし、彼らの主著「アンチ・オイディプス」とは、エディプスコンプレックスの提唱者たるフロイトの注目したこのパラノイア的なものへのアンチらしいことが朧げながらわかる。
これを念頭におくと、20年前に流行っていた浅田彰という哲学者が「構造と力」という本においてそれをわかりやすく提示していたのがわかる
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