2020年7月6日月曜日

記憶と行為(無意識の行動の恐ろしさ)

今日、店に毎年カキフライを買いに来るおばあちゃんが来て、忙しかったのでちょっと待って、と言ったらキレて帰ってたのよ。
で、10分後に店であったことおそらく何もかも忘れてもう一度カキフライを頼みに戻ってきたのね。

記憶喪失をしてもさ、箸の使い方とか覚えてるのはそれが習慣的な記憶だから、という考え方があるよね。
おばあちゃんにとってカキフライ買うのもそこで定型的な会話するのも習慣的な記憶に則ってやっていて、もう彼女には自意識なんてなくて習慣的記憶で動くロボットのようなものでは、と冷たくも思ってしまうんだ。

普段の人たちにもそういう風に思うことがあって、この人たちはほとんど思考でなくこれまでの記憶に当てはめて反応してるだけで、自意識があまりないのではないか、とね。
喋りかけると同じセリフしか言わないRPGの村人のパターンが多いバージョンに過ぎないのでは、と。
ひどい話なのだけど(笑)

そんな風に思うことってない?


似たようなことは考えてるよ。
じゃあ逆に習慣的記憶で動くロボットの反対、つまり、我々の目指すべき理想の人間とは何だろうか。あなたはどんなとき、自意識があり主体的に生きていると感じますか?
あるいはどんなとき他人を見てこの人は主体的に自意識を持って生きていると考えますか?

.「習慣的記憶で動くロボット」の対極は「自意識があり主体的に生きていること」で正しいだろうか。
2.それは我々の目指すべき理想の人間なのだろうか。
3.習慣的記憶で動くロボットと自意識があり主体的に生きている人間との間に、本質的な違いはあるだろうか。他人のそれは見分けられるのだろうか。自分のそれは見分けられるのだろうか。

難しいね(笑)
違うかもしれないのだけど、ハッとした瞬間に、自分のそれまでの認識を揺らがずような瞬間に、もっとも自意識、主体性を感じる、かなあ。
変化していくこと、が主体性かな。
それまでの自意識が崩れるとき、新しい自意識が立ち上がってくるときが最も自意識が生き生きとしているんじゃないかなあと取りあえず考えている。
同じく、変わり続ける人が自意識があり主体性があると思う。

1、対極ではない、と思う。
習慣的記憶は僕らの生きる上で必須だと思う。
習慣的記憶のない自意識というものは考えることができない。

2.理想の人間かは分からない。
そこは考え中。

心理学者の岸田秀は、内面というものを
外へ向かう力が外へと発散されず内側へ向かって出来たもの
というようなことを言っている。

例えば調子いいときには人は何も考えない。
反省する時は必ず壁にぶつかったときだ。
外へ向かう力が壁にぶつかり内面へ向かう。

だから内面とはネガティヴなものだと岸田秀は言っている。

もし自意識とはこれまでの人生の不具合の集積によって出来ているとしたら何も考えてない方が幸せじゃないかとも考えられる(笑)

3.とても難しい。
分からない(笑)

主観的には、ロボット的な人たちの共同主観があり、自意識、主体性を持っている人たちの共同主観があるんじゃないかなあ、という風に思ってはいる。

概ね考えてること同じだと思う。
「習慣的記憶のない自意識というものは考えることができない」とは、要するに習慣的記憶の前提の上にしか自意識は発生しないものということなのか?

それとも、「習慣的記憶のない自意識」が思考という動作をすることは不可能であるということか?

主観的には、ロボット的な人たちの共同主観があり、自意識、主体性を持っている人たちの共同主観がある
とはロボット的な人たちと、主体的に生きる人たちはそれぞれ別次元で生きているということなの??

それとも、
習慣的記憶によって振る舞う地平と、主体的に振る舞う地平とが混交する2つの次元が人間達にあるということ?

習慣的自意識の上にしか自意識は発生しない、ということ。

ロボット的な人と主体的な人は異文化だということ。
主体的な人たちはそれと知らず共同の文化圏みたいなものの中にいるんじゃないかと思って。

(動物学)自然発生論的には、人間のいわゆる意識や個体としての意識が生まれたのは遅く、その意味では、「習慣的記憶の上にしか自意識は発生しない」というのは正しい。これは単に時間的な前後である。

「習慣的記憶の上にしか自意識は発生しない」を必然性に基づくと考えるとするとどうか。
自意識そのものは、習慣的記憶によらなければ成立しない理由はない。これはデカルトが見抜いている通り、コギト「我思う」は記憶を含めたあらゆる事柄を疑うことによって独立してそれ自身の存在を定立せしめられるからである。

「技術は、(細分化してみれば)機械化の総合である。」
これは私自身の言葉であるが、卓越した技術というものは、細分化された1つ1つの単純なものの総合なのであるというものだ。
自転車で曲芸をやるためには、まず大前提として自転車に乗れなければならないが、はじめて自転車に乗り、乗ることはできるものの、意識していないと倒れてしまうような人ではまだ曲芸を覚えるのには早いと考えるだろう。
自転車に普通に乗るのが完全に自動化(習慣的記憶化)してから、その次の段階に進むに違いない。それも、自転車に乗れるからとすぐに曲芸を覚えるのではなく、まずは自転車を手放しで運転することが自動化され、次に自転車に立ち乗りができることが自動化され、そのような形で一歩ずつ自動化による総合と前進を進めることが技術を推し進めることなのである。
こうして、前進するためには新しい行為の自動化を推し進めるために主体的に行為することと習慣的記憶とが交差する場となる。
この意味では、あらゆる変化に適応していこうとするこうした前進する主体的人間的行為は、習慣的記憶にも基づくと言わざるを得ない。

こういう体験はあるだろうか。
毎日、通っていた道沿いで、建物が潰され、空き地ができていた。それを見て、元は一体どんな建物が建っていたのかが思い出せずにいることがある。それどころか、そもそもそんなところに建物が建っていたことすら、意識していなかったことに気がつく。
普段、毎日通っていた道なので、見てないはずはない。しかし、まったく思い出せない。その建物は風景の一部と化し、視覚として捉えてはいたものの、意識は完全に素通りしてしまっていたのだ。もし空き地ができていなかったら、今まで通り意識することはなかっただろう。
自転車に乗るとき、その乗り方をいちいち意識しないことや、こういうことを含め、我々は常に習慣から逃れられない。心理学では「自動化」と言ったりするが。そして、こんなことは日常茶飯事だし、自動化がなければ生き難い。
しかし、重要なのは、何を意識して、何を意識しないかだと思われる。

スペインアニメ映画に「しわ」というタイトルの映画がある。
老人ホームで生活することになった老人が自らがアルツハイマーに侵され、ものを忘れ、何度も同じことを繰り返してしまったり、日常的な事物の認識が困難になり、服を着たりご飯を食べたりすることが困難になってきていることに、気が付いた時、どうすべきなのだろうか。
習慣的記憶に埋没してしまうアルツハイマーの老人たちはそれでも、なんとかして、埋没を防ごうとするが、結局はぼけてしまう。
「ボケてるんだ。前に座ってるのがカボチャだろうがわかりゃしない」
「いや、わかってると思う。彼はボケても大切なことはちゃんと分かってる」
そういうやりとりがあり、結局「分かっていた」ということが証明される映画であった。
このアルツハイマーの例は少し極端だが、「ひとは分かっていてもやってしまう」、そういうことがたぶんにある。その意味では、主体的に生きているのかどうかは、見かけだけでは全く判断することはできない。

一方、他人ではなく自分自身の自意識の場合、デカルトのいう通り、自己への意識があるときと意識がない(あるいは朦朧としている)ときの差は明晰判明だろう。

いったい自意識はどのようなときに最も明晰判明なのか。

それは外界との衝突や孤立である。先ほど挙げた岸田秀樹の言っている通り、それゆえに自意識のある内面はネガティヴに陥る傾向がある。

そして、ここで肉体と精神という問題がある。はたして肉体を伴う精神が世界と衝突ないし孤立するとき、自己意識がより明晰判明となるのか。それとも、肉体と精神とが衝突ないし孤立
するときのほうなのか。

ここに隠れているのは、いわゆる行動というものが習慣的記憶化していないか否かという問題である。
あらゆる行為は細分化すれば習慣的記憶の集積であって、そこから生み出されるにすぎないのだから。肉体が思うままにならないかたわ者こそ精神を意識できるだろう。

しかし、肉体を精神から分離するだけでは未だ自由ではない。習慣的記憶にはもちろん九九の暗記などの肉体を介しにくい類のものがある。そうしたものすらも自らの意識に対抗するとき、すなわち、自身がバカであるということを明確に感じるような問題にぶち当たるときこそ、自意識を感じることになるではなかろうか。つまりはアルツハイマーに苦しむものこそそうした最も主体的な自意識に近いのだ。そして、その病状ゆえに同時に最も遠くなるものでもあるのだ。

ところで、習慣的記憶という言葉を多用してきたが、この言葉は適切なのだろうか?
たとえ、自ら選んだ行為であっても、同じことの繰り返しである場合がある。おばあちゃんが揚げ物を買うという行為は、習慣的記憶によって買う場合と、習慣的記憶ではなく、ある一定の条件(お腹の減り、揚げ物の広告を見る、身体に脂っこいものが大丈夫な状態)が揃うとおばあちゃんが揚げ物を買いたいという意志が発動するため、偶然的に起こったことかもしれない。

しかし、そうした内部構造的なことが問題なのではない。記憶とは、ある場所に物理的に一定の方法で書き留められた本やデータのようなものではなく、ここでは、もっと大きく捉えられるものかもしれない。記憶を繰り返しを可能にする諸条件と定義して見ることは可能だろうか。

こうしたことが可能であれば、これらの概念をまとめて記憶と呼ぶこともやぶさかではないだろう。

先ほど、肉体と精神の関係について考えた。しかし、この考えは未だ本質はついていないかもしれない。

捉えられていないのは、行為の本質である。先ほどの理論でいくと肉体や外界に対して自分が自由でないと感じられれば感じられるほど外界から自由であり、完全に主体的な行為は存在しなくなるが、本当にそうなのだろうか。

変化への自意識には少なくとも二種類ある。
主体自体の変化と、何らかの変化を認識することである。両者はどこが異なるだろうか。

そういえば、
サルトルという哲学者は実存主義において、こうした意識と行動とのことについて考え続けました。
サルトルの実存主義について知りたい方
9/27(日)に名古屋市栄の特殊書店ビブリオマニアにて、初心者から哲学について学べる講座、哲学会を行います。
ぜひご参加ください。オンラインでの参加もできるようZOOMでの公開も考えております。
講師:安部火韻


哲学会はほかにもたくさん行っております。
やってほしいテーマなどありましたら、ご提案ください。

7月26日15時~古代ギリシャ哲学
8月22日15時~カントの認識論
8月23日15時~カントの倫理学
9月27日15時~サルトルの実存主義
10月18日15時~論理哲学(アリストテレスとヘーゲルの論理学の違い、入不二、マクタガート)
11月22日15時~時間を哲学する(中島義道、マクタガート)
12月20日子供とは何か?「子供」を哲学する

2021年 純粋哲学から批評系哲学へ
1月24日フランケンシュタインとその系譜(仮)聖書やギリシャ神話からSFまで。
2月21日ドラキュラとその系譜(仮)ゾンビとヴァンパイア

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