2020年6月30日火曜日

日本語の「空気」と、サルトルの「まなざし」

サルトルは人間は自由な存在者であるとも言っていますが、その逆に、常に他人のまなざしに晒される存在者であるとも言っています。



何かを行為するにも、常に誰か他人のまなざしがある。それは時を経て自分に内在化し、他人がそこに実際にいなくとも、自分自身で自分を省みるようになる。それが心のひとつの側面になる。それが内省。

内省といえば、カトリック教会の「告解」の歴史は、西洋人の内省的な姿勢を形成するのに関与したとか。
そしてまた、フーコーがベンタムのパノプティコンという一望して管理・監視できてしまうシステムの概念を用いて。現代においてはさまざまなところで監視システムが働いている。人は、どこで相手に見られているかわからないため、常に鏡を見て、自分がどのように見えているかを考えるよう強いられているというようなことを指摘しました。

何をするにしても他人のまなざしから逃れられない。
この他人のまなざしに晒されることで、人は流行や慣習に(文字通り)流され慣れ習う。

しかしながら、他ならぬ私自身のまなざしもまた他人を刺す。まなざしに対してはまなざしで返せば良いのだとサルトルは考えた。

まなざしの交差するこの世界で私がどのような行為を選択するか、それがまた新たなまなざしとして人類全体に関わる。
人間とは何かの答えは自由であるとサルトルは答えたが、しかしまた、自由とは未だ答えはないという意味では答えになっていない。むしろ、人間は自由によって自ら見出した答えを行為し、まなざしの交差する歴史によって人間とは何かのそのときどきの答えを出し続ける。
他ならぬこれを読むあなたが、他人のまなざしに対して、どのようなまなざしを返していくかが、人間とは何かの答えを形作る要素になるのだ。

日本語の「空気を読む」ということとは全く異なる概念だが、まなざしに左右される感じ、少し重なる部分もあるようです。
そういえば、

サルトルという哲学者についてもっと知りたい方は、ぜひお越しください。
サルトルの実存主義について知りたい方
9/27(日)に名古屋市栄の特殊書店ビブリオマニアにて、初心者から哲学について学べる講座、哲学会を行います。
ぜひご参加ください。オンラインでの参加もできるようZOOMでの公開も考えております。
講師:安部火韻

哲学会はほかにもたくさん行っております。
やってほしいテーマなどありましたら、ご提案ください。

7月26日15時~古代ギリシャ哲学
8月22日15時~カントの認識論
8月23日15時~カントの倫理学
9月27日15時~サルトルの実存主義
10月18日15時~論理哲学(アリストテレスとヘーゲルの論理学の違い、入不二、マクタガート)
11月8日15時~キルケゴールとハイデガー(前期)
11月22日15時~時間を哲学する(中島義道、マクタガート)
12月20日子供とは何か?「子供」を哲学する

2021年 純粋哲学から批評系哲学へ
1月24日フランケンシュタインとその系譜(仮)聖書やギリシャ神話からSFまで。
2月21日ドラキュラとその系譜(仮)ゾンビとヴァンパイア

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