-精神分析について読みたい方へ-
私自身が精神分析医ラカンによるフロイトから学んだことはなんだろう。
それは、精神分析的な技法、いや態度か。
ボロメオの輪に関して、ラカンが自分で提唱しておきながら、デタラメだと言ったりもしている。そして、フロイトも、自らの提唱に次々と修正を加え、後期では、前期の性的なものにあまりに固執した思想とは、違った様相を呈している。
はて、私はラカンの言っていることの内容よりも、その技法の方が大事だと考えるべきなのではないだろうか?
フロイトが取り上げたユダヤの冗句にこういうものがある。
a「君はクラクフに行くのか?」
b「そうだ」
a「いいや、君はクラクフに行くと言いながら、私にレーンベルクに行くと思わせようとして、本当はクラクフに行く気なんだろう。」
「君はそう言うことによって、何を言いたいのか」
ここで精神分析的な態度として「君はそう言うことによって、何を言いたいのか」というものが挙げられる。
例えば、誰かある女性が「最近、太ってしまって困っているの」と言った時に、それはそう言うことによって、私に何を言いたいのかを考えなくてはならない。問題の解決を求めているのか、それとも、太ったことに対して、否定して自尊心を高めてほしいのかもしれないし、太ったことをアピールすることで、自分を性的対象から除外してほしいという意図があるのかもしれない。
つまり、本人が言ったことに対して、そのまま真に受けてはいけないということだ。
似たようなやり取りはホームズとモリアーティ教授の間でも行われている。
また、精神分析は常に臨床において構築される。
ラカンは、フロイト自身が自分の思想を社会学にも当てはめようと試みていたのを批判していました。
そのフロイトは、ユングがエディプスコンプレックスに対して容易にエレクトラコンプレックスを打ち立てることを観察に基づかない思弁だとして、批判しています。
ユングはフロイトが性的なものに関係がない事柄でも性的なものに結びつけようとしていると指摘します。
しかし、彼らはそれぞれ思想は違えど、言っていることは同じともとれます。
それは、事象そのものを観想せよ、ということなのです。
観察、、
フロイトに影響を与えたシャルコーは、「その現象が何か語りかけてくるまで繰り返し繰り返し事象を観察せよ」と口酸っぱく言っています。
要するに、精神分析とは、常に患者との一対一の臨床から考えて行くべきだということなのです。
そうしてまた、あなたが精神分析的な技法を身につけることによって、ラカン自身によって書かれたもの(エクリ)もまた、精神分析的な技法で読むようになります。
そうすると、ラカンがなぜこのような思想に至ったのか、ではなく、ラカンはなぜこのように難しく語ったのかを考えるようになっていきます。
なぜあえてこんな小難しい言葉ばかり使うのか?
そうすると見えてくるものがあるかもしれません。
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