2020年11月6日金曜日

哲学的ゾンビの話 ~ピクミンは生きているか?~

哲学的ゾンビという思考実験があります。


哲学的ゾンビとは、見た目も行動も会話もすべて自然で違和感ないのに、実は、その人には心がない。

自分以外のすべての人が哲学的ゾンビならば、自分以外のすべての人は私が今感じているような「こんな感じの心」は存在していない。

例えば、針が刺さった人が痛みを感じて「痛い痛い」叫びながら、のたうち回っているが、実はそのように見えて、本当のところはまったく痛みなど感じておらず、機械的にそのような行動を取っているだけ。

そんな想像をしてみよう。


そんな想定をしても、なんら矛盾はない。


でも、ちょっと怖くないですか?他人が心のないゾンビだなんて。


しかしちょっと考えてみましょう。

ピクミンというゲームがあります。それはピクミンという生物を何十匹も育てて、何かしらのミッションをクリアするというゲームなのですが、その過程でたびたび外敵に襲われ、ピクミンはすぐに死んでしまいます。

そのゲームをする際にある女性は「ピクミンがすぐ死んでしまい、可哀そう、でも外敵を倒さないとミッションをクリアできないから、戦うしかないけれど、こんなにも死んでしまって申し訳ない気持ちになる」と言っていました。

彼女から逆に「あなたはどうか」と聞かれて

私はこう答えました。

「うーん、そのゲームをしたことはないけど、死ぬとは言っても単なるゲームのプログラムだと思っているから、かわいそうとは思わないんじゃないのかな」と私は答えましたが、相手は納得できないようでした。

つまり、そこに心が実際にあるのかどうかはあまり関係がなくて、心があるようにみえるかどうかが重要であるという人もいるのだなと思いました。

ゲームのうちではそこにピクミンの生命が存在しているのです。

その意味では哲学的ゾンビというのは逆説的に他人に心があるのかどうかは関係がなく、「哲学的ゾンビだろうと、彼は彼として、その人はその人として私に現れている」それで十分な気がします。

しかしながら、この問題は、「身内が認知症になる」、植物人間や脳死「ロボットが人間と見分けがつかなくなる」といった具体的な問題が現れた時に顕在化します。

「それでも彼は彼だ」と思うのか、「彼を今までの彼と同じ心を持っているとは思わないほうがいい」「ロボットはやはりただの機械だ」「ロボットも人格と心を持つようにふるまっている家族だ」とするのかどうか。

これは今後も当たっていくだろう問題のように思われます。


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