『「分かれ道」を通るためには、ひとは誰でも選ばねばならない。』
そう寺山修司は言った。ならば私はこう返そう
私は選べぬ、選びたくないがために「分かれ道」の前でいつも立往生している。
しかり
すると、「分かれ道」はひとつの「道」から、ひとつの「壁」へと変貌を遂げる。
最近また中島義道や永井均を読んでいる。
日本の反社会的で魅力的な哲学者たちの言葉にどれほど多くの人がからめとられたか。
「いまさら、会社に入って、ニコニコ顔で、物を売り、金を稼ぐことなどできるか!
俺は、世間をとことん軽蔑して生きていきたいのだ!
お前らはみんな馬鹿だと言って生きていきたいのだ!
しかも、こういう俺の生き方をほかならぬお前らから保証されたいのだ!
どこまでも反社会的姿勢を貫きながら、そのこと自体が社会から認知され尊敬さえされる唯一の場所は、芸術であり文学であり哲学である。
だが、これがうまく運ぶためには、「反社会的特権社会」において成功しなければならない。
それは大変難しく、またこの社会で敗者になったら、あとはない。
完全な敗残者になるだけである。それは恐ろしい。
こうして、青年はずるずる勝負を引き伸ばし、不戦敗を重ね、「どうしよう、どうしよう」と呟きながら、ひきこもっているのである。」
中島義道『人生に生きる価値はない』より
山月記の主人公はまさにこのような心境によって、虎になってしまったのだが、本物の虎になれればまだマシなのである。
現実には虎にさえなれないのだ。
共感できる人いますか?
ひきこもりについての中島義道の講演で(以下引用)
『初老の紳士が手を挙げた。
「どうしたら、彼に生きがいを見つけてやれるでしょうか?」
中略
彼は知的で温厚そうな紳士であり、自分のごまかしを、汚さを、ずるさを微塵も恥じている風には見えなかった。
そこが問題なのである。
その言いようもない鈍感さに、息子は全身で抗議しているのである。
社会のルールに従って、仕事において評価され、結婚して過程を守ることがそんなに立派なことなのか?
それがあんたの生きがいなのか!
それに何の恥も覚えないのか!
想像力をたくましくして、自分は極悪人かもしれないと思うことが、人生において一瞬でもなかったのか!
それほどあんたはおめでたいのか!
偉いのか!
その偉そうな面を下げてこの俺を導きたいのか!
息子が父親に問うているのはこのことである。』
そして、引きこもりについて、親に対して引きこもりの心情を代弁し訴えた後、中島義道は引きこもりの本人たちにもずるいと言い切る。
「ひきこもりとは両親に対する復讐にほかならないからだ。
両親がおろおろすればするほど、おもしろい、途方にくれればくれるほど、喜びがこみ上げてくる。
彼は、じわじわ相手の心身を滅ぼしていく復讐の喜びをもって人間として最も卑怯な輩に転落したのだ。
彼は時折は「死んでやる!」と自殺をほのめかす。
実際、両親を足腰立たなくなるほど痛めつけるためだけに自殺もいいかなあと考える。」
そうですね。
確かにちょっと過激に思われるかもしれません。
「世間を見下したい」という感情がそこまで激しくないひきこもりもいそうではある。
まあ、基本的には中島義道の彼自身の経験での感情ですから。
なので、事実かどうかは問わず、共感できるかどうかを問いました。
私はひきこもりではありませんが、個人的には共感しました。
そういえば、柳美里という作家さんが自殺についてのエッセイを書いているのですが、三年後のいついつに自殺しようと決めて、毒薬などを準備して、生活すると、途端に1日1日が充実し、積極的にいろんなことに興味を持ったり経験を味わったりするようになったとか。
心に「私はいつでも死ねる。だから、なんでも挑戦できる」
そんな感覚になるようです。
普通の幸せこそが一番だとは思いますよ。
反社会的の究極の形は犯罪者ですし、ひきこもりも、芸術家にも、誰もそれになるべきだとは言いません。
中島義道は、できないから諦めているのではなく、積極的に不幸ではあっても誠実な生き方を選びたいし、その意味でそういう生き方しかできないから、それを選ばせてくれと言っているのです。
そして、今後死ぬのではなく、今死ぬかもしれないのだよと警告するかも。
なかなか真似できぬ変人です。
私は普通の生き方でもいいと思います。
中島義道のような生き方を徹底することはかなりのエネルギーが必要で疲れてしまい、私もできません。
私が部分的に切り取ってしまっているので、誤解を招いているようですが、中島義道の言いたいことを代弁すると、
おまえはひきこもりであることを恥じて苦しんでいる。
そして、親にそのことを感謝し、すまなさや自己嫌悪を感じているだろう。
だけど、そこに微塵も親への復讐感情がないと言えるのか!?
親に復讐してほくそ笑んでいる部分が全くないと言えるのか?!
いや、あるだろ!
それを自覚せよ!
他にはそういうひきこもりはいるかもしれないが自分は違うとか言う自己欺瞞はやめろ。
自分がどんなにクズなのかを自覚せよ、そして、それを病気だの親への感謝の気持ちはあるだのと言い訳を人に決してするな。
本当に自覚しているなら、そのような言い訳をしないはずだ。
あと、そんな自分に嫌気がさすからといって、自殺もするな。
と言っている私自身が全くその通りなので、ずるいんだけどもね。
と私が自分に言い訳してしまった!
というかなりあくどいし厳しいし本当のところはわからないことですので、もはや私は感服してしまうほどです。
世間的には反感しか買わないことを言っています。
きっと誰かを自殺に追い込んでいるかもしれないと彼自身も思いつつ、だからこそ、自殺をするなと口酸っぱく言っているのか。
そんな感じです。
全くもって、中島義道は、(精神的にとか世間的にという意味で)いい方向に向かわせたいわけではないです。
彼自身の道徳宗教の布教活動のように思われます。
彼自身の第1の道徳はいかなる場合であろうとも「道徳的であれ」ということです。
道徳的であるとは、善人であることとは全く違います。
私は何も悪いことはしていないといいはる善人よりも、むしろ犯罪に手を染めて、そのことがずっと心に体に引っかかり続け、「俺がしたことはどうだったのだろうか」と答えのない問いに引き摺り回され身も心もボロボロになる状態が道徳的ということです。
第2は「嘘をつくな」ということです。
例えば、殺人鬼がやってきて、まみさんを探しているとします。そして、私に聞かれたら、私は嘘をつかずにそこにいると真実を答えるということです。
そして、そのためなら、他のすべてのものを犠牲にせよということらしいです。
中島義道は、自分自身がそれができず、自分がずるいことに苦しみながら、それを嘘を絡めて、魅力的な言葉で、ひきこもりなどの弱者に寄り添うかのようにして語りますが、場合によっては最後に、真実によって突き落とします。
読んだのは、そんな感じでした。しかし、反社会的とはこういうことです。
私は一部分に共感しましたが、中島義道は共感も求めていません。
共感など求めていないと言いながら、共感の念を起こす本を書き、中島義道自身がそれについて言い訳をするという。
多くの人からして、受け入れられない本だとは思います。
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