今回は、心身二元論の議論の歴史をたどって見たいと思います。
プラトンは、イデアとイデアの似姿としての現実という二元論を提示した。
イデアは正確には善や真理などの概念が指しているそのもののことであり、精神あるいは心の領域と見なしうるため、心身二元論の原型と言える。
イデアは正確には善や真理などの概念が指しているそのもののことであり、精神あるいは心の領域と見なしうるため、心身二元論の原型と言える。
例えば「永遠」というものは誰も見たことがない。
にも関わらず、我々が永遠について語る。
それは、むしろ「永遠」との対比によって有限さを認識するからだ。
なぜなら、生前にいたイデアの世界で本物の「永遠」を見ていたから、それを思い出したのである。
にも関わらず、我々が永遠について語る。
それは、むしろ「永遠」との対比によって有限さを認識するからだ。
なぜなら、生前にいたイデアの世界で本物の「永遠」を見ていたから、それを思い出したのである。
また、「三角形の内角の和が180°」などの数学的な定理からもわかる。
この世界のあらゆる三角形を調べてみて、その内角の和が180°からズレていたとしても、また、誰も三角形を見たことがなかったとしても、この数学的定理はイデアとして存在し正しいと言える。
一億三千万角形は誰も見たことがないし、もしもこの宇宙に物理的に存在してないとしても、イデアとしては「ある」と言えるため、その一億三千万角形にはどのような法則があるのか考えることができるし、現実にその似姿を再現することもできる。
この世界のあらゆる三角形を調べてみて、その内角の和が180°からズレていたとしても、また、誰も三角形を見たことがなかったとしても、この数学的定理はイデアとして存在し正しいと言える。
一億三千万角形は誰も見たことがないし、もしもこの宇宙に物理的に存在してないとしても、イデアとしては「ある」と言えるため、その一億三千万角形にはどのような法則があるのか考えることができるし、現実にその似姿を再現することもできる。
それに対してアリストテレスは、プラトンのイデア説の不備を批判し、人間の身体と精神は2つの異なる実体ではなく、ひとつの統合体であり、精神とは人間の身体の形相であると考えた。
あらゆるものは4つの原因によってある。その本質である形相因、それを受肉する質料因、未来に実現される目的因、過去の最初である始動因。
アヴィケンナは、宙に浮く人間という思考実験をし、身体感覚がなければ、身体を持っていることが認識できないが、魂(意識)の実在は認識できるため、魂は身体から区別されていると考えた。「治癒の書」魂について
トマス・アクィナスは、アリストテレスに影響を受けたが、考える自己とは身体内で諸感覚を感じる自己と同じものだと考えた。
例えば足の痛みは、船乗りが船に穴が空いているのに気づくような具合に、外部から観察して知るわけではないから。
例えば足の痛みは、船乗りが船に穴が空いているのに気づくような具合に、外部から観察して知るわけではないから。
デカルトは、方法的懐疑によって、すべてを疑おうとも思惟する自己自身は疑いえないと考え、自己としての思惟と身体としての延長を区別した。コギトエルゴスム(わたしは考えるゆえに私は有る)と言う。
しかし、その思惟実体が延長実体といかに関わるのかを魂のありかである松果体という器官の相互作用だと説明しはしたもののうまくいってはいなかった。「省察」1641年
しかし、その思惟実体が延長実体といかに関わるのかを魂のありかである松果体という器官の相互作用だと説明しはしたもののうまくいってはいなかった。「省察」1641年
ホッブズは、唯物論的機械論。
ロックは二元論。第一実体、第二実体
バークリーは、観測せずとも万有引力の法則は存在するとしたニュートンに反抗し、存在するとは知覚することであるとして観念論(唯心論)を唱えた。
存在は必要もなく増やしてはならないという「オッカムの剃刀」的な考えを突き詰めたら、物質などという考えは無駄であり、捨てるべきだと言う。
ただし、神様が大前提としてあり、論難した時に出てくる。
存在は必要もなく増やしてはならないという「オッカムの剃刀」的な考えを突き詰めたら、物質などという考えは無駄であり、捨てるべきだと言う。
ただし、神様が大前提としてあり、論難した時に出てくる。
現在の量子論によって、観測することと(その場所に物理的に)存在することとの相関関係が認められ、その意味では偶然にも当たっているとも言えなくない。
カントは、「純粋理性批判」にて、認識可能な範囲内を規定し、それが人間に固有な認識の枠組みによるものだとし、それから離れた物そのものについては認識不可能なものとして判断を退けた。
しかし、「実践理性批判」にて、人間は現象としての側面と理性的な側面との両方に属しており、なおかつ、現象へと還元され得ない道徳律を想定し、想定しうるという意味で自由意志はあるとし、法学の基礎とした。
そして、「判断力批判」で再び2つの批判によって復活してしまった目的論的な世界観と機械論的因果的世界観とのアンチノミーに対し、2つは双方同時に成り立つとしている。
それは現代ではストローソンやリッカートなど新カント派によって、自然の世界の物理的な領域とは並行して別の仕方で語りうる人間特有の意味の領域として再定義される。
ショーペンハウアーは、カントが認識不可能とした物そのもののうち、まず私に自明なものは私の意志であり、身体はその客体化したものであると唱える。
そして、それならば、(無機物等も含めた)あらゆる現象は意志が客体化したものだと唱えた。「意志と表象としての世界」
そして、それならば、(無機物等も含めた)あらゆる現象は意志が客体化したものだと唱えた。「意志と表象としての世界」
ヘーゲルは、心的なものと物理的なものが精神という新たな綜合において存在しているという「絶対的観念論」を提唱した。
これは、観念論でも唯物論でも唯心論でも心身二元論でもなく、心身が一つの根本的実体の二側面だとする絶対的観念論の考え方である。
これは、観念論でも唯物論でも唯心論でも心身二元論でもなく、心身が一つの根本的実体の二側面だとする絶対的観念論の考え方である。
非物質的なものは、物質的なものに対し、個別対個別として関係しているのではない。
個別を橋かけ、個別を抱く真の普遍として、個別に関係しているのである。
個別を橋かけ、個別を抱く真の普遍として、個別に関係しているのである。
ジュリアン・オフロワ・ド・ラ・メトリは、デカルトの精神のある人間とは違って動物は機械であるということを、人間の生命にも適用し、徹底的な唯物論を唱えた。
脳髄は考える筋肉であると「人間機械論」1747年
脳髄は考える筋肉であると「人間機械論」1747年
数学者ノーバート・ウィーナーは計算機械も生物における神経系も同じ構造を持つことを考案しサイバネティクスを創始。人工知能技術の進歩に貢献した「人間機械論~サイバネティクスと社会~」1950年
ドイツの脳科学者G・ロートは最新の脳科学の知見に基づき、「私ではなく脳がそう決断するが、意志の自由は幻想に過ぎない。」と 唱えた。
現代の脳科学では、脳の認知は神経細胞が「表象」を処理する物理化学的過程に帰依できると考える「表象認知主義」が主流となっている。
現代の脳科学では、脳の認知は神経細胞が「表象」を処理する物理化学的過程に帰依できると考える「表象認知主義」が主流となっている。
ニーチェは、西洋は、ユダヤ・キリスト宗教的な起源が由来の真理への意志によって科学という強力な力を得たが、そもそもそうした真理への意志を含めたすべては強く生きんとする力への意志による解釈によって作られた世界に過ぎないとした。
ウィトゲンシュタインは、前期は独我論者とも言われる。
が、論理空間において写像される対象の組み合わせとその真偽については語りうるが、それ以外のその論理空間自体や主体や道徳などの語り得ぬことについては沈黙せざるを得ないとした。
重要なことに、語り得ないものは存在していないとは言っていない。
おそらくはカントの物自体のような扱いだろう。
しかし、その後、あらゆる言説はすべては何かしらの特殊なルールに則り行われる言語による言語ゲームに過ぎないと言うようになる。
つまり、哲学的諸問題それ自体が言語ゲームに過ぎないとした。
が、論理空間において写像される対象の組み合わせとその真偽については語りうるが、それ以外のその論理空間自体や主体や道徳などの語り得ぬことについては沈黙せざるを得ないとした。
重要なことに、語り得ないものは存在していないとは言っていない。
おそらくはカントの物自体のような扱いだろう。
しかし、その後、あらゆる言説はすべては何かしらの特殊なルールに則り行われる言語による言語ゲームに過ぎないと言うようになる。
つまり、哲学的諸問題それ自体が言語ゲームに過ぎないとした。
ハイデガーは、「存在と時間」においては、未だ主体と客体の対立関係が残っていたが、その後、主体と客体の関係からはなるべく語らず、存在そのものの現れから語ることを試みた。
ギルバート・ライルは、二元論者の自己を「機械の中の幽霊」と揶揄し、カテゴリーミステイクだと主張。
自己という機械を引き合いに出さなくとも、人間が世界の内部でどのように知覚し活動しているか説明するとは可能だと考えた。「心の概念」1949年
自己という機械を引き合いに出さなくとも、人間が世界の内部でどのように知覚し活動しているか説明するとは可能だと考えた。「心の概念」1949年
→"ghost in the shell"攻殻機動隊に影響を与えている
トマス・ネーゲルはコウモリの主観的な体験をコウモリの生態や神経系の構造を調査するといった客観的・物理主義的な方法論ではたどり着くことができず、意識の主観的な性質は、科学的な客観性の中に還元することはできないとした。
もし、あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら
「空を飛ぶことは怖い。けれどちょっぴり楽しい」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ちが悪い。でも食べなきゃ死んじゃう」とか、「洞窟の天井にぶら下がって眠るなんて変な眠り方だ。落っこちないかな」などと思い至ることだろう。
しかし、ネーゲルが問うているのは、そうした人がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」である。
つまり、コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか、である。「コウモリであるとはどういうことか」1974年
もし、あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら
「空を飛ぶことは怖い。けれどちょっぴり楽しい」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ちが悪い。でも食べなきゃ死んじゃう」とか、「洞窟の天井にぶら下がって眠るなんて変な眠り方だ。落っこちないかな」などと思い至ることだろう。
しかし、ネーゲルが問うているのは、そうした人がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」である。
つまり、コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか、である。「コウモリであるとはどういうことか」1974年
ディビッド・チャーマーズは、1994年、心身問題を意識のハードプロブレムと呼び、哲学的ゾンビという思考実験を使って、科学生理学に還元されえない心の領域を論じた。
仮に"哲学的ゾンビが存在する"として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。
物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。
仮に"哲学的ゾンビが存在する"として、哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。それは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。
物理的化学的電気的反応としては、普通の人間とまったく同じであり区別できない。もし区別できたならば、それは哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビである。
しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、"意識(クオリア)"というものが全くない、という点である。
哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。
哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。
「意識する心」1996年
マルクス・ガブリエルは、心身を自転車とサイクリングに喩えた。自転車がなければサイクリングはできない。
しかし、だからと言って、自転車=サイクリングとは言えない。
こうして、新実存主義の存在論を展開した。
だが彼は心身二元論ではない、それ以前の「世界はなぜ存在しないのか」にて、そもそも世界という全体性(何かある一つの統一体)を認めていない。
むしろ、その全体性に組み込まれていないあらゆるものが存在するとした(新実在主義)。
しかし、だからと言って、自転車=サイクリングとは言えない。
こうして、新実存主義の存在論を展開した。
だが彼は心身二元論ではない、それ以前の「世界はなぜ存在しないのか」にて、そもそも世界という全体性(何かある一つの統一体)を認めていない。
むしろ、その全体性に組み込まれていないあらゆるものが存在するとした(新実在主義)。
心身二元論の歴史を辿ってみて、どうでしたか?
心脳還元主義は、脳科学やサイバネティクスを発展させているという意味ではとても意義深いとは思います。すべては還元できるという信念がなければ、そもそも脳の解明や人工知能に取り組もうとはしないですから。
しかし、いずれは、その残りのもの(クオリア)がどのようになるかが露見してくるでしょう。
そして、宗教や法学や芸術や人文科学など主観的と言われやすい領域のすべてが脳に還元されるなら、脳や素粒子物理学を極めれば、それらの問題が解決するのでしょうか?
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