2020年5月5日火曜日

カントの「崇高」とショーペンハウアーの「意志」、そして、表現主義の不条理性

新カント派のリッケルトが言うには、ジンメルが生の哲学と芸術における表現主義とを繋げて考えていたと言っていたらしい。

では、カントの「崇高」概念によって、表現主義の不条理性を捉えることは可能でしょうか?

結論から言うと、それはあまり適当でなく、ショーペンハウアーの「意志」の「表象」の方が妥当だと思います。



まず、表現主義とは何でしょう?

映画「カリガリ博士」に
ムンクやシーレやファイニンガー、カンディンスキーの絵画、
カフカの小説、
ゴットフリート・ベンの詩集、
シェーンベルクの作曲に、
日本の暗黒舞踏にもかなりの影響を与えたノイエタンツのマリー・ヴィグマン、
メンデルスゾーンによるアインシュタインの相対主義に影響された建築物アインシュタイン塔に至るまで具体的な作品群
があげられますが、それらを統一することはかなり難しいと言えましょう。

(一般にはムンクとカフカとエゴンシーレぐらいしか知られていないようですが。)

また、表現主義は、ニーチェやゴッホやゴシックやロマン主義などとも重なる部分や影響が多いため、一概には語れず、それをひとまとめにするのはひとつの暴力のようなものでもあるように私には思われます。

ですが、あえて表現主義の発端から、演繹的に考えてみましょう。



表現主義はもともとは絵画において印象派に対するアンチテーゼとして始まりました。

さて、どういうことでしょう?

日本語訳の「印象」とか「表現」とかを見てもわかりにくいと思います。しかし、フランス語や英語やドイツ語になおして比較すればすぐにわかります。


表現主義、ドイツ語でExpressionismus と書きますね。

つまり、表現(エクスプレス)とは、内から外に押し出すこと。
心が世界に投影されることなのです。

印象派はImpressionismusですから。

こちらは印象(インプレス)、つまり、外から中へと押しつけられるということです。

つまり、表現主義とは逆に世界が心に写すもの。



さて、話はカントに移ります。
カントは純粋理性批判(第一批判)、実践理性批判(第二批判)、判断力批判(第三批判)を書きましたが、
第一批判では、理性 対 自然(世界)であり、問題意識は科学にありました。
第二批判では、理性 対 自己(意志)であり、問題意識は道徳に。
第三批判では、理性 対 感性(特に構想力) 対 自然であり、問題意識は美と崇高に、ありました。

真善美の順になっています。

では、ここで表現主義というテーマからして、美的判断の一般を探求した「判断力批判」を見てみましょう。


そもそも美や崇高とは何でしょう?


カントによると、美は、構想力と悟性との一致により成立し、崇高は構想力と理性との間の矛盾によって成立します。

ここで、不条理性とは矛盾と関係しそうですのでそれに近そうに思われる崇高について考えます。


例えば、神様を絵に描くとしましょう。

神は世界を支配している爺さんのイメージがあったりするのですが、
しかし、よくよく考えると、そんな神は支配する人間とは何も変わらない。

だとしたら、神を人間に似せて考えること自体が間違っているのではないでしょうか。

神を抽象度の高いもの、例えば「完全性」だと考えるとき、それはもうイメージすることはできない。

例えば古代ギリシャのクセノファネスは神の完全性を円に喩えられるだろうと言っていましたが、人が円をイメージすると、もはやそれも神とは違っています。

まったく捉え損ねているのです。

しかしながら、あえてそれをがんばって想像しようというそのぎりぎりのとき、崇高という感情が生まれます。

(これをわかりやすさのため、神様で喩えましたが、カントは神様ではなく自然全体で考えています。ところが、カントの考える理性によって推論される究極の自然の全体、あるいは究極の自然の原因などは当時のアカデミックな業界での神の言い換えなのです。)



ところで、先ほど述べたように、印象派は、外界からの印象を模倣した作品で、表現主義は自身の内なる意志を表現した作品です。

カントの判断力批判に即すと、なんとなく印象派は美を目指し、表現主義は崇高を目指すとも言える気がしてきます。

特に、美と印象派との関係は妥当してる気がします。(深く考えると違うかもしれませんが)

反対に、表現主義では、自分自身が不条理な世界に組み込まれていることを描くのに対し、カントがその際に対象としているのは基本的には私という主体から離れて感受される自然(世界)なのです。

なぜなら、カントは、安全圏にいるほど崇高の念を感じると言っているからです。

例えば、カントが31歳の時、リスボン大地震がありました。

もしもカントが自分がその最中にいたならば、崇高を感じるどころではない。

その災害の最中で自分の身を守り、人々を助け、あるいは助けられ、未来を案じ、神を信じれなくなるかもしれない。

しかし、カントはそれを遠くから報を聞き、想像し、考察し、地震についての論文まで書いていました。
その震災を対岸から眺めていたら、その自然の強大な力に圧倒されて崇高の念を感じれる。
つまり、それは、いわばテオーリア(観想)的なのです。


私はカントに近い人物として、生の哲学にも入れられるショーペンハウアーの哲学をカントとの比較において考察してみようと思いました。

ショーペンハウアーは「意志と表象としての世界」にて、(簡略化するが)次の三つの事柄を述べています。

1. ショーペンハウアーは、世界は何か盲目的な意志が表象したものの総体だと考えていた。

それは、カントが「純粋理性批判」では認識不可能とした物自体を、「実践理性批判」にて道徳律と関係する「意志」によって取り出したところに注目しているようです。

ショーペンハウアーはそれは道徳律と関係せず、むしろそれ自体における盲目的な「意志」だとしました。それはいわば自己保存欲求の主体ようなものであるが、ショーペンハウアーによると、世界のすべてがそのような意志によって表象されて存在するとされるのです。


2.その上で、ショーペンハウアーは歴史をヘーゲルのように進歩の道とは見ず、つまり、理性による闘争の解決など、うわべに過ぎず、実際にはないとしました。

そして、単にそれぞれ盲目的な意志が生存のため闘争を繰り返しているだけだと考えました。


3.そのような世界は、理性的な行為によっては何事も変えられません。

ショーペンハウアーは、世界を変えたりすることなどには諦めを感じ、哲学や宗教や芸術によって、自らを慰めることに生きがいを見出しました。

つまり、悲観主義、ペシミズム。


すると、印象派が外的な世界の印象を描いていたカント的な自然美(崇高とは違うが)であるのに対し、表現主義は意志の表出をそこに体現したショーペンハウアー的な意志の表象したものであると見た方がより的確に見えます。


また、表現主義の不条理性と、ショーペンハウアーの悲観主義とも親和性があります。

世界を良くしようとなんらかの行為をするとしても、結局は叶わず挫折するというのは、不条理のひとつですが、それはまた悲観主義への道程にも繋がっています。

(これを乗り越えようとしたのがニーチェ。表現主義はニーチェとも関係すると言われますが、ニーチェは無意味であることに新たな創造を可能にすると喜びを見出すため、暗い表現主義のイメージはそれとはまた違っているように見えます。私の個人的な感想ですが。)

カントの道徳論においては、善意志が注目されます。

実は、善意志とは、それ自体において善なのです。

つまりは、世界がいかに不条理だろうと関係がなく、その善意志が理性によって立てられた道徳律に従おうとするところ(自律)に道徳的な実践が成立するとされ、その行為の結果はさほど重要視されません。

そうして、人は実際に善を目指そうとしますが、自然の制約としての人間の幸福追求への欲求(傾向性)がそれを邪魔するのです。

不条理の中で、強い善への意志によって、行為し続ける者は描けるかもしれません。

その意味では、表現主義の不条理よりかは、不条理を哲学した文学者カミュの「ペスト」にて描かれた人間像は近いように思われます。

というのは、カミュはその小説で、神を信じないが自分にできる人助け、せねばならぬことを黙々と遂行する平凡な市民を描きました。

カントも神なしに道徳を打ち立てようとする試みに挑戦しているのです。

(ただ、神の存在自体をまったく受け入れないカミュとは違い、カントにおいては神の存在の要請はされます。)


こうして、表現主義においてはショーペンハウアーの意志が、カミュの反抗的人間においては、カントの善意志が、対応できる可能性があることが示唆されました。

(あまりに多様な作品の一群である表現主義やカミュのさまざまな著作などの細かい部分を見ていけば、これらの論自体は簡単に崩壊する気もしますが)

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