ネオ高等遊民さんがカントの「実践理性批判」を解説する動画を見た。
だが、ネオ高等遊民さんはカントの著作そのものはあまり読んでないということがわかる。
ネオ高等遊民さんはこう話していた。
我々は自然法則には逆らえないが、道徳法則には逆らえる。例えば、嘘はついてはならないが、嘘がつけてしまう。だから、我々人間は自由だ、とカントは見抜いた、と。
これは全然違う。
実際に、実践理性批判を開いてみよう。
「道徳律は実践理性の自律、すなわち、自由を現すものにほかならない。」「欲求の質料が法則可能の制約として実践的法則にはいってくる場合には、そこから、或る衝動もしくは傾向性に従おうとする恣意、つまり自然法則への依存という他律が生まれる。…(中略)…たとい、そこから生まれる行為が合法的であっても。」第8節の定理4
自然法則とは、「なんらかの生成には必ずなんらかの原因がある」という原因と結果の連鎖であるとカントは考えている。
例えば、ある人が自分の失敗を嘘をつかずに正直に話す時を考えてみよう。
なぜ彼は正直だったのか?
・親がちゃんとしつけたことが一因かもしれない。外的な要因
・嘘をついて後でバレてよりこじらせてしまうとめんどうだからということが一因かもしれない。内的な要因
いろいろ考えられるだろう。
彼が正直であるという行為をするのに、そうした原因があるとは、行為をただの自然現象として捉えていることになる。
つまり、彼がいろんな原因によって嘘をつかないのは、コップが重力という原因によって落ちるのと同じなのだ。そこには自由はない。
では、自由であるとはどういうことなのか?
例えば、殺してやりたいと思っているやつ(私の息子を殺した殺人鬼とか)が、私以外誰もみていない場所で溺れかけており、彼は泳げないのでそのままでは死んでしまうことがわかっている。
普通なら、そんな人でなしそのまま死んでしまえと思うし、生かしておいたら、彼はまた人や自分を殺すかもしれない。つまり、助けても、社会にとっても自分にとってもなんのメリットもない。
にも関わらず、彼を助ける理由もなしに「そんな彼でも助けなければならない」と、そう思えてしまう心があなたのどこかにないだろうか?
なければ、そこでおしまいだが、あればカント哲学を理解する鍵となる。
どうしようもない彼を助けること。そこに「そうすべきだから」という以外になんらの原因もないので、自然法則から完全に逸脱しており、「そうすべき」という私の理念だけに従っている。それゆえに自然法則から自由なのだと。
私は、半分は肉体(感性的な存在、現象、傾向に従う存在)であり、自然法則に完全に従っているが、半分は理性(自分の意志で普遍的な法則を立てられる存在)なのである。そして、理性というのは、今あるこの現状からぶっ飛ぶことができる。それはいつでもどこでも誰でも当てはまる言葉や概念、理念を扱えるということだ。我々はなんとなく日常を過ごしており、それとなく嘘をついたりつかなかったりしているが、理性(あるいは言葉にしうるもの、普遍性)は違う。
実際には、自分に負けて嘘ばかりついてしまっていても、その殺人鬼を見捨ててしまっても、後でバレるとめんどうだからという理由で嘘をつかないとしても、そういう実際に起きた事柄とは関係のないところに、理性はあるのだ。
それは「いかなる理由があれ、彼を見捨てるべきではなかった」「バレるとめんどうだという理由がなくても、嘘をつくな」という理念として我々に現れてくる。
カントの道徳は、例えば、誰にも強制されずに、私は「嘘をつかない」人間になる!と宣言するようなものである。「嘘をつかない」とは、いつでもどこでも誰に対しても嘘をつかない、自分がすぐに自分自身に負けて流されて嘘をついてしまう人間だとしても、それとは関係なく、それを自分自身の行動の法則にしようと自分で決意することである。
しかし、よくあるカントの自由の解説では、嘘をつくかつかないかのどちらにするかの選択の自由として解説されることが多い。
それはカントがその後に書いた宗教論の中では、自由の意味が変わり、選択の自由の意味になっているからである。つまり、カント哲学にも自由の意味が2つあるのである。
だが、「実践理性批判」の解説としては、それを丹念に読む限り、選択の自由という意味では決してない。
理性から出てくるカントの道徳論、解説↓
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